万博以後と特急網の完成
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「近鉄特急史」の記事における「万博以後と特急網の完成」の解説
1971年(昭和46年)5月 初代「ビスタカー」、10000系電車が引退。試作車的性格が強いのと、特急座席予約システムに対応できないことから、12200系を新製して置き換えられることになり、登場後僅か13年で廃車となった。 10月25日 大阪線垣内信号所付近で特急列車同士の正面衝突事故発生。死者25名、重軽傷者220名以上を出す大惨事となった(近鉄大阪線列車衝突事故を参照)。既に計画していた大阪線の全線複線化実施を早める契機にもなった。 12月8日 近鉄四日市駅高架化工事により「湯の山特急」の上本町駅・名古屋駅直通を休止し、湯の山線内のみの運転となる。 1972年(昭和47年)11月7日 1956年に登場した奈良線の料金不要の「特急」(難波駅 - 奈良駅間)が、停車駅を2駅追加(当時)の上「快速急行」へ列車種別を改める(ただし快速急行は、1976年3月18日のダイヤ変更までは、朝ラッシュ時の大和西大寺駅始発の列車のみ、従来の特急と同じ停車駅として運転)。奈良駅 - 賢島駅間運転の特急を廃止(「京伊特急」に変更)。「京奈特急」に京都線内のみの運転となる列車が片道3本のみ運転開始(大和西大寺駅発京都駅行きのみ)。名古屋線全線複線化完成(中川短絡線雲出川分岐 - 伊勢中川駅間複線化による)。 1973年(昭和48年)3月1日 難波駅 - 京都駅間に3往復の特急が登場(「阪京特急」)。奈良線の布施駅 - 大和西大寺駅間では初の有料特急となった。一方で「京奈特急」の京都線内のみの運転の列車が一旦廃止(設定されていた片道3本とも近鉄奈良駅発に延長)。 7月 「阪伊乙特急」・「京伊特急」両列車が、併結区間のうち、大和八木駅 - 鳥羽駅間で最大10両編成に増強される(一部列車のみ)。また名古屋線内の特急の一部で8両編成運転開始。 9月21日 難波駅 - 奈良駅間にも4往復の有料特急(「阪奈特急」)が登場する。同時に橿原線軌道中心間隔・車両限界・建築限界拡大工事完成により京都線、橿原線特急にも全特急車両(「吉野特急」車両を除く)が運用可能となる。 1974年(昭和49年)7月20日 運賃改正により運賃制度を区間制から特急料金同様に対キロ制に制度を変更。特急料金も改正。 9月20日 「湯の山特急」の上本町駅・名古屋駅直通を再開。 1975年(昭和50年)4月 山陽新幹線の博多延伸開業に伴い、西日本方面からの観光客を誘致するため、同社単独提供の紀行番組「真珠の小箱」(2004年3月に終了)が、東海道・山陽新幹線沿線のJNN系列局でネット開始。同番組のオープニングとエンディングに流れた同社のCMも、同社沿線である関西・中京地区以外の、新幹線沿線のネット局向けには、「奈良大和路・伊勢志摩へ、新幹線と近鉄特急で」と案内されるようになった。また同時期に、同番組のネット局があった都市の新幹線の駅(岡山駅・広島駅・博多駅など)付近に、「奈良大和路・伊勢志摩へ近鉄特急:新幹線京都駅・名古屋駅で連絡」の屋外広告が設置されるようになった(2004年の番組終了以降、屋外広告も撤去された)。 11月23日 新青山トンネル開通による、大阪線の全線複線化が完成。同年12月20日には鳥羽線の複線化も完成した。 1976年(昭和51年)3月18日 大阪線・鳥羽線の全線複線化に伴う白紙ダイヤ変更が行われ、「阪伊特急」を中心に増発・速度向上が行われる。「名阪特急」は甲・乙ともに削減され、「名阪甲特急」は翌1977年まで終日2両編成運転となる(車両は阪奈特急と共通運用となった)。「名阪乙特急」は原則上本町発着から近鉄難波発着に変更され、名阪とも甲特急00分発、乙特急30分発に統一(これまでは近鉄名古屋発は逆)。また「阪伊乙特急」と「京伊特急」の併結運転を廃止し単独運転に。