後半生と結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 15:10 UTC 版)
クラークは1942年以降は演奏も作曲もほとんど行わなかった。鬱病の慢性化した気分変調にさいなまれ、創作に対する励ましを受けられず、時に無遠慮で落ち込ませるような評価を受けたことも、彼女が筆を折ることにつながった。おそらく作曲に対して最大の障害となったのは、性役割についての彼女なりの考え方であろう。1944年に、旧友でジュリアード音楽学校のピアノ科教師ジェームズ・フリスキンと再会し、そのまま結婚することになる。クラークは、自分に家事と作曲を両立させることができるとは思っていなかった。「朝めざめて一番にするべきことがそれだと思わない限り、私に作曲をすることはできません。(実際、)夜になって寝る前に、最後に思いつくのが作曲なのです」。クラークは、家事の責任を持つことは作曲よりも大事なことだと考えた。クラークは、作曲することはやめたが、亡くなる直前まで編曲に取り組んでいた。結婚後は演奏もやめた。最後の作品は、結婚後に作曲された3曲のうちの1つで、 1954年に作曲された歌曲《神は木を作りたもうた God Made a Tree》(2002年出版)であろう。 レベッカ・クラークは、後に(パーシー・マイルズの遺産の)ストラディヴァリウスのヴァイオリンを処分して、王立音楽アカデミーにメイ・マクレ賞を創設した。メイ・マクレとは、若き日のクラークがしばしば共演した、親友の女性チェリストの名である。同賞は今なお例年、すぐれたチェロ奏者に授与されている。 1967年に夫フリスキンが世を去ってから、クラークは回想録『私にもお父さんがいた I Had a Father Too (or the Mustard Spoon)』を書き始める。脱稿したのは1973年だったが、決して出版しなかった。その中でクラークは、たび重なる父親の殴打や、よそよそしい家族関係がめだつ生い立ちについて述べ、それが自分の適当な居場所という考え方に影響を与え続けたのだとしている。音楽家としての野心を父親に認めてもらえなかったことや、自分ときょうだいが父親に手荒い扱いを受けたことは、彼女の作曲活動に影響を及ぼしたものと思われる。1979年にニューヨークの自宅で大往生を遂げ、火葬に付された。93歳であった。
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