岩舟説の研究史
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江戸後期に『下野国誌』を編纂した河野守弘は、円仁誕生時に紫雲がたなびいたと伝えられるのが大慈寺の南方であることと、現在の壬生町に壬生城を構えその地名の由来となった壬生氏について、室町時代の寛正年間(寛正3年とされる)に京都から移り住んだ壬生胤業がその祖であると述べ(それ以前の地名は「上の原」であったという)、円仁が生まれた時代には壬生氏はその地に定着していないとして、壬生説を否定している。なお河野は、円仁を輩出した壬生氏は豊城入彦命の後裔(毛野氏の流れをくむ壬生氏)であるとし、胤業と祖先を異にすると見ていて、後述の田嶋隆純の説もこれを承けている。 大正時代には足利出身の郷土史家・考古学者だった丸山瓦全が岩舟説を強く支持し、昭和に入ると服部清道と田嶋隆純も岩舟説の論陣を張った。板碑研究で知られる歴史家の服部は現地調査の上で、円仁の誕生地を壬生でも手洗窪でもないとし、しかし三毳山麓であり旧安蘇郡下津原村付近にあるという結論を示した。一方の田嶋は服部の結論を批判し、手洗窪が誕生地でもおかしくないと主張した。田嶋は、壬生説の根拠は前述の大師堂棟札裏に記された文書と当地の黒川家に伝えられた文書の2点のみであり、双方とも江戸時代のもので歴史が浅く、後者については事実誤認の箇所があるため、信用に足らないと指摘した。両名の論文は日光山輪王寺の寺報19号に転載され、福井康順もその意見を支持した。 平成に入ってからは「熊倉系図」が認識され、いわゆる「円仁の系図」として注目を集めた。これによると円仁の父は「壬生首麻呂」(みぶ の おびとまろ)、その肩書きは「三鴨駅長」(異本では「三野駅長」の誤記もある)とされている。三鴨駅(三毳駅)は東山道の宿駅であり、その位置には諸説あるが、佐伯有清は三鴨駅の駅家の所在地を旧安蘇郡畳岡村(現在の栃木市岩舟町畳岡)付近であったと考え、誕生地もそこであると推定した。この系図の但書は諸文献に拠ったものだが、記載された人物の世代等には史実と矛盾する部分も多く、その作図の目的が熊倉氏と壬生氏の繋がりを強調する点にあった可能性が指摘され、系譜としての正確性には疑問も呈されている。ちなみに、この系図では胤業を秋主の子孫としている。佐伯は同時に、紫雲の伝説に従って誕生地を論じた研究の不確実さを批判した上で、円仁誕生の時代にこの地に関所があったとは考えにくいとして、『私聚百因縁集』における記述を斥けている。 ほかの支持者としては、1911年(明治44年)に手洗窪の「慈覚大師誕生霊蹟碑」を南条文雄が撰文し、篆額は第243世天台座主山岡観澄が揮毫している。撰文の依頼を受けた際、南条は円仁の誕生地は壬生であると認識していたため謝絶したが、真の誕生地が岩舟である事を詳細に説明された結果はじめて引き受けた、という逸話がある。吉田東伍は『大日本地名辞書』で岩舟説を支持した。速水侑はその著書の中で、円仁の出身地を岩舟とし、壬生説には触れていない。
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