大阪線、山田線、鳥羽線での10両編成運転廃止。「京伊特急」は伊勢中川駅・五十鈴川駅を通過し、「名阪乙特急」・「阪伊乙特急」の全列車が名張駅に、「名阪乙特急」・「名伊乙特急」の全列車が白子駅に停車。 1977年(昭和52年)1月18日 ダイヤ変更。前年11月6日に実施した、国鉄の運賃・料金の大幅値上げの影響により、「名阪甲特急」の乗客が増加に転じ、またその数が著しいことから、わずか10ヶ月で終日2両編成運転を見直し、一部の列車を3両編成および4両編成の運転とする。また、「名阪乙特急」・「阪伊乙特急」の増発も実施。 12月30日 「サニーカー」の第一陣となる12400系電車が登場。 1978年(昭和53年)12月30日 3代目「ビスタカー」となる30000系電車が登場。 1979年(昭和54年)3月15日 一部「名伊乙特急」を久居駅に停車開始。 7月 2代目「ビスタカー」、10100系電車が営業運転を終了。また同月より京都駅1番線ホーム延長工事完成により、京都線・橿原線は(当時は)特急に限り最大6両運転が可能となる。 1980年(昭和55年)3月18日 1976年ごろより国鉄の労使紛争・運賃値上げが顕著となり、名阪間の「新幹線」と「名阪特急」の料金格差が広がったことから「名阪特急」の利用客が増加、この改正で名阪甲・乙特急ともに久し振りに増発を図る。朝の「阪奈特急」1本が大和西大寺駅 - 難波駅間で10両編成運転を開始(10両編成特急復活。のち奈良駅 - 難波駅に拡大)。また「吉野特急」の全列車を高田市駅に停車。「湯の山特急」を「名阪乙特急」と別枠で設定(これまでは名阪乙特急の時刻を利用していたため、湯の山特急の設定時間帯のみ名阪乙特急の運転間隔が2時間開いていた。また別枠化に伴い名阪乙特急の難波発着に対し湯の山特急は上本町発着となる)し、1976年までの名阪乙特急と同じく名張駅・白子駅通過となる。 7月 名阪甲特急用に3両固定編成の12410系を新造投入。 1981年(昭和56年)12月31日 終夜運転臨時特急「越年号」(終夜運転臨時特急の愛称は1987年度の運転をもって廃止)の一部で大阪線、山田線、鳥羽線の10両編成特急が復活。運転区間は近鉄難波駅 - 五十鈴川駅。なお、当時は上本町地上駅は10連対応ではなかった。上本町駅地上ホームの10両編成対応化は1985年に完成。 1983年(昭和58年)3月18日 「湯の山特急」も上本町発着から難波発着へと変更となる。同時に1971年以来の「名阪乙特急」との併結運転となる。1974年より「湯の山特急」の上本町・名古屋直通は復活していたが単独運転であった。しかし、近鉄四日市駅の線路配線の関係から、難波発着の「湯の山特急」の「名阪特急」との併結区間は難波駅 - 白子駅間となる。名古屋発の「湯の山特急」を廃止(名古屋行は1997年まで存続)。また、禁煙席も1号車の1番 - 32番で設けられる。 1986年(昭和61年)3月18日 同日より禁煙席を1号車の全席に拡大。これにより「禁煙席」は「禁煙車」に改称(現在は禁煙車自体も拡大)。 1987年(昭和62年)2月 特急座席予約システムを、オンライン乗車券発行システム(定期券発行が主)・企画旅行システム(旅行業務)を含めた総合的なシステム「ASKA(All-round Services by Kintetsu and its Agencies)システム」へリニューアル。これにより、前売開始日繰り上げ(3週間前から1か月前へ)・乗り継ぎ対応回数拡大(2回乗り継ぎ3列車から3回乗り継ぎ4列車へ)・号車座席指定対応(例:○号車○番・○号車窓側)・電話予約開始(一部区間)・多人数券発売(複数席の1枚への表示)・往復購入時の復路1か月1日前発売(一部区間)などが可能になった。
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