秘伝化
秘伝化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/14 08:42 UTC 版)
茶の湯で台子が使われたことを示す史料の初見は『松屋会記』の天文6年(1537年)で、その後は津田宗達(1504~1566)が盛んに用いたことが『天王寺屋会記』で裏付けられている。この頃は用いる道具や飾り方などは自由自在で、何ら特別なものではなかった。しかしその後すぐに廃れてゆき、本能寺の変の頃までにほとんど用いられなくなっていた。 後世の茶書(『草月指話集』『貞要集』など)には、千利休が改めた台子点前を豊臣秀吉が秘伝としてごく限られた者(台子七人衆)に伝授を許したという逸話が伝えられており、真偽は定かでないものの充分考えられる話である。特に天正13年(1585年)に秀吉の禁裏献茶で台子点前が用いられたことは、台子点前がごく特別なものと位置付けられるようになる契機として肯ける。 千宗旦の頃の史料(『茶湯聞塵』など)によると、当時の千家流(宗旦流)には基本的には書院の台子と数寄屋(四畳半)の台子という区別があったらしい。一方でほぼ同じ時期の武家茶道諸流の伝書ではそれぞれ異なる体系付けのさまざまな飾り方を伝えており、流儀化が始まっていることが覗われる。例えば『南方録』(南坊流)には台子五十飾とよばれる絵図があり、『和泉草』(石州流)には真行草に始まって全部で9段の台子飾り、『貞要集』(有楽流)には真行草と「乱置」の4種が示されている。 利休は台子を遠ざけていたように見受けられ、利休が台子を使ったという記録はわずかに3回しか残っていない。宗旦にしてもわび茶の追求者であり、千家流においては台子は日常無用のものである。また武家茶道においても、台子点前は貴人といえども滅多に見せるべきでないものとされていた(『和泉草』)。たしかに織部・遠州・石州はいずれも将軍献茶に台子を用いていないし、遠州は生涯通して一度も台子を用いた茶会を行っていない(『小堀遠州茶会記集成』)。利休が台子を遠ざけたことが、逆に台子を高尚なものに押し上げ、皆伝の証としての台子点前という位置付けが成立していったとも考えられる。
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