大津祭の曳山一覧とは? わかりやすく解説

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大津祭の曳山一覧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/11 07:05 UTC 版)

天孫神社」の記事における「大津祭の曳山一覧」の解説

西行桜山(さいぎょうざくらたぬきやま)鍛冶屋町(かじやちょう) 1635(寛永12)年創建俗に山とも呼ばれる唯一の「くじ取らず」で毎年先頭巡行する。能楽西行桜から考案したもの。所望は、古木の中から桜の精現れ前に進み立った座ったりする。これは西行問答している様子表現している。1656(明暦2)年以前狸の腹鼓からくりであった西行桜替わった時に屋根乗せ祭り当日天気守護するになった云う創建当初は単に山と称していたが、からくり変えた時から現名称となる。 猩々山(しょうじょうやま)南保町(なんぽちょう) 1637(寛永14)年創建能楽猩々から考案したもの。所望は、高風大甕から酌んだ酒を、猩々大盃飲み扇子で顔を覆うと赤く変面する。猩々高風贈った大甕は、酒を酌めども尽きないのだった云う西王母山(せいおうぼざん)丸屋町(まるやちょう) 1656(明暦2)年創建俗に桃山ももやま)とも呼ばれる崑崙山に住むと言われる西王母から考案したもの。所望は、木に大きながなっており、その大桃二つ割れて童子生まる。その童子前に進み立った座ったりする。西王母伝説桃太郎説話加味したものであろう西宮蛭子山(にしのみやえびすやま)白玉町(しらたまちょう) 1658(万治元)年創建俗に釣山(たいつりやま)とも呼ばれる。元は塩屋町(しおやまち)所有で、古くから町内蛭子出して飾っていたものを、後に曳山載せるようになった云う白玉町は明治7年隣接する塩屋町米屋町こめやまち)が合併してできた町である。所望は、蛭子の前を2匹泳いでおり、蛭子がその釣り上げ太郎冠者魚籠入れる。創建当初宇治橋姫山(うじはしひめやま)と称した。1685(延宝3)年、現名称となる。 殺生石山(せっしょうせきざん)柳町(やなぎちょう) 1662(寛文2)年創建俗に玄翁山(げんのうやま)、狐山(きつねやま)とも呼ばれる能楽殺生石から考案したもの。所望は、玄翁和尚法力により殺生石二つ割れ玉藻前が顔を扇子で隠すと顔がに変わる事で、成仏する様を表している。 湯立山(ゆたてやま玉屋町(たまやちょう) 1663(寛文3)年創建俗におちゃんぽ山、どんぶく山とも呼ばれる天孫神社湯立て神事表現したもので、曳山全体天孫神社模したものとなっている。所望は、禰宜御幣お祓いをし、市殿が笹で湯を奉り、飛矢が鉦を叩き神楽奏する。そして湯を表した紙吹雪通称オッパ)が撒かれる。これを浴びると無病息災商売繁盛などのご利益があると云う湯立山創以前には孟宗山もうそうやま)(1626(寛永3)年創建という)を所有していた。孟宗山湯立山を創建した時に高島の方へ売った云う郭巨山かっきょやま)後在家町・下小唐崎町(ございけちょう・しもこからさきちょう) 1693(元禄6)年創建俗に釜掘山(かまほりやま)とも呼ばれる中国二十四孝一人郭巨から考案したもの。所望は、郭巨が子を埋めようと鍬で穴を掘る黄金の釜が現れる。隣では妻が子供抱いてあやしている。創建当初橋本町はしもとちょう)が所有していたが、明治期財政逼迫し町内での維持が困難となった為、山の老朽化進んでいた鍛冶屋町経て現二ヶ町(当初上小唐崎町を含む三ヶ町と云われる)に譲られた。 孔明山(こうめいすいざん中堀町(なかぼりちょう) 1694(元禄7)年創建略して孔明山とも。蜀の諸葛亮孔明)から考案したもの。所望は、趙雲が鉾を突き出す涌き上がり孔明が扇を上げ喜ぶ様子表現している。創建当初は福聚山(ふくじゅやま)(町内文書によると三福神裏山さんぷくじんふくりやま))と称し釣狐山(つりぎつねやま)、浦島釣山うらしまかめつりやま)を経て1860万延元)年、現名称となる。 石橋山しゃっきょうざん)湊町(みなとちょう) 1705(宝永2)年創建俗に唐獅子山(からじしやま)とも呼ばれる謡曲石橋から考案したもの。所望は、岩石の中から唐獅子出てきて牡丹の花に戯れ遊び、また岩の中に隠れる。かつては長い用いて牡丹獅子戯れる様子見られたと云う現在の所、二体の唐獅子現存している。創建当初靭猿山/空穂猿山うつぼざるやま)と称し張良山(ちょうりょうやま)を経て、1748(延享5)年、現名称となる。 龍門滝山(りゅうもんたきやま太間町(たいまちょう) 1717(享保2)年創建俗に鯉山こいやま)、滝山(こいたきやま)とも呼ばれる登竜門故事から考案したもの。所望は、龍門山の滝を躍り上がり、滝の中ほどで翼を左右に広げ中に消えてゆくことで龍への変身表現している。現在の所、四体現存している。 源氏山げんじやま)中京町(なかきょうまち) 1718享保3)年創建俗に紫式部山(むらさきしきぶやま)、お姫山(おひめやま)とも呼ばれる紫式部源氏物語から考案したもの。所望は、紫式部周り様々な小人形(汐汲翁娘、船頭牛車従者など)や風景松立木、小屋釜戸)が現れては消えてゆくことで、紫式部観月台で月を見ながら構想練り書をしたためる子を表現している。 神功皇后山(じんぐうこうごうやま)猟師町りょうしまち) 1749(寛延2)年創建略して神功山(じんこうやま)とも。神功皇后釣り戦勝占ったという伝説から考案したもの。所望は、皇后が岩に弓で字を書く所作をすると、岩に金色の「三韓王者」の文字現れる終戦直後を釣る所望であったかつては鮎釣山(あゆつりやま)、征韓山(せいかんざん)とも呼ばれた安産の山とされ、御神体巻かれ腹帯授与されている。また、巡行順番早い方がより安産になると云われている。 月宮殿山(げっきゅうでんざん)上京町(かみきょうまち) 1776(安永5)年創建俗に鶴亀山(つるかめやま)とも呼ばれる謡曲鶴亀喜多流月宮殿)から考案したもの。所望は、頭上の冠をつけた女の舞人と亀の冠をつけた男の舞人皇帝の前で舞う。創建当初鳳凰臺山(ほうおうだいざん)と称した。1791(寛政3)年、現名称となる。 休山 神楽山(かぐらやま)堅田町(かたたちょう) 1637(寛永14)年創建三輪山みわやま)とも呼ばれる。1859(安政6)年の巡行最後に休山となり、明治初年町内財政逼迫し人形と幕類を残して本体京都売られたと云い、1872明治5)年には曳山町を退いている。現在は居祭(いまつり)を行っている。所望は、三輪明神が舞を舞い禰宜締太鼓叩き、市殿が鈴を振り、飛屋が鉦を叩き神楽奏し神をいさめようとする所を表現したものであった所望もだが、外見湯立山と殆ど同じだったという。近年神楽山の描かれ刷り物当時パンフレットのようなもの)が発見された。2016年平成28年)からは、国指定記念して粽が作られ販売されている。翌年からは手拭い販売されている。

※この「大津祭の曳山一覧」の解説は、「天孫神社」の解説の一部です。
「大津祭の曳山一覧」を含む「天孫神社」の記事については、「天孫神社」の概要を参照ください。

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