後半生:王の反対者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/08 14:55 UTC 版)
「ヤン・ザモイスキ」の記事における「後半生:王の反対者として」の解説
1586年にステファン・バートリ王が没した。ザモイスキはジグムントの王位就任を助け、オーストリア大公マクシミリアン3世を担ぐ一部貴族たちの勢力と戦ってこれを退けた。マクシミリアン派はクラクフ市を攻撃したが、ザモイスキはこれを守りきり、さらに1588年にはビチナの戦いでマクシミリアン派を壊滅に追い込んだ。ザモイスキはマクシミリアン本人を追ってついにこれを逮捕、拘束し、ポーランド王位への野望を放棄することを約束させた上で釈放した。 しかし、ジグムント3世王が露骨に絶対王政を志向するようになると、ザモイスキは反対派に参加した。ジグムント3世王は自らが王位継承権第一位であったスウェーデンの王位戴冠を目指し、こともあろうにハプスブルク家との関係を急速に緊密化した。さらに国内ではザモイスキらの率いる改革派に常に対抗していた守旧派に近づいて行った。ジグムント3世はザモイスキの政治力を恐れた。しかし共和国の法律では大法官と大ヘトマンに対する罷免権は王には与えられていなかった。いっぽうザモイスキは、ジグムント3世王は共和国を狙う外国勢力の将棋の駒であり、無知な外国人に過ぎないと喝破していた。当時のローマ・カトリック教会と特にイエズス会は共和国における宗教的不寛容を広め、ジグムント3世はそれを支持していたが、反対にザモイスキは宗教的寛容の伝統の維持を訴えた。ザモイスキは、オスマン帝国などといった現実の脅威が迫っているなか、スウェーデンの王位をめぐる争いなどという無駄なことに共和国を巻き込むべきではないと警告した。ザモイスキの政治は、当時のヨーロッパに絶対主義が広まるなか、この流れに対抗していた共和国の合議制の立場を形づくっていた。王と大法官との間の確執は1592年の王国国会(セイム)で顕在化した。ジグムントがハプスブルク家に対しポーランド王位をハプスブルク家に譲るかわりにハプスブルク家がジグムントのスウェーデン王戴冠を支持するという密約を交わしていることを、ザモイスキが突き止めたのだ。ザモイスキはこのジグムントを退位に追い込むことに失敗したが、いっぽうで対トルコ政策上非常に重要な意味を持つモルダヴィア・マグナート戦争(英語版)における全権を獲得した。 ザモイスキはモルダヴィアを共和国とオスマン帝国との間の緩衝地帯にし、より持続的な平和を確保しようと計画していた。1594年にはモルダヴィア南部国境地帯へのタタール人の侵入を食い止めることに失敗したが、翌年にはツェツォラの戦い(英語版)でザモイスキ率いる約7,000の遠征隊は、オスマン帝国とクリミア・ハーン国の連合軍25,000に圧勝、公のイェレミア・モヴィリャ(英語版)をモルダヴィア大公に就かせている。1600年には、前年にモルダヴィアに侵入しこれを占領していたワラキア公かつトランシルヴァニア大公のミハイ勇敢公(英語版)と交戦、ブコヴァの戦い(ポーランド語版)にてこれを討ち、イェレミアを再度モルダヴィア大公位に就かせている。ザモイスキはイェレミアの弟シモン・モヴィリャ(ルーマニア語版)をワラキア公にも就かせている。ザモイスキはこのようにしてドナウ川中流域での共和国の影響力を拡大した。 1600年から1601年にかけてザモイスキは対スウェーデン戦争に参加、リヴォニアにおいて共和国軍を指揮した。ザモイスキの率いる方面軍はそれまでに侵入していたスウェーデンが拠点としていた場所を次々と奪還、1601年12月19日にはヴォルマール要塞(英語版)、1602年5月16日にはフェリーン要塞(ポーランド語版)、同年9月30日にはヴァイセンシュタイン要塞(ポーランド語版)を陥落させた。この精力的な一連の軍事行動は、いっぽうでザモイスキの健康を損ねた。彼は現場の司令官としての任務を退いた。 1605年6月3日、共和国とスウェーデン王国との激闘が続く中、脳梗塞で急逝した。
※この「後半生:王の反対者として」の解説は、「ヤン・ザモイスキ」の解説の一部です。
「後半生:王の反対者として」を含む「ヤン・ザモイスキ」の記事については、「ヤン・ザモイスキ」の概要を参照ください。
- 後半生:王の反対者としてのページへのリンク