壬申の乱と配流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 17:46 UTC 版)
672年の壬申の乱で赤兄の活躍は特に伝えられないが、近江朝廷の最高位の臣下として大友皇子(弘文天皇)を補佐したと思われる。最後の決戦となった7月22日の瀬田の戦いに、大友皇子と共に出陣したが、敗れて逃げた。23日に大友皇子が自殺し、24日に捕らえられた。8月25日に子孫と共に配流された。配流の地は不明である。いずれにせよ彼を始めとした倉麻呂の息子達は連子系の蘇我安麻呂(彼にしても、間もなく亡くなったと推定される)以外は没落する事となり、蘇我氏高位不在の時代が長く続くこととなる。
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