埼玉県での農民運動
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同1930年4月、全農埼玉県連の拡大執行委員会により、専門部として婦人部の新設が決定された。黎子は推薦により、その責任者となった。以後の黎子の活動は、埼玉県が中心となった。 折しも1929年からの世界恐慌の日本への波及、1930年から始まった昭和農業恐慌の影響で、農家経済は悪化の一途を辿り、日本各地で小作争議が頻発していたことで、定輔の活動は多忙を極めていた。同1930年5月1日、黎子は定輔と共に埼玉県北足立郡川口市(後の川口市)で第3回メーデーに参加した。当時は全農埼玉県連のメーデー参加は拒否されていたが、黎子は定輔や全農の青年部と共に非合法で参加し、定輔ら3人と共に検束された。黎子にとっては初のメーデー参加であると同時に、当地にとって初の女性参加でもあった。これにより黎子を、埼玉勤労婦人の先駆者と呼ぶ声もある。 同1930年6月には、全農埼玉県連の初代婦人部長に就任した。その業務への専念のために、翌7月に平凡社を退社した。定収は途絶えたが、別の収入の宛てがあるわけでもなく、収入は埼玉県連の会費と同志たちからの寄付のみとなった。生活はさらに厳しさを増したが、定輔と黎子の意志は揺るぐことはなかった。 以降の黎子は農民運動に奔走し、特に農村婦人の組織化に力を入れた。埼玉県中を自転車で駆け回り、あらゆる農民の集会と農民闘争に参加していた。浦和の自宅を同志が訪ねた際には、定輔が彼らの質問に答えた後、彼の説明不足や難解な箇所を黎子が補うなど、同志たちの理解にも努めた。この頃には互いを「渋谷さん」「黎子君」と呼び合い、その対等性で同志たちを驚かせると共に感心させた。 同1930年夏、悪化した脚気の療養のため、8月中旬に粟野の実家に約1ヶ月滞在した。上京以来、初めての帰郷であった。この帰省は先述の通り、家族に結婚の一応の了承を得ていたことで可能となったものだった。同8月、定輔が埼玉県大石村の小作料闘争の際、警官たちとの乱闘で頭を負傷した。その傷は後に何年にもわたって手術が必要になるほどの重傷であり、それまでの過労もあって回復が捗らず、長期治療を要した。そのため、黎子は療養を切り上げ、9月23日に夫妻で南畑の定輔の実家に転居した。これは県連の事務所を熊谷町(後の熊谷市)へ移転する計画のためでもあった。 定輔の実家は自作兼小農業を営み、約1.1ヘクタールの所有地と約1ヘクタールの小作を加えて生計を立てる農家であった。定輔が治療に専念する一方、黎子は「どんなときでも夫に代って闘争の旗を進めなければならない」と考え、実家の家族と共に家事と農業で定輔を支えた。黎子は農業に足を踏み入れたものの、富裕層育ちのために最初は野良着の着方すら知らず、身支度には定輔の家族の手を借りなければならなかった。南畑は低地に位置するため、定輔の家の田は湿田であり、田に蠢くヒルに襲われぬよう股引をしっかり着こまなければならないところが、着方を誤っていたため、生まれて初めて田に入って早々に、ヒルに噛まれて悲鳴を上げる始末だった。しかし有数の養蚕地帯出身だけあり、母仕込みの桑摘みだけは上手で皆を感心させた。やがて「私よ、強くなれ」と常に自分を鼓舞した黎子は、農作業で汗を流す内に、日に焼け、見違えるように逞しくなった。黎子は、農作業の体験がなくては農民たちと対等に会話ができないと確信していたこともあり、農作業への従事の喜びを、日記に以下の通り記している。 農婦として働いて来た自分のこのごろの顔の健康さは何よりもうれしいことだ。鏡に写る赤い顔の自分の顔を、今までかつてないほどの健康さだと思って見る。(中略)買物をしたとき、お銭(おあし)をやろうとして手をだしたら(中略)わたしの手の大きさはどうだろう。