儒家神道の成立とは? わかりやすく解説

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儒家神道の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 04:39 UTC 版)

神道の歴史」の記事における「儒家神道の成立」の解説

江戸時代には、仏教寺請制度のもと国教的な地位位置した一方思想的には全体として停滞した思想においては幕藩体制支えイデオロギーとして有効であり、江戸時代世俗主義適合する人倫説く儒教とりわけ朱子学が非常に隆盛し、仏教はその出世間性が世俗倫理そぐわないとして儒者らから多く批判晒された。 この朱子学隆盛合わせて主流神道説も仏教と結びついた神仏習合から、儒教との結びつき強めた儒家神道移行した中江藤樹太虚神道など陽明学派から唱えられ神道説もあったが、多く朱子学により神道説が形成された。神仏習合思想でも儒教思想取り入れられていたが、儒家神道においては仏教明確に批判されその影響脱しようとした点で異なる。他方で、その論理構成においては中世的な秘伝色濃く受け継いでおり、神仏習合における仏教的理論朱子学理論置き換えたようなものであって中世と近世過渡期にあると言えるさて、儒家神道嚆矢放ったのは、林羅山である。羅山は、朱子学知識日本広げるとともに神道についても学び、『神道伝授』『本朝神社考』などを著して理当心地神道という独自の神道説を形成した。その思想は、まず儒教における「理」は、神道における神と同体であり、その究極国常立尊であるとして儒教の理と神道の神習合した。また、仏教伝来する以前日本清く優れていたとして神国思想・排仏論を唱える一方で中華思想基づいて神武天皇泰伯の子孫であると主張したり、三種の神器儒教三徳表していると主張するなどして、日本古代から中華圏属するとすることで日本文明水準が高いことを訴えようとした。また、神道本質天照大御神より歴代天皇へと相伝してきた政道であり、一般神社における祭祀庶民祭礼は「卜祝随役神道であって役者に過ぎないとして切り捨てた吉田神道においては商人であった吉川惟足吉田家入門し吉田家当主であった萩原兼従より「神道同統」を授与され正式な後継者となり、吉田神道から仏教言説取り除いて儒教教えをより多く取り込んだ吉川神道形成した。その思想は、まず神道万法宗源であり、国常立尊世界主宰であるとした上で、神と同体である「理」によって世界人間創世されていて、人体にも必ず理が内在しているため、元来人神は一体であるが、人の心の汚れにより神明明智が曇るので、「つつしみ」によって本来の姿に戻る必要がある説いた。そして、その具体的な方法として、祓を行って内外浄化したり、祭祀儀礼を行うことで誠意表明し、神へ祈祷を行うことを説いたまた、儒教における五倫こそが神が人に与えた使命であり、とくに君臣関係が最も重要だとした。 伊勢神道においても江戸時代入り祠官出口延佳により、仏教除いて儒教取り入れた後期伊勢神道形成された。延佳は、『大神宮神道或問』や『陽復記』を著して神道説を述べその中で神道本質とは、日本人日常生活で当然行うべき道で、自分職分を正直・清浄の心で真っ当に行う「日用の道」であり、手足動作から飲食に至るまで日常隅々まで神を意識して行うことであるとし、祝詞唱えた玉串を持つなどの神社祭儀のみを神道だと思うのは間違いであると指摘したまた、諸教は究極的に全て一致する共通普遍の道であり、特に神道儒教一致点は多いものの、制度文為は各国において違い生じるので、日本人日本の法習慣重んじるべきだとして、習合府会目的儒教仏教用いることを批判し、自らが儒教用いるのも自然と神道一致しているからであり、無理に習合しているのではないと主張した。ただし、神道中心に据えるのであれば儒教仏教学んで良いとも述べており、仏教儒教弊害があるからといってこれを禁止し現在の習慣破壊するのは、自然の成り行き逆行するもので、神道とは相違していると主張した。 これらの儒家神道説を集大成したのが、山崎闇斎である。闇斎は、儒者として名声高めた後、会津藩主の保科正之召し抱えられ、そこで同じく正之の賓師であった吉川惟足接触して吉川神道学び、独自の垂加神道創設する至った。その思想は、まず神世七代朱子学における理気二元論を結びつけ、国常立尊太極であり、それ以下生じた五柱の神五行の神であり、最後に生まれたイザナギ・イザナミは五行兼ねて国土神々人々生んだとし、人々には人々を創った神の霊内在していて、神と人は「天人唯一之道」という合一状態にあるとした。そして、神道とは人が神に従って生きることであり、人は神に祈祷を行うことで冥加を得なければならないが、それには人が「正直」でなければならず、その「正直」の実現には「敬(つつしみ)」が第一だとした。また、吉川神道同じく君臣関係を非常に重視し君臣対抗関係・権力関係ではなく本来的に一体であり、君臣相守により国を守ってきたことが神道君臣関係であるとし、のちの尊皇思想にも大きな影響与えた山崎闇斎没後、その門弟であった正親町公通継承者となり、垂加神道全盛期迎え江戸京都中心として全国的に展開し公家武家神職広く浸透し神道界に最も大きな影響与えようになった正親町公通没後は、その弟子であった玉木正英が後を継ぎ正親町公通著した『持授抄』を最高奥秘とする一重二重三重四重秘伝組織立て垂加神道組織化取り組むとともに、正英は橘家神道という神道説も形成したこのような秘伝化動きに対しては、若林強斎などからは「闇斎真意見えなくなる」とする批判出たまた、この垂加神道影響受けて家伝神道説を垂加神道流に教義化・体化する動き広がり上述橘家神道の他、伯家神道土御門神道などが垂加神道影響受けて組織化された。 玉木正英門弟一人であった吉見幸和は、『五部書説弁』を著して神道五部書中世偽書であることを論証し伊勢神道吉田神道批判するとともに同じく五部書教典としていた垂加神道をも批判し同時期に契沖門下国学者へと転じた。この動きは、主流神道説が垂加神道から国学へと移る時代動き表しており、事実玉木正英以降垂加神道思想的には停滞し始め主流の座を国学明け渡していくことになる。 こういった排仏的な思想動向連動して儒家神道受容した各藩一部において神仏分離動き広がるようになった水戸藩では徳川光圀1696年元禄9年)に神仏習合色の強い神社由緒などを調べ仏教色を払拭させる整理行った他、会津藩保科正之同様の寺社整理行ったまた、岡山藩池田光政日蓮宗不受不施派天台真言両宗の僧侶還俗進めて寺院の数を減らすとともに神葬祭推奨した垂加神道受け入れた出雲大社は、1647年正保4年)に松江藩主・松平直政主導のもと仏教的な要素が排された。

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