後半生と作品
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 10:11 UTC 版)
「ダビッド・アルファロ・シケイロス」の記事における「後半生と作品」の解説
1950年、シケイロスはオロスコ、リベラとともに第25回ヴェネツィア・ビエンナーレに初のメキシコ代表として参加し、世界中の喝采を浴びた。1950年代になった頃には、再びメキシコ政府から作品の委嘱が来るようになり、シケイロスはギャラリーや個人的なパトロンよりもメキシコ政府がよほど「進歩的」だと思った。そうして制作されたのが、1952年にメキシコシティのメキシコ国立自治大学の戸外に描かれた『El pueblo a la Universidad y la Universidad al pueblo(人民のための大学、大学のための人民)』と題された壁画だった。1957年には、メキシコ政府の委嘱で、同じメキシコシティのメキシコ国立歴史博物館(チャプルテペク城)に『Del Porfirismo a la Revolución(ポルフィリオ時代から革命へ)』を描いた。この壁画は大きさが405m²もあり、シケイロスの作品で最も大きなものである。 そのおよそ10年後、シケイロスの頑強な政治的意見とその声高な表明は、大衆同様、再び彼自身を懐疑主義に陥らせた。1958年にJorge Negrete Theaterに制作中だった『メキシコの演劇の歴史』が、委嘱者である国立俳優協会の圧力で、政府から中止を命じられたのだ。1960年にはメーデー暴動を扇動した容疑で逮捕されたが、その告発が虚偽のものであることは誰の目にも明らかだった。当然のようにおびただしい抗議の声があがり、有名な美術家・作家たちは1961年のニューヨーク・タイムズに広告を出してアピールした。不当な投獄生活を強いられつつも、シケイロスは絵を描き続け、その絵は売れ続けた。そして1964年の春、ようやくシケイロスは釈放された。 シケイロスの最後の、そして自身にとって最大のプロジェクトは、メキシコシティのPolyforum Cultural Siqueiros(en:Polyforum Cultural Siqueiros, シケイロス文化ポリフォルム)の多面壁画『La Marcha de la Humanidad en la Tierra y hacia el Cosmos(人類の、地球の、宇宙の行進)』である。着工されたのは1961年だが、拡張と作業の遅れで完成したのは1971年で、ただ複雑なメッセージであればいいという事前の命令書から生まれた壁画だった。大衆、とくに下層階級に容易に読み解ける美術作りを心得ていながら、この壁画にこめられたシケイロスのメッセージは解読が困難である。しかし、人類の進化の2つのヴィジョン——1つは国際的、もう1つはメキシコの伝統に基づいたヴィジョンを融合させているようである。それにしても、この壁画があるのは贅沢なホテル(Hotel de México)で、委嘱した所有者(Manuel Suárez y Suárez)が大富豪というのは、シケイロスの反=資本主義的イデオロギーに対する挑戦のようにも見える。
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