壬申の乱の舞台は九州説
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「九州王朝説」の記事における「壬申の乱の舞台は九州説」の解説
672年の壬申の乱の戦闘があった地域は、九州内であったという主張がある。 ただ、この時期に平城京の法隆寺も焼失したうえ、後に北魏の様式に再建されているので、乱が全国的に発生していた可能性もある。 この乱では、大分恵尺・大分稚臣等の九州の豪族が活躍している。また、大海人皇子は九州の豪族である宗像氏の娘(胸形尼子娘)を妃にしていた。東国豪族のことは考慮していないため強引ではあるが根拠とする。 大津京は近江大津(大津市)ではなく、肥後大津(大津町)にあったと考えられることとする。近江大津付近には京を設置できるような広い土地はないが、肥後大津付近は条坊制の跡と見做せなくはない東西と南北に直交する道等が残る広い平野が存在する。( → 肥後大津付近) 滋賀県の瀬田川に架かる瀬田の唐橋は長大で、日本書紀の記述のように壬申の乱で甲を重ねて刀を抜いて突破することは困難であるということにする。しかしこれが大津町瀬田付近の白川に架かっていたとすると橋は短くなり記述とおり突破が可能であるということとする。 近江大津では大津京への遷都の理由説明が困難であるということにする。肥後大津なら「白村江の戦い」の敗戦による唐軍の侵攻に備えた太宰府から内陸部の大津京への首都の疎開である」と説明がつくこととする。 大津町の北側の菊鹿盆地は、古代には 茂賀の浦(しかのうら)と呼ばれた巨大な湖が存在していたといわれる。 → 淡海 大分県には竹田・ 三重・大野・犬養・佐伯など壬申の乱に関係する地名が多数存在する。不破の道とは竹田市付近の街道のことと考えられることとする。 → 不破関竹田市には西から道が集まっており、日本書紀の記述どおりに攻めてくる敵の各個撃破が可能であることとする。 ふなんこぐい等のような壬申の乱に因む風習が残るのは、佐賀県鹿島である。 源氏が八幡神を氏神とし祀ったことから、八幡神が軍神とされるようになったといわれるが、源氏が八幡神を軍神として氏神に祀ったのは、壬申の乱の時の宇佐神宮の係わりに由来すると考えられることとする。 勝敗を決したとされる美濃から来た援軍は畿内日本国が美濃や大和の周辺で招集し九州倭国へ派遣した軍のことと考えられることとする。 『日本書紀』に記された立田山や大坂山は九州内の山であり、難波は筑後平野に在ったと考えられることとする。 → 難波『日本書紀』天武8年(679年)11月条に「初めて関を竜田山、大坂山に置く、よりて難波に羅城を築く」とある。上町台地の難波宮に羅城(城壁)の痕跡は見つかっていない。 以下のことから難波(津)は上町台地ではなかったと考えられることとする 上町台地北端・道修町高麗橋周辺は平安時代に渡辺津と呼ばれていた。『日本書紀』には、神武が瀬戸内海を経てたどり着いた所は「浪速国・浪花」と記されている。『古事記』でも「浪速」と記している。王仁の故事を無視するならば、大坂市の難波は元は浪花と呼ばれており、難波は後世に人為的に付けられた名前であるとすることができる。 仁徳紀に記された「難波の堀江」は、人工的に建設されたものとされる が、上町台地の北端、現在の大阪城の北の水路は自然に形成されたもので、弥生時代には存在していたことが確認されており、人工的に掘削されたものではない。 上町台は、7世紀頃まで大阪湾と河内湖に挟まれた砂洲であり狭小で多くの住民の住めるような土地もなく、ヤマト王権の本拠地である大和から遠く離れた僻地であったので、仁徳天皇が難波高津宮、孝徳天皇が難波長柄豊碕宮等の宮を置けるような場所ではないということにする。 長柄豊碕宮までの「難波」とは筑後川河口(筑後平野)付近に在ったと考えられるということにする。柳川市内には、長柄(北長柄町・南長柄町)という地名が存在し、久留米市内には、高津 という地名も存在する。更に、三潴郡大木町には、大隅(大角)という地名も存在する。また、佐賀市には 鰡江(しくつえ・祝津江)という地名が存在し、古代難波にあった宮の名が全て遺存する。 大阪府には、神崎川・大川・柳川町・大木 など筑後川河口にある地名(神埼市・大川市・柳川市・大木町)と同じ地名が存在する。難波の地名の移植に伴い同時に移植されたと考えられることとする。 筑後川中流域は、磐井(武烈天皇)が都を置いたという想像をすれば、倭国の中心部であったと考えられる。さらに想像を広げれば、応神天皇、仁徳天皇、欽明天皇、孝徳天皇など歴代の天皇が都を置いたかもしれない。 日羅は難波で暗殺され小郡の西畔丘に一旦仮埋葬されたとされる。仮埋葬地の小郡は難波から遠くない所であったと考えられるが、河内国には小郡は存在しない。小郡市があるのは筑後平野である。ただし小郡の地名は当時からあったわけではない。 「壬申の乱」終息時に「大伴吹負」が「難波小郡」で「難波以西の国司」達から「官鑰驛鈴傳印」つまり「税倉」等の鍵や「官道」使用に必要な「鈴」や「印」などを押収している。「壬申の乱」は20日程度で終息しており、もし難波が上町台地であったなら20日程度で遠く離れた九州等の国司達に命令を伝えて上町台地へ集めることは不可能であり、その目的も不明である。しかし、この「難波小郡」が筑後の「小郡」のことなら「難波以西の国」は九州内だけの国司達のこととなり筑後の「小郡」へ集めることが可能であると仮定すれば、一応はその目的も敵に協力した国司達の解任との推測が成り立つ。 古代筑後川は海が内陸まで入り込み船で中流域まで遡上できたと考えられている。 古代難波には八十島といわれるほど、島が多くあったとされるが、河内湖は上町台地に遮られており、島が形成される余地は少なかったと考えられることとする。一方、筑後河口は巨大な三角州であり、陸化の過程で数多くの中州が形成され、有明海は潮の干満の差の大きな海であることから潮が引いた状態では更に多くの州が出現する。
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