大津籠城戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 03:13 UTC 版)
「大津城の戦い」も参照 秀吉が没した後の慶長5年(1600年)、徳川家康と石田三成の対立が深まっていた。そうした中、会津の上杉景勝を討つべく大坂を発った家康は、翌々日の6月18日に大津城へと立ち寄り、高次は家康から上杉征伐の間のことを頼まれ、弟の京極高知と家臣の山田大炊を家康に伴わせる。しかし三成も家康を討つべく諸大名を誘っており、高次は氏家行広と朽木元綱から三成の西軍へ属することを求められる。これに対して家康の東軍からも、再三の書状により大津城の堅守を頼まれる。高次は大津城の守りが弱いことから一旦は西軍へ属することを決め、大坂へ嫡子の熊麿(京極忠高)を人質として送り、大津城を訪れた三成と面会する。しかし関ヶ原への出陣に備えつつ、西軍の動向を東軍に伝える。ただし、御厨義道はこうした高次の行動は家中の親西軍派への配慮や万が一の京極家の生き残りのための策であって、一貫して東軍方として行動していたと解釈すべきとしている。なお、東軍諸将の間では高次が東軍についていることは7月の段階で広く知られていたが、石田三成ら西軍諸将は高次と豊臣一門との関係から西軍に加わるものと思い込んで高次が籠城を始めるまで東軍についていた事実に気づいていなかった。 9月1日、高次は西軍と共に大津城を発ち、2日には越前国の東野へと至るが、ここから海津を経て船で大津城へと戻る。3日、城に兵を集め兵糧を運び込み、籠城し西軍を抑える旨を、家康の重臣である井伊直政に伝える。高次の行動は即大坂へと伝えられ、城近くの逢坂関にいた毛利元康(西軍総大将毛利輝元の叔父)軍が大津の町へと攻め寄せた。 さらに立花宗茂軍がこれに加わる。7日、西軍の寄せ手は1万5,000とも3万7,000とも4万とも言われる数に増し、大砲が打ち込まれる。11日夜、家臣の山田大炊、赤尾伊豆守らは寄せ手に夜襲をかけ戦果を得るが、12日に堀は埋められ、13日には総攻撃を受け、高次自身も応戦するが2ヶ所に槍傷を受け、三の丸、続いて二の丸が落ちる。14日、和平の使者が送られるが高次は拒否した。しかし、北政所の使者・孝蔵主を受け、老臣の黒田伊予の説得もあり、高野山の木食応其の仲介のもと夜になって降伏した。最終的に大津城の陥落は軍事力による制圧ではなく、大坂城からの使者の説得に高次が応じて降伏、開城したといえる。高次は一命を助けられ、高野山に上って出家することとなった。 15日朝には城に近い園城寺で剃髪し、70人程の兵と共に宇治へと去り、その後高野山に入った。一方、開城したその日に関ヶ原の戦いが起こり、西軍の敗北となった。結局、高次の篭城により足止めされた毛利元康および立花宗茂らの軍勢は移動に時間がかかったため、関ヶ原に参陣することができなかった。
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