壬申の乱の舞台は九州説とは? わかりやすく解説

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壬申の乱の舞台は九州説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 05:52 UTC 版)

九州王朝説」の記事における「壬申の乱の舞台は九州説」の解説

672年壬申の乱戦闘があった地域は、九州内であったという主張がある。 ただ、この時期平城京法隆寺焼失したうえ、後に北魏様式再建されているので、乱が全国的に発生していた可能性もある。 この乱では、大分恵尺大分稚臣等の九州豪族活躍している。また、大海人皇子九州豪族である宗像氏の娘(胸形尼子娘)を妃にしていた。東国豪族のことは考慮していないため強引ではあるが根拠とする。 大津京は近江大津大津市ではなく肥後大津大津町にあった考えられることとする近江大津付近には京を設置できるような広い土地はないが、肥後大津付近条坊制の跡と見做せなくはない東西南北直交する道等が残る広い平野存在する。( → 肥後大津付近滋賀県瀬田川架かる瀬田の唐橋長大で、日本書紀の記述のように壬申の乱で甲を重ねて刀を抜いて突破することは困難であるということにする。しかしこれが大津町瀬田付近白川かっていたとする短くなり記述とおり突破が可能であるということとする。 近江大津では大津京への遷都理由説明が困難であるということにする。肥後大津なら「白村江の戦い」の敗戦による唐軍侵攻備えた太宰府から内陸部大津京への首都疎開である」と説明がつくこととする大津町北側菊鹿盆地は、古代には 茂賀の浦(しかのうら)と呼ばれた巨大な湖が存在していたといわれる。 → 淡海 大分県には竹田三重・大野・犬養・佐伯など壬申の乱関係する地名多数存在する不破の道とは竹田市付近街道のことと考えられることとする。 → 不破関竹田市には西から道が集まっており、日本書紀の記述どおりに攻めてくる敵の各個撃破が可能であることとするふなんこぐいのような壬申の乱因む風習が残るのは、佐賀県鹿島である。 源氏八幡神氏神とし祀ったことから、八幡神軍神とされるようになったといわれるが、源氏八幡神軍神として氏神祀ったのは、壬申の乱時の宇佐神宮係わり由来する考えられることとする勝敗決したとされる美濃から来た援軍畿内日本国美濃大和周辺招集し九州倭国派遣した軍のことと考えられることとする『日本書紀』記され立田山大坂山九州内の山であり、難波筑後平野に在ったと考えられることとする。 → 難波『日本書紀』天武8年679年11月条に「初めて関を竜田山大坂山に置く、よりて難波羅城を築く」とある。上町台地難波宮羅城城壁)の痕跡は見つかっていない。 以下のことから難波(津)は上町台地ではなかったと考えられることとする 上町台地北端道修町高麗橋周辺平安時代渡辺津呼ばれていた。『日本書紀』には、神武瀬戸内海経てたどり着いた所は「浪速国・浪花」と記されている。『古事記』でも「浪速」と記している。王仁故事無視するならば、大坂市の難波は元は浪花呼ばれており、難波後世人為的に付けられた名前であるとすることができる。 仁徳紀に記された「難波の堀江」は、人工的に建設されたものとされる が、上町台地北端現在の大阪城の北の水路自然に形成されたもので、弥生時代には存在していたことが確認されており、人工的に掘削されたものではない。 上町台は、7世紀頃まで大阪湾河内湖挟まれ砂洲であり狭小多く住民住めるような土地もなく、ヤマト王権本拠地である大和から遠く離れた僻地であったので、仁徳天皇難波高津宮孝徳天皇難波長柄豊碕宮等の宮を置けるような場所ではないということにする。 長柄豊碕宮までの「難波」とは筑後川河口筑後平野付近に在ったと考えられるということにする。柳川市内には、長柄北長柄町南長柄町)という地名存在し久留米市内には、高津 という地名存在する。更に、三潴郡大木町には、大隅大角)という地名存在するまた、佐賀市には 江(しくつえ・祝津江)という地名存在し古代難波にあった宮の名が全て遺存する。 大阪府には、神崎川大川柳川町大木 など筑後川河口にある地名神埼市大川市柳川市大木町)と同じ地名存在する難波地名移植に伴い同時に移植されたと考えられることとする筑後川中流域は、磐井(武烈天皇)が都を置いたという想像をすれば、倭国中心部であった考えられる。さらに想像広げれば応神天皇仁徳天皇欽明天皇孝徳天皇など歴代天皇が都を置いたかもしれない日羅難波暗殺され小郡の西畔丘に一旦仮埋葬されとされる仮埋葬地の小郡難波から遠くないであった考えられるが、河内国には小郡存在しない小郡市があるのは筑後平野である。ただし小郡地名当時からあったわけではない。 「壬申の乱終息時に大伴吹負」が「難波小郡」で「難波以西国司」達から「官鑰驛鈴傳印」つまり「税倉」等の鍵や「官道使用必要な「鈴」や「印」などを押収している。「壬申の乱」は20日程度終息しており、もし難波上町台地であったなら20日程度遠く離れた九州等の国司達に命令伝えて上町台地集めることは不可能であり、その目的不明である。しかし、この「難波小郡」が筑後の「小郡」のことなら「難波以西の国」は九州内だけの国司達のこととなり筑後の「小郡」へ集めることが可能であると仮定すれば、一応はその目的も敵に協力した国司達の解任との推測成り立つ。 古代筑後川は海が内陸まで入り込み船で中流域まで遡上できたと考えられている。 古代難波には八十島といわれるほど、島が多くあったとされるが、河内湖上町台地遮られており、島が形成される余地少なかった考えられることとする一方筑後河口巨大な三角州であり、陸化の過程数多く中州形成され有明海潮の干満の差の大きな海であることから潮が引いた状態では更に多くの州が出現する

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