埼玉県での農民運動とは? わかりやすく解説

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埼玉県での農民運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 21:36 UTC 版)

渋谷黎子」の記事における「埼玉県での農民運動」の解説

1930年4月全農埼玉県連の拡大執行委員会により、専門部として婦人部の新設決定された。黎子は推薦により、その責任者となった以後の黎子の活動は、埼玉県中心となった折しも1929年からの世界恐慌日本への波及1930年から始まった昭和農業恐慌影響で、農家経済悪化一途辿り日本各地小作争議頻発していたことで、定輔の活動多忙極めていた。同1930年5月1日、黎子は定輔と共に埼玉県北足立郡川口市後の川口市)で第3回メーデー参加した当時全農埼玉県連のメーデー参加拒否されていたが、黎子は定輔や全農青年部と共に非合法参加し、定輔ら3人と共に検束された。黎子にとっては初のメーデー参加であると同時に当地にとって初の女性参加でもあった。これにより黎子を、埼玉勤労婦人先駆者と呼ぶ声もある。 同1930年6月には、全農埼玉県連の初代婦人部長就任した。その業務への専念のために、翌7月平凡社退社した定収途絶えたが、別の収入宛てがあるわけでもなく、収入埼玉県連の会費同志たちから寄付のみとなった。生活はさらに厳しさ増したが、定輔と黎子の意志揺るぐことはなかった。 以降の黎子は農民運動奔走し、特に農村婦人組織化力を入れた埼玉県中を自転車駆け回りあらゆる農民集会農民闘争参加していた。浦和自宅同志訪ねた際には、定輔が彼らの質問答えた後、彼の説明不足難解な箇所を黎子が補うなど、同志たちの理解にも努めたこの頃には互いを「渋谷さん」「黎子君」と呼び合い、その対等性で同志たちを驚かせると共に感心させた。 同1930年夏、悪化した脚気療養のため、8月中旬粟野実家に約1ヶ月滞在した上京以来初めての帰郷であった。この帰省先述通り家族結婚の一応の了承得ていたことで可能となったのだった。同8月、定輔が埼玉県大石村小作料闘争の際、警官たちとの乱闘で頭を負傷した。その傷は後に何年にもわたって手術必要になるほどの重傷であり、それまで過労もあって回復が捗らず、長期治療要した。そのため、黎子は療養切り上げ9月23日夫妻南畑の定輔の実家転居した。これは県連事務所熊谷町(後の熊谷市)へ移転する計画のためでもあった。 定輔の実家自作小農業を営み、約1.1ヘクタール所有地と約1ヘクタール小作加えて生計立て農家であった。定輔が治療専念する一方、黎子は「どんなときでも夫に代って闘争の旗を進めなければならない」と考え実家の家族と共に家事農業で定輔を支えた。黎子は農業足を踏み入れたものの、富裕層育ちのために最初野良着着方すら知らず身支度には定輔の家族の手借りなければならなかった。南畑低地位置するため、定輔の家の田は湿田であり、田に蠢くヒル襲われぬよう股引をしっかり着こまなけれならないところが、着方誤っていたため、生まれて初めて田に入って早々にヒル噛まれ悲鳴を上げる始末だった。しかし有数養蚕地帯出身だけあり、母仕込み桑摘みだけは上手で皆を感心させた。やがて「私よ、強くなれ」と常に自分鼓舞した黎子は、農作業汗を流す内に、日に焼け見違えるように逞しくなった。黎子は、農作業体験なくては農民たちと対等に会話できない確信していたこともあり、農作業への従事喜びを、日記以下の通り記している。 農婦として働いて来た自分このごろの顔の健康さ何よりもうれしいことだ。鏡に写る赤い顔の自分の顔を、今までかつてないほどの健康さだと思って見る。