大津皇子の脱出
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書紀の中で山部王の名はこれより前の別の箇所にも現れる。大海人皇子の子、大津皇子は父の挙兵を知って味方とともに脱出した。6月25日深夜に鈴鹿関に至り、そこで大海人皇子が張った封鎖線にかかった。このとき鈴鹿関司は大津皇子らを山部王と石川王だと誤認した。 理由は書紀に明記されないが、敵味方不明の地を行く際に、少年だった大津皇子の存在を隠し、従う者の誰かが山部王らの名を騙った可能性がある。もしこの推測が正しいとすれば、山部王と石川王はどちら側からも殺されずにすみそうな、態度のはっきりしない人物と考えられていたことになる。さもなければ、事前に大海人と連絡をとっており、近江を脱出する機会を失ったのかも知れない。 あるいは、伴信友の説によると、この時の関司の報告は誤報ではなく、実は山部王も大津皇子とともに随伴して鈴鹿関にやってきたが、故障が起こり、近江に立ち帰った可能性もある。のちの殺害の理由についても、大海人皇子側に加勢しようとしたからだという。
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大津皇子の脱出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 19:29 UTC 版)
「石川王 (吉備大宰)」の記事における「大津皇子の脱出」の解説
石川王の名は壬申の乱の中で本人の行動と関わらない形で現れる。大海人皇子(天武天皇)の子、大津皇子は父の挙兵を知って味方とともに脱出し、6月25日深夜に鈴鹿関で大海人皇子が張った封鎖線にかかった。このとき鈴鹿関司は大津皇子らを山部王と石川王だと誤認した。 理由は書紀に明記されないが、敵味方不明の地を行く際に、少年だった大津皇子の存在を隠し、従う者の誰かが山部王らの名を騙った可能性がある。もしこの推測が正しいとすれば、山部王と石川王はどちら側からも殺されずにすみそうな、態度のはっきりしない人物と考えられていたことになる。
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