伊勢神宮の勧請
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1514年伊勢神宮に参拝した際に大内義興は感銘を受け1518年8月に山口へ戻ると前例のない勅許を賜った上での皇太神宮、豊受大神宮の勧請を試みた。当時の伊勢神宮は幕府の神宮頭人の力が及ばなくなり、全国の荘園から届く役夫工米が滞納された事により慢性的な財政難に陥り、外宮は1434年内宮は1463年より式年遷宮が中断していた。その反面、庶民による伊勢信仰は広まり南北朝時代頃よりには飛び神明といわれる伊勢神宮の勧請が流行し各地に神明神社が創建されていた。高嶺大神宮の勧請もそうした流れを受けたものであったが、吉田神社を通じて奏聞され後に後柏原天皇の「高嶺大神宮」の御宸筆のもと分霊を受けている点で神明神社の中でも一線を画す。1519年11月3日に外宮、1520年4月8日に内宮を造営すると同年6月29日神宮の御師 高向二頭大夫光定により勧請遷宮が執り行われた。当初は高嶺神明と称していたが前述の通り後柏原天皇から「高嶺太神宮」、後に後陽成天皇から「伊勢」の勅額を賜ると昭和22年「山口大神宮」と改称するまで「高嶺太神宮」「今伊勢」と称せられた。式年遷宮は伊勢神宮遷宮前後相論に配慮し1540年に外宮・内宮同時に行われている。
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