伊勢神宮との関係
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■神座のトキワマンサク: トキワマンサクと伊勢神宮 浜名湖畔の西側の湖西市に、嵩山(すやま)という美しい三角形をした山がある。この山頂からは浜名湖が瞳として輝く姿が見える。この麓の地名は神座(かんざ)と言い、古代この山を崇拝した証として、中腹に神座古墳群がある。 この麓の神座には日本には三ヶ所しかないトキワマンサクの群生地がある。神座はその北限である。この三ヶ所というのは神座と伊勢神宮と熊本県の小岱山であり、いずれも古代から神々の宿る場所として知られていると同時に、それぞれ極めて海辺に近い所にある。 不思議にも、出雲大社、鹿島神宮、香取神宮など日本の古くからの神社の多くは海辺(水辺)の近くに建てられている。これらは何を意味するのだろうか。 一つの大胆な仮説であるが、神座、伊勢神宮、小岱山にあるトキワマンサクの木は自然の群生地ではなく、日本形成時の神々を信仰する人々により、聖地と考えられるこの三ヶ所に植樹をしたのではないかと思われる。 トキワマンサクは台湾、中国南部、インドなど南方に分布する樹木であり、トキワマンサクの花は、緑の葉の中に白紙が束ねたような花が咲き、いかにも神聖な儀式や祭事に神に対する作法として使う紙垂(現在は白紙であるが以前は木綿であった。)の原型のように思えてならない。 これらは遥か南方から神々しい人々が、九州そして太平洋沿岸の海流に乗り聖地と思われる所に降り立った証ではないだろうか。 これを裏付けるような出来事としては、有名な厳島神社の総本宮であり、ヤマト王朝の樹立に貢献した、宗像大社を崇める宗像海人族が、領域拡大の為に日本海側に椿の木を植樹した事が伝えられている。トキワマンサクも同じような考えで植えられたのでなないでしょうか。 遠い昔の事で今となっては確かめる手段は無いが、日本形成時にこの浜名湖周辺、特に神座の地が日本の発展に大きな役割を果たしたと考えると、興味の尽きない“浜名湖ロマン”である。現在、トキワマンサクの木だけがその事実を知っているのである。 ■田原神戸、浜名神戸: 田原神戸と浜名神戸 古代、船の信頼性も極めて低い時代に、伊勢神宮では対岸にある渥美半島の中央の田原市に神戸(伊勢神宮領)を逸早く領した事が記録として残っている。更に浜名湖近隣に浜名神戸も領していた。 本来、領地を造るなら伊勢神宮に近接した行き来し易い所に造るものであり、まして古代に海を渡る遠方の地に、逸早く造った意味は何だったのだろうか。 伊勢神宮はアマテラス大御神を祭る太陽神といわれている。従って太陽は生活を営む為の全てであり、とりわけ日の出は最も重要な事柄だったと思う。 眼である浜名湖方面は伊勢神宮の日の出の地であり、前述したが、当時の人には浜名湖を眼とした人物の地形が理解できたと考えられ、重要視したと思う。日の出という眼から発する光を求め、田原や浜名湖に神戸を領したのは当然の事だった考える。 いずれにしても浜名湖から渥美半島を通り、伊勢神宮までの光の道は、古代人にとって神聖であり、大きな意味を持っていたのかもしれない。 ■伊勢神宮の位置: 崇高な地に建つ伊勢神宮 伊勢神宮は日本人にとって心の拠りどころとなる神社である。それは社の中に入った途端に、多くの人は空気の違いを心で感じ、なぜか穏やかな気持ちになる事からわかる。不思議な力である。 昔から伊勢神宮には諸々の伝説や言い伝えがあるが、過去に何があったのかという事は今となってはわからない。前述したように伊勢神宮も他の神社と同様に海辺近くにあり、もしかすると高い文明や支配力を持った人々が海を渡り、日本へ渡来してきた時の拠点であり、そのリーダーの生死をかけた由緒ある地であったのかもしれない。 伊勢神宮が現在のような高い格式を持つ神社になったのは、壬申の乱以後と言われている。それ以前からも当然、伊勢の地に何かしらの神社が存在していたと考えられる。そこで、最初の伊勢神宮をなぜこの地に建てたか、浜名湖ロマンの視点から大胆な仮説を立ててみた。 伊勢神宮の成り立ちには鎮座地を探した元伊勢伝承があり、各地に元伊勢と呼ばれる所がある。