儒家神道の成立
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江戸時代には、仏教が寺請制度のもと国教的な地位に位置した一方、思想的には全体として停滞した。思想界においては、幕藩体制を支えるイデオロギーとして有効であり、江戸時代の世俗主義に適合する人倫を説く儒教とりわけ朱子学が非常に隆盛し、仏教はその出世間性が世俗倫理にそぐわないとして儒者らから多くの批判に晒された。 この朱子学の隆盛に合わせて、主流の神道説も仏教と結びついた神仏習合から、儒教との結びつきを強めた儒家神道へ移行した。中江藤樹の太虚神道など陽明学派から唱えられた神道説もあったが、多くは朱子学により神道説が形成された。神仏習合の思想でも儒教の思想は取り入れられていたが、儒家神道においては仏教が明確に批判され、その影響を脱しようとした点で異なる。他方で、その論理構成においては中世的な秘伝を色濃く受け継いでおり、神仏習合における仏教的理論を朱子学的理論に置き換えたようなものであって、中世と近世の過渡期にあると言える。 さて、儒家神道の嚆矢を放ったのは、林羅山である。羅山は、朱子学の知識を日本へ広げるとともに、神道についても学び、『神道伝授』『本朝神社考』などを著して理当心地神道という独自の神道説を形成した。その思想は、まず儒教における「理」は、神道における神と同体であり、その究極は国常立尊であるとして儒教の理と神道の神を習合した。また、仏教が伝来する以前の日本は清く優れていたとして神国思想・排仏論を唱える一方で、中華思想に基づいて神武天皇を泰伯の子孫であると主張したり、三種の神器を儒教の三徳を表していると主張するなどして、日本が古代から中華圏に属するとすることで日本の文明水準が高いことを訴えようとした。また、神道の本質は天照大御神より歴代天皇へと相伝してきた政道であり、一般の神社における祭祀や庶民の祭礼は「卜祝随役神道」であって「役者」に過ぎないとして切り捨てた。 吉田神道においては、商人であった吉川惟足が吉田家に入門し、吉田家の当主であった萩原兼従より「神道同統」を授与されて正式な後継者となり、吉田神道から仏教の言説を取り除いて儒教の教えをより多く取り込んだ吉川神道を形成した。その思想は、まず神道は万法の宗源であり、国常立尊が世界の主宰であるとした上で、神と同体である「理」によって世界や人間は創世されていて、人体にも必ず理が内在しているため、元来人神は一体であるが、人の心の汚れにより神明の明智が曇るので、「つつしみ」によって本来の姿に戻る必要があると説いた。そして、その具体的な方法として、祓を行って内外を浄化したり、祭祀儀礼を行うことで誠意を表明し、神へ祈祷を行うことを説いた。また、儒教における五倫こそが神が人に与えた使命であり、とくに君臣関係が最も重要だとした。 伊勢神道においても江戸時代に入り、祠官の出口延佳により、仏教を除いて儒教を取り入れた後期伊勢神道が形成された。延佳は、『大神宮神道或問』や『陽復記』を著して神道説を述べ、その中で神道の本質とは、日本人が日常生活で当然行うべき道で、自分の職分を正直・清浄の心で真っ当に行う「日用の道」であり、手足の動作から飲食に至るまで日常の隅々まで神を意識して行うことであるとし、祝詞を唱えたり玉串を持つなどの神社の祭儀のみを神道だと思うのは間違いであると指摘した。また、諸教は究極的には全て一致する共通普遍の道であり、特に神道と儒教の一致点は多いものの、制度文為は各国において違いが生じるので、日本人は日本の法や習慣を重んじるべきだとして、習合府会を目的に儒教や仏教を用いることを批判し、自らが儒教を用いるのも自然と神道と一致しているからであり、無理に習合しているのではないと主張した。ただし、神道を中心に据えるのであれば、儒教や仏教を学んでも良いとも述べており、仏教や儒教に弊害があるからといってこれを禁止し、現在の習慣を破壊するのは、自然の成り行きに逆行するもので、神道とは相違していると主張した。 これらの儒家神道説を集大成したのが、山崎闇斎である。闇斎は、儒者として名声を高めた後、会津藩主の保科正之に召し抱えられ、そこで同じく正之の賓師であった吉川惟足と接触して吉川神道を学び、独自の垂加神道を創設するに至った。その思想は、まず神世七代と朱子学における理気二元論を結びつけ、国常立尊が太極であり、それ以下で生じた五柱の神は五行の神であり、最後に生まれたイザナギ・イザナミは五行を兼ねて国土や神々や人々を生んだとし、人々には人々を創った神の霊が内在していて、神と人は「天人唯一之道」という合一状態にあるとした。そして、神道とは人が神に従って生きることであり、人は神に祈祷を行うことで冥加を得なければならないが、それには人が「正直」でなければならず、その「正直」の実現には「敬(つつしみ)」が第一だとした。また、吉川神道と同じく君臣関係を非常に重視し、君臣が対抗関係・権力関係ではなく本来的に一体であり、君臣相守により国を守ってきたことが神道の君臣関係であるとし、のちの尊皇思想にも大きな影響を与えた。 山崎闇斎没後、その門弟であった正親町公通が継承者となり、垂加神道は全盛期を迎え、江戸と京都を中心として全国的に展開し、公家・武家・神職に広く浸透し、神道界に最も大きな影響を与えるようになった。正親町公通の没後は、その弟子であった玉木正英が後を継ぎ、正親町公通の著した『持授抄』を最高奥秘とする一重・二重・三重・四重の秘伝を組織立て、垂加神道の組織化に取り組むとともに、正英は橘家神道という神道説も形成した。このような秘伝化の動きに対しては、若林強斎などからは「闇斎の真意が見えなくなる」とする批判も出た。 また、この垂加神道の影響を受けて家伝の神道説を垂加神道流に教義化・体系化する動きも広がり、上述の橘家神道の他、伯家神道、土御門神道などが垂加神道の影響を受けて組織化された。 玉木正英の門弟の一人であった吉見幸和は、『五部書説弁』を著して神道五部書が中世の偽書であることを論証して伊勢神道や吉田神道を批判するとともに、同じく五部書を教典としていた垂加神道をも批判し、同時期に契沖門下の国学者へと転じた。この動きは、主流の神道説が垂加神道から国学へと移る時代の動きを表しており、事実、玉木正英以降垂加神道は思想的には停滞し始め、主流の座を国学へ明け渡していくことになる。 こういった排仏的な思想動向と連動して、儒家神道を受容した各藩の一部において神仏分離の動きが広がるようになった。水戸藩では徳川光圀が1696年(元禄9年)に神仏習合色の強い神社の由緒などを調べ、仏教色を払拭させる整理を行った他、会津藩の保科正之も同様の寺社整理を行った。また、岡山藩の池田光政は日蓮宗不受不施派や天台・真言両宗の僧侶の還俗を進めて寺院の数を減らすとともに、神葬祭を推奨した。垂加神道を受け入れた出雲大社は、1647年(正保4年)に松江藩主・松平直政主導のもと仏教的な要素が排された。
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