万博以後と特急網の完成とは? わかりやすく解説

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万博以後と特急網の完成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 01:49 UTC 版)

近鉄特急史」の記事における「万博以後と特急網の完成」の解説

1971年昭和46年5月 初代ビスタカー」、10000系電車引退試作車性格が強いのと、特急座席予約システムに対応できないことから、12200系を新製して置き換えられることになり、登場後僅か13年廃車となった10月25日 大阪線垣内信号所付近特急列車同士正面衝突事故発生死者25名、重軽傷220名以上を出す大惨事となった近鉄大阪線列車衝突事故参照)。既に計画していた大阪線全線複線化実施早める契機にもなった。 12月8日 近鉄四日市駅高架化工事により「湯の山特急の上本町駅名古屋駅直通休止し湯の山線内のみの運転となる。 1972年昭和47年11月7日 1956年登場した奈良線料金不要の「特急」難波駅 - 奈良駅間)が、停車駅を2駅追加当時の上快速急行」へ列車種別改める(ただし快速急行は、1976年3月18日ダイヤ変更までは、朝ラッシュ時大和西大寺駅始発列車のみ、従来特急と同じ停車駅として運転)。奈良駅 - 賢島駅間運転の特急廃止(「京伊特急」に変更)。「京奈特急」に京都線内のみの運転となる列車片道3本のみ運転開始大和西大寺駅京都駅行きのみ)。名古屋線全線複線化完成中川短絡線雲出川分岐 - 伊勢中川駅複線化による)。 1973年昭和48年3月1日 難波駅 - 京都駅間に3往復特急登場(「阪京特急」)。奈良線布施駅 - 大和西大寺駅間では初の有料特急となった一方で「京奈特急」の京都線内のみの運転の列車が一旦廃止設定されていた片道3本とも近鉄奈良駅発に延長)。 7月 「阪伊乙特急」・「京伊特急」両列車が、併結区間のうち、大和八木駅 - 鳥羽駅間で最大10両編成増強される(一部列車のみ)。また名古屋線内の特急一部8両編成運転開始9月21日 難波駅 - 奈良駅間にも4往復有料特急(「阪奈特急」)が登場する同時に橿原線軌道中心間隔車両限界建築限界拡大工事完成により京都線橿原線特急にも全特車両(「吉野特急車両を除く)が運用可能となる。 1974年昭和49年7月20日 運賃改正により運賃制度区間制から特急料金同様に対キロ制制度変更特急料金改正9月20日湯の山特急の上本町駅名古屋駅直通再開1975年昭和50年4月 山陽新幹線博多延伸開業に伴い西日本方面からの観光客誘致するため、同社単独提供紀行番組真珠の小箱」(2004年3月終了)が、東海道・山陽新幹線沿線JNN系列局ネット開始。同番組オープニングとエンディング流れた同社CMも、同社沿線である関西中京地区以外の新幹線沿線ネット局向けには、「奈良大和路伊勢志摩へ、新幹線近鉄特急で」と案内されるようになった。また同時期に、同番組ネット局があった都市新幹線の駅(岡山駅広島駅博多駅など)付近に、「奈良大和路伊勢志摩近鉄特急新幹線京都駅名古屋駅連絡」の屋外広告設置されるようになった2004年番組終了以降屋外広告撤去された)。 11月23日 新青山トンネル開通による、大阪線全線複線化完成同年12月20日には鳥羽線複線化完成した1976年昭和51年3月18日 大阪線鳥羽線全線複線化に伴う白紙ダイヤ変更が行われ、「阪伊特急」を中心に増発速度向上が行われる。「名阪特急」は甲・乙ともに削減され、「名阪甲特急」は翌1977年まで終日2両編成運転となる(車両阪奈特急と共通運となった)。「名阪乙特急」は原則上本町発着から近鉄難波発着変更され名阪とも甲特急00分発、乙特急30分発に統一これまで近鉄名古屋発は逆)。