壬生説
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壬生寺の寺伝によれば、貞享3年(1686年)、輪王寺宮天真親王が日光へ向かう道中、円仁誕生の旧跡が荒廃していることを嘆き、時の壬生城主・三浦壱岐守直次(時期と官職名は明敬に一致する)に命じて大師堂を建立し、飯塚(現小山市大字飯塚)の台林寺をそこに移建して別当としたという。貞享3年11月付で壬生寺大師堂の棟札の裏に書かれた文書がその記録であり、壬生説の初出となっている。また、壬生寺周辺の呼称を「お里」と言ったことが江戸時代初期に記録されていて、これは円仁の故郷だからであると伝えられている。 その後、歴代の輪王寺宮や輪王寺門跡によって、大師堂の改修、報恩会の組織、大法要などが行われた。1688年(元禄元年)の『下野風土記』には、慈覚大師の産湯の井戸が壬生に存在すると記される。1911年(明治44年)、手洗窪に「慈覚大師誕生霊蹟碑」が建てられた際には岩舟説と争われ、天台宗幹部らの支持を得た。土屋文明は1971年(昭和46年)に壬生寺を訪れ、円仁にまつわる歌を詠んでいる。
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