算道の衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 04:45 UTC 版)
大学寮が設置された当初、一般官人を育てる本科(明経道)と技術官人を育てる算道しか事実上存在していなかったが、神亀年間に律令を教える律学博士(後の明法博士)と歴史を教える文章博士が明経道から分離する形で成立し、やがて天平年間に独立した学科となり、後の明法道・紀伝道へと発展することとなる。 こうした中で算道の地位はそれまでと大きく変動することもなく、結果的に上昇傾向にあった明法道・紀伝道とは相対的に見て地位が低下することとなった。その発端は延暦21年(802年)に明法生を増やすために算生の定数を30から20に減少させたことである。続いて律令制の衰退に伴う地方政治の紊乱によって算道に対する需要が減少していくことになる。更に他の学科でも同様であったが、算博士の推薦を受けて成業(得業生及び奉試及第)の見込みのない者を無試験で地方国司や京官の下級役人に推挙する算道挙・算道年挙が行われるようになったり、一般の算生でも一定の条件を満たせば得業生に準じた奉試受験資格を得て試験を受けることが出来るようになった(准得業生試)。こうした状況下では、算道は実質上明経道に吸収された書道・音道に代わって成立した紀伝・明経・明法・算の4道の中で最下位に転落することとなった。 更に算博士も必ず主税寮か主計寮の頭か助を兼務して更に2名中1名は五位史を兼ねることになった(『官職秘抄』)。これは、算博士の職掌が次第に算生の教育よりも中央の財務・経理官人としての職務に移りつつあったことの反映であった。貞観13年(871年)に算博士の官位相当が正七位下に引き上げられたのも、算道の衰退にも関わらず算博士の算道以外の職務が重視された結果であった。この頃になると、算博士の世襲化が進み算道によって奉試に合格するとともに、譜第の家系であることが算博士就任の要件とされるようになり、当初は家原氏・大蔵氏が平安時代前期には世襲化も兆候を見せるものの長続きせず、両氏の没落後は小槻氏・三善氏の両氏が世襲するようになり、自己の算道を家学・秘伝化し、また有能な門人を養子として家名を継承させることで他氏を排除するようになった(官司請負制)。 こうして、算道は世襲による閉鎖的な学術となって、日本数学史は停滞の時代を迎えた。『今昔物語集』巻24第22及び『宇治拾遺物語』185話に登場する高階俊平入道の弟が算道で人の生死を操って、人々から「おそろしき算の道」と恐れられたとされる話は最早、算術・数学が科学どころか学問ではなく、呪術として人々に怖れ嫌悪されていった実情を示していた。 日本の数学が「和算」の姿にて再び学問として復活するのは、近世初期の『塵劫記』の時代以後のことになる。
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