岩舟説の研究史とは? わかりやすく解説

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岩舟説の研究史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 14:13 UTC 版)

円仁誕生の地」の記事における「岩舟説の研究史」の解説

江戸後期に『下野国誌』を編纂した河野守弘は、円仁誕生時紫雲がたなびいた伝えられるのが大慈寺南方であることと、現在の壬生町壬生城構えその地名の由来となった壬生氏について、室町時代寛正年間寛正3年とされる)に京都から移り住んだ壬生胤業がその祖であると述べそれ以前地名は「上の原であったという)、円仁生まれた時代には壬生氏はその地に定着していないとして壬生説否定している。なお河野は、円仁輩出した壬生氏豊城入彦命後裔毛野氏流れをくむ壬生氏)であるとし、胤業と祖先異にする見ていて、後述田嶋隆純の説もこれを承けている。 大正時代には足利出身郷土史家考古学者だった丸山瓦全岩舟説強く支持し昭和に入ると服部清道田嶋隆純岩舟説論陣張った板碑研究知られる歴史家服部現地調査の上で、円仁誕生地を壬生でも手洗でもないとし、しかし三毳山麓であり旧安蘇郡下津原付近にあるという結論示した一方田嶋服部結論批判し手洗窪が誕生地でもおかしくないと主張した田嶋は、壬生説根拠前述大師堂棟札裏に記され文書当地黒川家伝えられ文書2点のみであり、双方とも江戸時代のもので歴史浅く後者については事実誤認箇所があるため、信用足らない指摘した両名論文日光山輪王寺の寺報19号転載され、福井康順もその意見支持した平成入ってからは「熊倉系図」が認識されいわゆる円仁系図」として注目集めた。これによると円仁の父は「壬生麻呂」(みぶ の おびとまろ)、その肩書きは「三駅長」(異本では「三野駅長」の誤記もある)とされている。三駅(三毳駅)は東山道宿駅であり、その位置には諸説あるが、佐伯有清は三駅の駅家所在地を旧安蘇郡畳岡現在の栃木市岩舟町畳岡付近であった考え誕生地もそこであると推定した。この系図但書は諸文献に拠ったものだが、記載され人物の世代等には史実矛盾する部分多く、その作図目的熊倉氏と壬生氏繋がり強調するにあった可能性指摘され系譜としての正確性には疑問呈されている。ちなみに、この系図では胤業を秋主の子孫としている。佐伯同時に紫雲伝説に従って誕生地を論じた研究不確実さを批判した上で円仁誕生時代にこの地に関所があったとは考えにくいとして、『私聚百因縁集』における記述斥けている。 ほかの支持者としては、1911年明治44年)に手洗窪の「慈覚大師誕生霊蹟碑」を南条文雄撰文し、篆額は第243天台座主山岡観澄が揮毫している。撰文依頼受けた際、南条円仁誕生地は壬生であると認識していたため謝絶したが、真の誕生地が岩舟である事を詳細に説明され結果はじめて引き受けた、という逸話がある。吉田東伍は『大日本地名辞書』で岩舟説支持した速水侑はその著書の中で、円仁出身地岩舟とし、壬生説には触れていない。

※この「岩舟説の研究史」の解説は、「円仁誕生の地」の解説の一部です。
「岩舟説の研究史」を含む「円仁誕生の地」の記事については、「円仁誕生の地」の概要を参照ください。

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