岡山大学学園紛争
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1968年頃から激烈化していた大学闘争の余波は岡山大学にも及んだ。 1968年に陸上自衛隊三軒屋駐屯地の弾薬輸送車が構内の南北道路(大学管理下の道路であるが、岡山電気軌道の路線バスをはじめ一般の往来が許されている。元々は1907年に日本陸軍第17師団のために設置されていた。)を通行していたことに気づいた学生らが「弾薬輸送に反対する会」を結成し抗議活動を開始した。 大学当局は輸送車の南北道路不使用を自衛隊に申し入れ、自衛隊側でも学生らとの摩擦を避けるため検討することになったが、学生らは弾薬庫撤去を掲げ、9月17日にその第2回デモが行われた。このときデモ隊の最後尾の旗手が通行中の車両の妨げとなったのを注意しようとした警察官が南北道路に数メートル入り、これを警察官の大学構内への立ち入りであるとして反発した学生らと揉み合いとなった。更にこれを見咎めて駆け付けたパトカーが南北道路で停車し更に衝突はエスカレートし、応援に来た機動隊約30人らによって警察官に暴行を加えた2人が逮捕された。これに対し、大学当局は抗議声明を出し、逮捕された学生の速やかな解放や大学への陳謝を要求している。 同日夜半、学生逮捕に抗議する一部学生らが正門の西半分にバリケードを構築した。翌18日にはさらにバリケードが強化され自転車が通行できる程度の幅しか残されなかった。往来を妨害された市民から抗議を受けた大学当局は、警察当局へ「善処方」を要請し、学生組織「自治会連合会中央執行委員会」にバリケード封鎖の解除を要請したが、進展はなかった。 12月25日、上述の逮捕された学生1人が公務執行妨害罪・傷害罪の容疑で起訴されたため、「○○君を守る会」を結成した有志らが発起して翌1969年1月18日に1430人(委任状を含む。学生総数は約5500人)が集まり全学学生大会が開催され、「不当逮捕の白紙撤回」「岡山県警への謝罪要求の基本路線貫徹」「岡山西警察署署長の告発」等を決議し、それを大衆団交で確認することを大学当局に要求した。 大学当局は全学集会を3度(1月23日、1月25日、2月1日)にわたり開催し譲歩案も示したが議論は平行線をたどり、1月25日には法文・教育・理・農の4学部でスト宣言が採択され、医学部(2月5日)、工学部(2月8日)、法文学部第二部(2月11日)もストに突入し、ほぼ全学が参加した。このためこの年の入試は高校や予備校などの学外で分散して行われ、当日は受験者本人以外の入場はシャットアウトされた。入学阻止を図るヘルメット姿の全共闘系学生も現れたが、機動隊員や教職員らによって阻まれた。3月13日付の全共闘『叛逆』創刊号では、「東大・日大の闘争は帝国主義大学を否定し、解体させる戦いである。われわれは"破壊"の思想で武装した先頭集団を創出し、岡山大学の闘争をまさに国家-独占資本の非妥協的、永続的なたたかいとして泥沼的に発展させなければならない」と武装闘争宣言が出され、更に南北道路北口や事務室なども学生らに封鎖された。 大学当局から告発のあった2月15日の学長への暴行事件と3月25日の教授への傷害事件について、大学当局の許可と令状を得た警察による現場検証が4月12日に大学内で行われた。このとき、構内に入った機動隊500人に対して約150人の全共闘系学生らがコンクリートブロックや瓦を叩き割って投石を行い(両手で持ち上げるような大きな石も頭上から落としてきたという)、警察部隊の53人が重軽傷を負った。うち小隊伝令兼記録係であった26歳の巡査が搬送後に意識不明となり、同日午後8時40分に川崎病院内で死亡した(大学紛争で殉職した警察官としては、日大紛争に続き全国で2人目)。学生1人も怪我をし、岡大全共闘議長が逮捕された。死亡した巡査は前年10月に中国管区警察局から優秀警官として表彰されていた。岡山大学長の赤木五郎は肋膜炎で入院中であったが、事態を受け「わが大学の紛争のために、人命が失われたことは、いう言葉がなく痛恨のきわみです。私は大学の責任者として、深くその責任を感じています」との声明を出す。これに対し、岡大全共闘は「岡大紛争は四月十二日をもって非妥協の、かつ不退転の戦いとして、権力との血みどろのたたかいの代進軍を開始した。われわれの戦いの道は、ためらうことなく"安保粉砕""日帝打倒"の方向をうちたてることでしかない。岡大闘争はまさに東大、日大とならぶ全国学園闘争の最前線におしあげ発展させることに成功した」としている。殉職した巡査は警部補に特進し、警察勲功章・勲七等青色桐葉章・内閣総理大臣表彰・警察庁長官賞が贈られた。 4月27日、附属小・中学校のグラウンドで学生集会が開かれ、赤木学長が紛争解決を図り所信表明を行うが、学生らのデモやシュプレヒコールにより妨害され、途中で打ち切られた。後日、「バリケードがたとえ理念的には一定の意味をもつて設置されたものとしても、現実に被害を受けているのは地域の方々であり、大学関係者である」「あのバリケードを諸君らの判断によって一日も早く撤去するように努力していただきたい」「大学が自治を要求し、警察官の学内無断立入を拒むからには、学内においては一般社会よりもより厳しく法や秩序が守られなければなりません」などとする約1万字の学長所信が全教職員・学生に配布された。赤木学長は5月3日に辞任した。 この頃から教育学部学生を中心に結成された「一般学生協議会」等、紛争解決を目指す学生グループも生まれたが、スト支持派の学生らはヘルメットやゲバ棒で武装して抵抗した。5月12日には封鎖反対の学生らが教養部と法文学部の封鎖を解除したが、法文学部は再びスト支持派の学生らが再封鎖した。このとき学生・教職員数十人が負傷し、教職員4人が救急車で搬送された。 8月、大学の運営に関する臨時措置法が成立し、岡山大学は重症紛争校に指定され、更に文部省が10月中旬まで1か月以上授業が行われない大学に対しては入学試験を中止するとの意向を示した。苦境に追い込まれた大学当局は法文・教育・理・医の3学部の授業を9月16日に再開することを決定し、谷口澄夫学長は「妨害があっても絶対に排除する方針であり、不測の事態には警察力を依頼する」と強い姿勢を示した。 9月15日、機動隊約1000人・放水車2台が出動し、バリケードは撤去され、25人が不退去罪で逮捕された。これを受けて反対派学生は過激化して火炎瓶などを用いて破壊行為を行ったが、機動隊や教職員による警備のもとで10月までに全学部で授業が再開された。大学封鎖によるブランクの巻き返しのため、午前9時から午後9時までの受講を余儀なくされた学生もいた。一部で混乱があったものの、大学は平穏を取り戻し、10月15日までに機動隊は引き揚げられた(津島キャンパスからは10月13日)。 その後も、1973年に教養部の講師がボイコットを行ったことにより免職処分を受け、処分撤回を求める一部学生が暴力・破壊行為を行ったほか、1975年には岡山大学を拠点にしようとしたマルクス主義青年同盟によって岡山大学北津寮襲撃事件が引き起こされている。
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