これは既に神社のある所、或いは関連のある場所に対して、鎮座が相応しいか確認するものである。これとは全く別に、初めての地に神社を建てるという考えもあったと思う。どちらにしても、伊勢の地が相応しいか探したはずである。 その場合、仮説であるが最初に伊勢に神宮を立てようと決めた人々は、もしかするとこの地形から浮かぶ人物像を理解できていたかもしれない。 それは人物像から伊勢神宮を見ると神宮が何か愛おしいように見える。また逆に伊勢神宮の方から人物像を見ると人物そのものを崇めたいように見える。結果として、この関係の様が素晴らしいと考えて建てたのではないだろうか。 それを補足するかのような興味深い点は、伊勢神宮から見た人物像は、古代、最も重要な日の出の方向にあり、時により浜名湖(まなこ=眼)方面から上がる日の出の位置ではなかっただろうか。太陽を敬う人々にとっては最も大きな事柄だったと思う。 その光は湖面を渡り、渥美半島の鼻筋を通り、神島を過ぎて海面を渡り伊勢神宮に光を射すような情景である。古代の人々はこの事実を知って神宮を建てたと考えると、現在の荘厳な伊勢神宮の神秘性をより強く感じる事ができ、壮大なロマンが浮かび上がる。
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伊勢神宮との関係
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大神神社の摂社の檜原神社(#本社近辺参照)は倭姫命が天照大神を磯堅城の神籬を立てて磯城の厳橿の本にはじめて宮中の外に祀った「倭笠縫邑」の地であると伝えられ、元伊勢の始まりの地となっている(『日本書紀』垂仁天皇段)。
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伊勢神宮との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/27 03:33 UTC 版)
『日本書紀』の記述によれば、伊勢神宮の鎮座は垂仁天皇の御代とされる。田中卓の私見では、これを3世紀後半から4世紀初頭であるとする。 隠岡遺跡自体は伊勢神宮と直接関係するわけではない。ただし隠岡遺跡の発見により、「5世紀頃まで人は住んでいなかった」として伊勢神宮の創建を3世紀頃とする見解に反対していた人々の主張を覆したのである。すなわち『日本書紀』の通り、3世紀に伊勢神宮が鎮座していても何ら不思議ではないと主張することが可能となったのである。更に伊勢市中村町の桶子遺跡(おけごいせき)で銅鐸の破片が発見されたことや、江戸時代の遺構さえ2 - 3メートルも掘らねばならないなど相当に厚く堆積しているため、古い遺跡の発見が進まない可能性が指摘されたことにより、「5世紀頃まで人は住んでいなかった」と言う説は一応解消された。 隠岡遺跡の付近には、伊勢神宮の鎮座地を定めた倭姫命の陵墓(宇治山田陵墓参考地)がある。倭姫命の陵墓と隠岡遺跡の標高はほぼ同じで、「美人坂」と通称される道路の建設の際に、両地域間が開削されたとみられる。また地名「隠岡」は、倭姫命が石隠れしたことから命名された。 平安時代の出土品は特殊な土器であり、建物の規模が大きいことから、当時尾上長(おのえのかみ)と呼ばれていた豊受大神宮禰宜の度会氏の居住地跡である可能性が指摘されている。
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伊勢神宮との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 13:54 UTC 版)
朝倉の梯子獅子は、二十年に一度、伊勢神宮の遷宮の際に奉納の舞を行う。これは、梯子獅子が奉納されている牟山神社の拝殿が、遷宮時に出た古材を使って建て替えられるからである。 伊勢での奉納は、牟山神社で使用している櫓をそのまま移築して行われる。 最近では平成15年(1993年)、平成25年(2013年)に奉納された。平成25年は雨天のため舞台上のみ上演された。
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