岡山大学学園紛争とは? わかりやすく解説

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岡山大学学園紛争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 00:24 UTC 版)

岡山大学」の記事における「岡山大学学園紛争」の解説

1968年頃から激烈化していた大学闘争余波岡山大学にも及んだ1968年陸上自衛隊三軒屋駐屯地弾薬輸送車構内南北道路大学管理下の道路であるが、岡山電気軌道路線バスをはじめ一般往来許されている。元々は1907年日本陸軍第17師団のために設置されていた。)を通行していたことに気づいた学生らが「弾薬輸送反対する会」を結成し抗議活動開始した大学当局輸送車南北道路不使用自衛隊申し入れ自衛隊側でも学生らとの摩擦避けるため検討することになったが、学生らは弾薬庫撤去掲げ9月17日にその第2回デモが行われた。このときデモ隊最後尾旗手通行中の車両妨げとなったのを注意しようとした警察官南北道路に数メートル入り、これを警察官大学構内への立ち入りであるとして反発した学生らと揉み合いとなった。更にこれを見咎め駆け付けたパトカー南北道路停車し更に衝突エスカレートし応援に来た機動隊30人らによって警察官暴行加えた2人逮捕された。これに対し大学当局抗議声明出し逮捕され学生速やかな解放大学への陳謝要求している。 同日夜半学生逮捕抗議する一部学生らが正門の西半分バリケード構築した。翌18日にはさらにバリケード強化され自転車通行できる程度の幅しか残されなかった。往来妨害され市民から抗議受けた大学当局は、警察当局へ「善処方」を要請し学生組織自治会連合会中央執行委員会」にバリケード封鎖解除要請したが、進展はなかった。 12月25日上述逮捕され学生1人公務執行妨害罪傷害罪容疑起訴されたため、「○○君を守る会」を結成した有志らが発起して1969年1月18日に1430人(委任状を含む。学生総数は約5500人)が集まり全学学生大会開催され、「不当逮捕白紙撤回」「岡山県警への謝罪要求基本路線貫徹」「岡山西警察署署長告発」等を決議し、それを大衆団交確認することを大学当局要求した大学当局全学集会3度1月23日1月25日2月1日)にわたり開催し譲歩案も示した議論平行線をたどり、1月25日には法文教育・理・農の4学部スト宣言採択され医学部2月5日)、工学部2月8日)、法文学部第二部2月11日)もスト突入し、ほぼ全学参加したこのためこの年入試高校予備校などの学外分散して行われ当日受験者本人以外の入場シャットアウトされた。入学阻止を図るヘルメット姿の全共闘学生現れたが、機動隊員教職員らによって阻まれた。3月13日付の全共闘叛逆創刊号では、「東大日大闘争帝国主義大学否定し解体させる戦いである。われわれは"破壊"の思想武装した先頭集団創出し岡山大学闘争をまさに国家-独占資本の非妥協的永続的なたたかいとして泥沼的に発展させなければならない」と武装闘争宣言出され、更に南北道路北口事務室なども学生らに封鎖された。 大学当局から告発のあった2月15日学長への暴行事件3月25日教授への傷害事件について、大学当局許可令状得た警察による現場検証4月12日大学内で行われた。このとき、構内入った機動隊500に対して150人の全共闘学生らがコンクリートブロックや瓦を叩き割って投石行い両手持ち上げるような大きな石も頭上から落としてきたという)、警察部隊の53人が重軽傷負った。うち小隊伝令記録係であった26歳巡査搬送後に意識不明となり、同日午後8時40分川崎病院内で死亡した大学紛争殉職した警察官としては、日大紛争続き全国2人目)。学生1人怪我をし、岡大全共闘議長逮捕された。死亡した巡査前年10月中国管区警察局から優秀警官として表彰されていた。岡山大学長の赤木五郎肋膜炎入院であったが、事態を受け「わが大学紛争のために、人命失われたことは、いう言葉がなく痛恨のきわみです。私は大学責任者として、深くその責任感じています」との声明を出す。これに対し岡大全共闘は「岡大紛争四月十二をもって妥協の、かつ不退転戦いとして、権力との血みどろたたかいの代進軍開始した。われわれの戦いの道は、ためらうことなく"安保粉砕""日帝打倒"の方向うちたてることでしかない岡大闘争はまさに東大日大とならぶ全国学園闘争最前線おしあげ発展させることに成功した」としている。殉職した巡査警部補特進し、警察勲功章勲七等青色桐葉章内閣総理大臣表彰警察庁長官賞が贈られた。 4月27日附属小・中学校のグラウンド学生集会開かれ赤木学長紛争解決図り所信表明を行うが、学生らのデモシュプレヒコールにより妨害され途中で打ち切られた。後日、「バリケードがたとえ理念的には一定の意味をもつて設置されたものとしても、現実被害受けているのは地域方々であり、大学関係者である」「あのバリケード諸君らの判断によって一日早く撤去するように努力していただきたい」「大学自治要求し警察官学内無断立入拒むからには学内においては一般社会よりもより厳しく法や秩序守られなければなりません」などとする約1万字の学長所信全教職員学生配布された。赤木学長5月3日辞任したこの頃から教育学部学生中心に結成された「一般学生協議会」等、紛争解決目指す学生グループ生まれたが、スト支持派学生らはヘルメットゲバ棒武装して抵抗した5月12日には封鎖反対学生らが教養部法文学部封鎖解除したが、法文学部は再びスト支持派学生らが再封鎖した。このとき学生教職員数十人負傷し教職員4人が救急車搬送された。 8月大学の運営に関する臨時措置法成立し岡山大学重症紛争校に指定され、更に文部省10月中旬まで1か月以上授業が行われない大学に対して入学試験中止するとの意向示した苦境追い込まれ大学当局法文教育・理・医の3学部授業9月16日再開することを決定し谷口澄夫学長は「妨害があっても絶対に排除する方針であり、不測の事態には警察力依頼する」と強い姿勢示した9月15日機動隊1000人・放水車2台が出動しバリケード撤去され25人が不退去罪逮捕された。これを受けて反対派学生過激化して火炎瓶などを用いて破壊行為行ったが、機動隊教職員による警備のもとで10月までに全学部で授業再開された。大学封鎖によるブランク巻き返しのため、午前9時から午後9時までの受講余儀なくされた学生もいた。一部混乱があったものの、大学平穏取り戻し10月15日までに機動隊引き揚げられた(津島キャンパスからは10月13日)。 その後も、1973年教養部講師ボイコット行ったことにより免職処分を受け、処分撤回求め一部学生暴力破壊行為行ったほか、1975年には岡山大学拠点にしようとしたマルクス主義青年同盟によって岡山大学北津寮襲撃事件引き起こされている。

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