プロダクション鷹の設立と監督デビュー
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「木俣堯喬」の記事における「プロダクション鷹の設立と監督デビュー」の解説
1963年(昭和38年)から、関西でテレビの生番組の演出をしていたが、吉本興業が京福電気鉄道とともに開始したテレビ映画『戦国群盗伝』の製作に関わるが、企画が頓挫する。これを自力で継承し、1965年(昭和40年)4月17日、日東テレビ映画を設立、松竹京都撮影所出身の倉橋良介を起用して『荒野の鷹』として製作するが、これも頓挫する。東映から地方の下番線用の添え物として、「お色気作品」をと声をかけられ、同年6月1日、プロダクション鷹を設立、これを母体に劇場用映画『日本毒婦伝 赤いしごき』を製作した。同作の監督としてクレジットされた「風魔三郎」は倉橋良介、木俣は「鬼塚大吉」名義で製作・企画・脚本にクレジットされた。『日本映画監督全集』には日東テレビ映画もプロダクション鷹も1964年設立と記されており、『浅草で春だった』には1965年8月と書かれているが、1965年8月24日は同作の公開日であり、同2社の設立年月日として『映画年鑑 1967』以降に書かれたのはそれぞれ上記の日付である。同2社は、木俣が居を構えた右京区嵯峨甲塚町1番地に所在した。重役陣には社長の木俣のほか、総務部長として妻・和子、企画部長として倉橋良介、監査役に兄の小田切治郎が名を連ねた。 木俣は「楽しい映画」をモットーに、企画・脚本重視の映画製作を行った。1966年(昭和41年)3月29日に公開された扇町京子主演作『肉体の河』を初監督、満51歳で映画監督としてデビューする。『日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで黎明期のおもな脚本家・監督として、若松孝二、高木丈夫(本木荘二郎の変名)、南部泰三、小林悟、新藤孝衛、糸文弘、小川欽也、小森白、山本晋也、湯浅浪男、宮口圭、藤田潤一、小倉泰美、浅野辰雄、渡辺護、片岡均(水野洽の変名)、福田晴一、深田金之助の名を挙げているが、木俣については言及されていない。西原儀一は、既存の映画監督のなかでこの時期に成人映画を手がけた監督として、小川欽也、福田晴一、田中徳三、萩原遼、深田金之助とともに、プロダクション鷹に参加した倉橋良介の名を挙げたが、木俣については触れていない(仮に1965年以前デビューで線を引いたとすれば整合する)。大蔵映画の女優である扇町を起用した『肉体の河』以降、大蔵との配給提携が始まったが、1968年(昭和43年)には、大蔵映画の社長・大蔵貢から大蔵系配給中止宣告を受け、自主配給に踏み切る。1969年(昭和44年)前後に本拠地を京都から東京の渋谷区千駄ヶ谷に移した。移転とともに、倉橋良介に代り、長男・堯美がプロダクション鷹の常務取締役に就任した。以降、芦川絵里、水城リカ、谷身知子、珠瑠美らを専属女優として抱え、同じく独立系の若松孝二の若松プロダクションと提携し、芦川・水城ら女優を貸出したほか、若松の監督する『処女ゲバゲバ(フランス語版)』、『やわ肌無宿 男殺し女殺し』、あるいは『裸の銃弾』といった作品に、木俣自ら俳優として出演している。同年1月に公開した監督作『人肉の市』は、1971年(昭和46年)8月18日に Les Esclaves du plaisir の題でフランスで公開されている。 1974年(昭和49年)、タシケント映画祭等のため、ソビエト連邦(現在のロシア連邦)、東欧圏を旅する。ウズベキスタン共和国のタシケントで行われた同映画祭では『小林多喜二』(監督今井正、同年2月20日公開)が上映中止される事件、『四畳半襖の裏張り(英語版)』(監督神代辰巳)の上映用プリントが行方不明になる事件が起き、木俣はこの経緯を同年の『シナリオ』8月号(発行シナリオ作家協会)に発表した。当時の『キネマ旬報』第645号の指摘によれば、木俣のほかの参加者は清水晶、山田和夫、瓜生忠夫であるが、『シナリオ』誌上での木俣・清水の論争のほか、当事者の瓜生は沈黙したという。 1971年11月、老舗であり大手五社の一社であった日活が成人映画路線に全面的に舵を切り、「日活ロマンポルノ」(1971年 - 1988年)を開始するが、木俣とその一派は、当初、基本的にこれに参加しなかった。1972年(昭和47年)5月10日に公開されたプリマ企画製作による『私のよわいとこ?』(監督秋山駿)に、専属女優の谷身知子が主演したのが最初で、木俣自身が初めて参加したのは、1975年(昭和52年)5月17日に公開された『新・団地妻 ブルーフィルムの女』(監督林功)に主演女優として珠瑠美を貸出し、木俣が脚本を提供している。以降、ロマンポルノの日活とジョイパック系のミリオンフィルムに作品を提供し続けた。その後、1977年(昭和52年)5月21日、妻の和子が満41歳没で急逝する。翌1978年(昭和58年)、木俣はクモ膜下出血に倒れ、療養中に「ストレス性胃潰瘍」を併発し胃全摘の手術を行う。1981年(昭和56年)、専属女優の珠瑠美と結婚する。1983年(昭和58年)には、若松孝二によるプロデュースを受け、谷崎潤一郎の『鍵』を映画化、同年12月24日に東映セントラルフィルムの配給で公開された。1984年(昭和59年)には中国を訪問した。1985年(昭和60年)3月26日には、晩声社から木俣が自らの半生を記した『浅草で春だった』を上梓、翌1986年(昭和61年)2月にはその続篇『続 浅草で春だった』を上梓した。 1986年10月に公開された『中川みず穂 ハードポルノ絶頂』が最後の監督作であった。同作以降も企画・製作・脚本・出演、およびかつて軽演劇時代の芸名であった「衣恭介」の名での美術デザインを手がけ、記録に残る最後の作品は、1997年(平成9年)11月5日に公開された『ねっとり妻おねだり妻III 不倫妻またがる』(監督珠瑠美、配給新東宝映画)における「衣恭介」の名での美術である。1987年(昭和62年)、岩間鶴夫、佐藤一郎、およびすでに故人である小津安二郎、中田竜雄とともに第11回シナリオ功労賞を受賞する。1995年(平成7年)には、長男の和泉聖治と共同代表となってムービーブラザースを港区六本木に設立、プロダクション鷹の代表取締役社長の座は珠に譲った。 2004年(平成16年)11月7日、東京都目黒区の病院で肺炎のため死去した。満89歳没。同9日、同区下目黒の羅漢会館で行われた葬儀・告別式の喪主は、長男の和泉聖治が務めた。
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