壬申の乱は、易姓革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 05:52 UTC 版)
以下のことから壬申の乱により、王朝交代(易姓革命)があったと考えられる。 『古事記』や『日本書紀』には、同父同母の天智天皇が「兄」で天武天皇が「弟」と書かれているが、天智天皇は天智天皇10年(671年)に46歳で崩御し、天武天皇は天武天皇15年/朱鳥元年(686年)に65歳で崩御しているので天武天皇のほうが4歳天智天皇よりも年上である。また天武天皇は天智天皇の娘を4人も妃にしているので、天武天皇と天智天皇が兄弟であることはない。 天武天皇は壬申の乱のおりに、自分を百姓(侠客)上がりの漢の高祖劉邦になぞらえて劉邦と同じ赤い旗を使用しているが、身内同士の争では例えとして合っていない。 「天智天皇」は、(殷)最後の暴君とされる(紂王)の愛した「天智玉」に由来し、「天武天皇」は、「天は武王を立てて悪しき王紂王を滅ぼした」に由来する。「天智天皇」・「天武天皇」の諡号は、殷王朝から周王朝への易姓革命を意識して付けられたものである(森鷗外『帝謚考』)。 〈史書の国号改称記事〉 『舊唐書』卷一百九十九上 列傳第一百四十九上 東夷 倭國 日本國 「日本國者倭國之別種也 也以其國在日邊故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅改爲日本 或云 日本舊小國併倭國之地」 『唐書』卷二百二十 列傳第一百四十五 東夷 日本 「惡倭名更號日本 使者自言 國近日所出以為名 或云 日本乃小國爲倭所并故冒其號 使者不以情故疑焉」 『旧唐書』には、倭ないし日本について『倭国伝』と『日本国伝』の二つの記事が立てられている。これは九州倭国と畿内日本とは別の国であり、九州が畿内により征服され、ヤマト王権が日本の名前を使い始めたからである。つまり、倭(九州)と日本(畿内)とは別の国であり、九州倭国が畿内日本により征服され、ヤマト王権が日本の名前を使い始めたと考えられる。 天皇家の最も重要な祭祀である大嘗祭は、天武天皇2年(673年)まで行われていない。それまで大和朝廷に政権がなかったからである。 天武天皇2年(673年)8月条に、「詔耽羅使人曰。天皇新平天下、初之即位。由是唯除賀使、以外不召。」とあり「詔で耽羅国の使人に曰く。天皇が新たに天下を平定し、初めて即位する。ゆえに祝賀使は受け入れるが、それ以外は受け入れない。」と宣言している。 漢文明圏では、新しく興った王朝が滅んだ前王朝の歴史を編纂するのが通例であるが、天武が歴史編纂を命じたのは天武天皇10年(681年)である。 日本書紀によると天武は、三種の神器の一つである草薙剣に祟られているので、天武は、本来正当な後継者ではなかったと考えられる。
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