岩舟説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 05:52 UTC 版)
高平寺の寺伝によれば、円仁は三毳山(安蘇山)東麓、現在の下津原手洗窪(たらいくぼ)に生まれ、9歳まで高平寺で修行したという。なお、手洗窪はもともと「盥窪」と書き、円仁の産湯の井戸からその地名が付いたとされる。 誕生の地が三毳山の周辺であるという説の根拠としては、順徳天皇の撰による鎌倉時代の歌学書『八雲御抄』の記事に「下野 みかほの関 山也 みかほの山ハ古名所但在常陸国歟 是者慈覚大師生所也 未詠可歟」、同じく鎌倉時代に愚勧住信によって編まれた説話集『私聚百因縁集』に「抑慈覚大師俗姓三生氏、下野国都賀郡人也 或云都加部関守子也」とあることなどが挙げられる。江戸時代初期の公卿烏丸光広が著した『日光山紀行』には「佐野を一里ばかり行きて、盥窪と云ふ所あり。慈覚大師生湯浴みたまふ故とかや」とある。 壬生説について、岩舟説の立場からは「円仁が壬生氏である事から後世附会されたものである」という見方のほか、より具体的に「日光への道中で、日光例幣使(天真親王の誤伝)が円仁の誕生地を下問した際、近臣が苦し紛れに答弁したことが発祥である」とする伝承もある。
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