黒くてガサガサしていて、向うの人の貧弱な手とは比較にならない強さを感じた。 — 1930年12月14日付の日記、渋谷 1978, p. 166より引用 1931年(昭和6年)2月、定輔が東京の無産者診療所で治療を受けつつ、地下活動に入った。それを機に同月、黎子は全農埼玉県連の婦人部長を辞任し、産婆(助産婦)の修行を始めた。農婦としての生活を通じ、貧しい農村の女性たちが出産時にも産婆にかかることができないことを知って、そうした女性たちを実際に助けながら活動したいとの考えであった。また当時の農民運動は左右分裂状況にあり、定輔が東京で地下活動に専念を強いられていたことから、定輔の荷物にならぬよう、手に職をつけて独立力を持ちたいとの考えでもあった。 県連本部のある熊谷には産婆学校もあったことから、同年4月9日に1人で熊谷に転居し、西田看護婦産婆学校に入学した。これは黎子の人柄を理解した定輔の両親の賛成と、経済的援助によるものであった。転居時は定輔の弟がリヤカーに荷物を乗せて10里(約40キロメートル)の道のりを運び、転居後も定輔の父が快く、黎子に米や味噌、卵や野菜などを届けていた。この4月から5月にかけ、昼は産婆の勉強や農民運動、夜は社会主義の書籍を読みあさる日々を送った。同年夏には農民運動の寄付集めの仕事も担当し、花模様のパラソルをさしてブルジョア娘にカモフラージュし、寄付に回っていた。定輔が負傷の手術を受けたと耳にすれば、学校で教わった療養法を書き送ったりもした。 同1931年8月、一時的に東京に移転。東京の大学に入学した甥(長姉の子)が洗足に家を買ったことから、この甥の家や大崎の定輔のアジトなどで生活した。この間の農民運動では、東京と熊谷の間の連絡役や、寄付集めなどに努めていた。産婆の勉強は、御茶ノ水で水原秋桜子の経営する水原産婆学校に移り、同学校で10月に産婆の資格を取得した。ただしその資格を発揮する機会には生涯、恵まれることがなかった。 同10月に埼玉県大里郡寄居町に転居、同志の1人の家に身を寄せ、小作争議の支援や婦人部組織のオルグ(組合への勧誘などの社会活動)を進めた。検挙の恐れもあったため、汚れた着物で変装し、農民運動に奔走した。12月には定輔も寄居に移り、2人で部屋を借り、共にオルグ活動を進めた。関東婦人同盟、労農党にも加盟し、埼玉の農民運動の指導者としての立場に立ち、県連婦人部拡大に尽力した。この寄居でのオルグは、定輔と共での活動ということもあり、黎子にとって初めての本格的なオルグとなった。当時の農民組織の運動は、埼玉は稀に見る盛況ぶりであり、農業家の女性の参加が多いことも特徴であった。この間には、寄居で借りた部屋が、常に川向こうから警察により望遠鏡で監視され、家主に追い出され、別の部屋に移り住むこともあった。 同12月、黎子は同県北足立郡宗岡村(後の志木市)の小作争議に参加した。この頃の体験をもとに同月、『婦人部組織に関する意見書』『農村勤労青年婦人組織について』『宗岡村小作争議の記録』をまとめ、全農埼玉県連に提出した。このほか、農民運動の中における婦人のあり方について考えた『全農埼玉県連婦人部報告書』、全農全国会議の農民委員会の基礎というべき『部落世話役活動』を著した。1932年(昭和7年)1月には比企郡八和田村(後の小川町)で、婦人の組織化に奔走した。 そうした農民運動の一方で、依然として生活は厳しかった。燃料の買い入れにも苦労し、遠方の山へ薪を拾いに行くこともあった。他人の山だと言われて追い返され、1里(約4キロメートル)もある部落所有地まで行って、薪の束を山のように背負って帰ることもあった。後述する遺稿集『渋谷黎子雑誌』にも、「薪拾い姿の黎子さん」と題した追悼文が寄せられている。
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