また「阪伊乙特急」と「京伊特急」の併結運転を廃止し単独転に大阪線山田線鳥羽線での10両編成運転廃止。「京伊特急」は伊勢中川駅五十鈴川駅通過し、「名阪乙特急」・「阪伊乙特急」の全列車名張駅に、「名阪乙特急」・「名伊乙特急」の全列車白子駅停車1977年昭和52年1月18日 ダイヤ変更前年11月6日実施した国鉄運賃・料金大幅値上げ影響により、「名阪甲特急」の乗客増加転じ、またその数が著しいことから、わずか10ヶ月終日2両編成運転を見直し一部列車3両編成および4両編成の運転とする。また、名阪乙特急」・「阪伊乙特急」の増発実施12月30日 「サニーカー」の第一陣となる12400系電車登場1978年昭和53年12月30日 3代目ビスタカー」となる30000系電車登場1979年昭和54年3月15日 一部「名伊乙特急」を久居駅停車開始7月 2代目ビスタカー」、10100系電車営業運転終了。また同月より京都駅1番線ホーム延長工事完成により、京都線橿原線は(当時は)特急限り最大6両運転が可能となる。 1980年昭和55年3月18日 1976年ごろより国鉄労使紛争運賃値上げ顕著となり、名阪間の「新幹線」と「名阪特急」の料金格差広がったことから「名阪特急」の利用客増加、この改正名阪甲・乙特急ともに久し振りに増発を図る。朝の「阪奈特急」1本が大和西大寺駅 - 難波駅間で10両編成運転を開始10両編成特急復活。のち奈良駅 - 難波駅拡大)。また「吉野特急」の全列車高田市駅停車。「湯の山特急」を「名阪乙特急」と別枠設定これまで名阪乙特急時刻利用していたため、湯の山特急設定時間帯のみ名阪乙特急運転間隔が2時間開いていた。また別枠に伴い名阪乙特急難波発着対し湯の山特急上本町発着となる)し、1976年まで名阪乙特急同じく名張駅白子駅通過となる。 7月 名阪甲特急用に3両固定編成12410系を新造投入1981年昭和56年12月31日 終夜運転臨時特急越年号」(終夜運転臨時特急愛称1987年度の運転をもって廃止)の一部大阪線山田線鳥羽線10両編成特急復活運転区間近鉄難波駅 - 五十鈴川駅。なお、当時上本町地上駅10連対応ではなかった。上本町駅地上ホーム10両編成応化1985年完成1983年昭和58年3月18日湯の山特急」も上本町発着から難波発着へと変更となる。同時に1971年以来の「名阪乙特急」との併結運転となる。1974年より「湯の山特急の上本町名古屋直通復活していたが単独運転であった。しかし、近鉄四日市駅線路配線の関係から、難波発着の「湯の山特急」の「名阪特急」との併結区間難波駅 - 白子駅間となる。名古屋発の「湯の山特急」を廃止名古屋行は1997年まで存続)。また、禁煙席1号車の1番 - 32番設けられる1986年昭和61年3月18日 同日より禁煙席1号車の全席に拡大。これにより「禁煙席」は「禁煙車」に改称(現在は禁煙車自体拡大)。 1987年昭和62年2月 特急座席予約システムを、オンライン乗車券発行システム定期券発行が主)・企画旅行システム旅行業務)を含めた総合的なシステムASKA(All-round Services by Kintetsu and its Agencies)システム」へリニューアル。これにより、前売開始繰り上げ(3週間前から1か月前へ)・乗り継ぎ対応回数拡大(2回乗り継ぎ3列車から3回乗り継ぎ4列車へ)・号車座席指定対応(例:○号車○番・○号車窓側)・電話予約開始一部区間)・多人数発売複数席の1枚への表示)・往復購入時復路1か月1日発売一部区間)などが可能になった。

※この「万博以後と特急網の完成」の解説は、「近鉄特急史」の解説の一部です。
「万博以後と特急網の完成」を含む「近鉄特急史」の記事については、「近鉄特急史」の概要を参照ください。

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