(中略買物をしたとき、お銭(おあし)をやろうとして手をだしたら(中略)わたしの手大きさどうだろう黒くてガサガサしていて、向うの人の貧弱な手とは比較ならない強さ感じた。 — 1930年12月14日付の日記渋谷 1978, p. 166より引用 1931年昭和6年2月、定輔が東京無産者診療所治療を受けつつ、地下活動入った。それを機に同月、黎子は全農埼玉県連の婦人部長辞任し産婆助産婦)の修行始めた農婦としての生活を通じ貧し農村女性たち出産時にも産婆にかかることができないこと知ってそうした女性たち実際に助けながら活動したいとの考えであった。また当時農民運動左右分裂状況にあり、定輔が東京地下活動専念強いられていたことから、定輔の荷物にならぬよう、手に職をつけて独立力を持ちたいとの考えでもあった。 県連本部のある熊谷には産婆学校もあったことから、同年4月9日1人熊谷転居し西田看護婦産婆学校入学した。これは黎子の人柄理解した定輔の両親賛成と、経済的援助よるものであった転居時は定輔の弟がリヤカー荷物乗せて10里(約40キロメートル)の道のり運び転居後も定輔の父が快く、黎子に米や味噌、卵や野菜などを届けていた。この4月から5月にかけ、昼は産婆勉強農民運動、夜は社会主義書籍読みあさる日々送った同年夏には農民運動寄付集め仕事担当し花模様パラソルをさしてブルジョア娘にカモフラージュし寄付回っていた。定輔が負傷の手術を受けたと耳にすれば学校教わった療養法を書き送ったりもした。 同1931年8月一時的に東京移転東京大学入学した甥(長姉の子)が洗足に家を買ったことから、この甥の家や大崎の定輔のアジトなどで生活したこの間農民運動では、東京熊谷の間の連絡役や、寄付集めなどに努めていた。産婆勉強は、御茶ノ水水原秋桜子経営する水原産婆学校移り同学校で10月産婆資格取得した。ただしその資格発揮する機会には生涯恵まれることがなかった。 同10月埼玉県大里郡寄居町転居同志1人の家に身を寄せ小作争議支援婦人組織オルグ組合への勧誘などの社会活動)を進めた検挙恐れもあったため、汚れた着物変装し農民運動奔走した12月には定輔も寄居移り2人部屋借り、共にオルグ活動進めた関東婦人同盟労農党にも加盟し埼玉農民運動指導者としての立場に立ち、県連婦人拡大尽力した。この寄居でのオルグは、定輔と共での活動ということもあり、黎子にとって初めての本格的なオルグとなった当時農民組織運動は、埼玉稀に見る盛況ぶりであり、農業家の女性の参加が多いことも特徴であったこの間には、寄居借りた部屋が、常に川向こうから警察により望遠鏡監視され家主追い出され別の部屋移り住むこともあった。 同12月、黎子は同県北足立郡宗岡村(後の志木市)の小作争議参加したこの頃体験をもとに同月、『婦人組織に関する意見書』『農村勤労青年婦人組織について』『宗岡村小作争議記録』をまとめ、全農埼玉県連に提出した。このほか、農民運動中における婦人あり方について考えた全農埼玉県婦人報告書』、全農全国会議農民委員会基礎というべき『部落世話役活動』を著した1932年昭和7年1月には比企郡八和田村(後の小川町)で、婦人組織化奔走したそうした農民運動一方で依然として生活は厳しかった燃料買い入れにも苦労し遠方の山へ拾いに行くこともあった。他人の山だと言われ追い返され、1里(約4キロメートル)もある部落所有地まで行っての束を山のように背負って帰ることもあった。後述する遺稿集渋谷黎子雑誌』にも、「拾い姿の黎子さん」と題した追悼文寄せられている。

※この「埼玉県での農民運動」の解説は、「渋谷黎子」の解説の一部です。
「埼玉県での農民運動」を含む「渋谷黎子」の記事については、「渋谷黎子」の概要を参照ください。

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