壬申の乱以後とは? わかりやすく解説

壬申の乱以後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 07:52 UTC 版)

十市皇女」の記事における「壬申の乱以後」の解説

父の天武天皇のもとに身を寄せた思われる『万葉集』から高市正妃となったとする説もある)が、敗北した近江側の実質的な皇后として、また天皇皇女として、依然として大変複雑な、辛い立場にあったことは疑いない。 彼女の動静はほとんど記録残っていないが、天武天皇4年675年)の2月13日阿閇皇女とともに伊勢神宮参詣したとある。ここで十市皇女阿閇皇女とともに伊勢訪れた目的としては、単に壬申の乱戦勝伊勢神宮報告する目的であるという説、日本書紀天武天皇4年675年1月貴重な品が朝廷献上され記録があることから、それらを伊勢神宮持参するために彼女ら派遣されたという説、天武天皇壬申の乱大友皇子破って即位し自分の子草壁皇子皇太子としたことから、皇太子交代それぞれの妃に伊勢神宮報告させたという説などがある。なお、『万葉集』巻1によればこの際に吹芡刀自(ふふきのとじ:侍女思われる)が十市の歌を作ったとある。また、前年10月にも十市皇女伊勢赴いたという説もあるが、ちょうどそのころ大来皇女伊勢斎宮となり伊勢群行したと日本書紀書かれていることから、これに同行した可能性がある。 その後天武天皇7年678年)、天皇倉橋河の河上にたてた斎宮出向こうとした当日である4月7日朝に急死日本書紀には「十市皇女卒然に病発して宮中せぬ」と記されていた。このため天皇行幸中止となり、斎宮での祭りなくなった皇女4月14日大和赤穂の地に葬られた。この際父の天武天皇が声を出して泣いたという。死亡時、十市皇女はまだ30歳前後であり、この不審急死に対しては、自殺説暗殺説もある。 彼女の死を悼んで高市皇子熱烈な挽歌捧げている(『万葉集』卷2)。このことから、夫の大友皇子との不仲説や、高市皇子との恋人説夫婦説がある(一方で高市皇子片思いという説もあり)。

※この「壬申の乱以後」の解説は、「十市皇女」の解説の一部です。
「壬申の乱以後」を含む「十市皇女」の記事については、「十市皇女」の概要を参照ください。

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