岩舟での戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 13:45 UTC 版)
竹内ら浪士は、小野寺にたどり着いたものの、糧食が手に入らないうえに木村の軍勢の追跡を受けていることを知ったので、下山して新里村に至り、食事をとることにした。翌12月13日の明け方に新里村にたどり着き、地元民から炊き出しを受けた。このとき浪士隊は複数の斥候を出したが、うち3名が幕府軍に捕らえられている。 渋谷は間諜の報告でそれを把握し、浪士隊の目的地は岩船山であることは承知していたので、岩船山の麓で浪士隊を殲滅すべく計画を立てていた。木村・宮内隊も村の灯りを見てこれを知り、村を西と南北から包囲した上で、朝食をとっている浪士たちを銃撃した。 浪士たちは最初西から村を出ようとして果たせず、東の岩船山に向かって逃げたが、銃火器を持たない浪士たちには白兵戦のほか戦法がなく、遠巻きに射撃を繰り返す幕軍にはなすすべもなかった。そのため、仕方なく下山して戦いを挑もうとしたが、西から渋谷率いる本隊が現れ、またもや銃撃された。これによって浪士たちは四散し、岩船山の山中か鷲巣(現栃木市岩舟町鷲巣)の方面に逃げて、多くは戦死か捕縛の道を辿った。このとき、浪士隊副将の会沢は渋谷の本陣を襲い、討死している。常田与一郎も新里・八幡山(岩船山の北西の山。新里八幡宮が鎮座している)で戦死した。また戦いの終盤には、長州出身の井上十郎(重郎)が幕府軍の兵に紛れて渋谷に肉薄したが、殺害には失敗し、その場は逃げおおせたものの、のちに捕縛・処刑された。 なお、これらの戦いに関しても、岩舟での戦闘→出流山への攻撃という順で行われたとする史料がある。
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