プロダクション鷹の設立と監督デビューとは? わかりやすく解説

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プロダクション鷹の設立と監督デビュー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 15:36 UTC 版)

木俣堯喬」の記事における「プロダクション鷹の設立と監督デビュー」の解説

1963年昭和38年)から、関西テレビ生番組演出をしていたが、吉本興業京福電気鉄道とともに開始したテレビ映画戦国群盗伝』の製作に関わるが、企画頓挫する。これを自力継承し1965年昭和40年4月17日日東テレビ映画設立松竹京都撮影所出身倉橋良介起用して荒野』として製作するが、これも頓挫する。東映から地方下番線用の添え物として、「お色気作品」をと声をかけられ同年6月1日プロダクション鷹設立、これを母体劇場用映画日本毒婦伝いしごき』を製作した同作監督としてクレジットされた「風魔三郎」は倉橋良介木俣は「鬼塚大吉名義製作・企画脚本クレジットされた。『日本映画監督全集』には日東テレビ映画プロダクション鷹1964年設立記されており、『浅草で春だった』には1965年8月と書かれているが、1965年8月24日同作公開日であり、同2社の設立年月日として『映画年鑑 1967以降書かれたのはそれぞれ上記日付である。同2社は、木俣が居を構えた右京区嵯峨甲塚町1番地所在した。重役陣には社長木俣のほか、総務部長として妻・和子企画部長として倉橋良介監査役に兄の小田切治郎が名を連ねた木俣は「楽しい映画」をモットーに、企画・脚本重視映画製作行った1966年昭和41年3月29日公開され扇町京子主演作肉体の河』を初監督、満51歳で映画監督としてデビューする。『日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで黎明期のおもな脚本家監督として、若松孝二高木丈夫本木荘二郎変名)、南部泰三小林悟新藤孝衛糸文弘小川欽也小森白山本晋也湯浅浪男宮口圭、藤田潤一小倉泰美浅野辰雄渡辺護片岡均水野洽変名)、福田晴一深田金之助の名を挙げているが、木俣については言及されていない西原儀一は、既存映画監督のなかでこの時期成人映画を手がけた監督として、小川欽也福田晴一田中徳三萩原遼深田金之助とともにプロダクション鷹参加した倉橋良介の名を挙げたが、木俣については触れていない(仮に1965年以前デビューで線を引いたとすれば整合する)。大蔵映画女優である扇町起用した肉体の河』以降大蔵との配給提携始まったが、1968年昭和43年)には、大蔵映画社長大蔵貢から大蔵配給中止宣告を受け、自主配給踏み切る1969年昭和44年前後本拠地京都から東京渋谷区千駄ヶ谷移した移転とともに倉橋良介代り長男・堯美がプロダクション鷹常務取締役就任した以降芦川絵里水城リカ谷身知子珠瑠美らを専属女優として抱え同じく独立系若松孝二若松プロダクション提携し芦川水城女優貸出したほか、若松監督する処女ゲバゲバ(フランス語版)』、『やわ肌無宿 男殺し女殺し』、あるいは『裸の銃弾』といった作品に、木俣自ら俳優として出演している。同年1月公開した監督作人肉の市』は、1971年昭和46年8月18日Les Esclaves du plaisir の題でフランスで公開されている。 1974年昭和49年)、タシケント映画祭等のため、ソビエト連邦現在のロシア連邦)、東欧圏を旅するウズベキスタン共和国タシケント行われた映画祭では『小林多喜二』(監督今井正同年2月20日公開)が上映中止される事件、『四畳半の裏張り英語版)』(監督神代辰巳の上映用プリントが行不明になる事件起き木俣はこの経緯同年の『シナリオ8月号(発行シナリオ作家協会)に発表した当時の『キネマ旬報』第645号の指摘によれば木俣のほかの参加者清水晶山田和夫瓜生忠夫であるが、『シナリオ誌上での木俣清水論争のほか、当事者瓜生沈黙したという。 1971年11月老舗であり大手五社一社であった日活成人映画路線全面的に舵を切り、「日活ロマンポルノ」(1971年 - 1988年)を開始するが、木俣とその一派は、当初基本的にこれに参加しなかった。1972年昭和47年5月10日公開されプリマ企画製作による『私のよわいとこ?』(監督秋山駿)に、専属女優谷身知子主演したのが最初で、木俣自身初め参加したのは、1975年昭和52年5月17日公開された『新・団地妻 ブルーフィルムの女』(監督林功)に主演女優として珠瑠美貸出し木俣脚本提供している。以降ロマンポルノ日活とジョイパック系のミリオンフィルム作品提供し続けたその後1977年昭和52年5月21日、妻の和子が満41歳没で急逝する。翌1978年昭和58年)、木俣クモ膜下出血倒れ療養中に「ストレス性胃潰瘍」を併発し全摘の手術を行う。1981年昭和56年)、専属女優珠瑠美結婚する1983年昭和58年)には、若松孝二によるプロデュースを受け、谷崎潤一郎の『鍵』を映画化同年12月24日東映セントラルフィルム配給公開された。1984年昭和59年)には中国訪問した1985年昭和60年3月26日には、晩声社から木俣が自らの半生記した浅草で春だった』を上梓、翌1986年昭和61年2月にはその続篇『続 浅草で春だった』を上梓した。 1986年10月公開された『中川みず穂 ハードポルノ絶頂』が最後監督作であった同作以降企画・製作脚本出演、およびかつて軽演劇時代芸名であった衣恭介」の名での美術デザインを手がけ、記録に残る最後作品は、1997年平成9年11月5日公開された『ねっとりおねだりIII 不倫妻またがる』(監督珠瑠美配給新東宝映画)における「衣恭介」の名での美術である。1987年昭和62年)、岩間鶴夫佐藤一郎、およびすでに故人である小津安二郎中田竜雄とともに第11回シナリオ功労賞受賞する1995年平成7年)には、長男和泉聖治共同代表となってムービーブラザースを港区六本木設立プロダクション鷹代表取締役社長の座は珠に譲った2004年平成16年11月7日東京都目黒区病院肺炎のため死去した。満89歳没。同9日、同区下目黒羅漢会館行われた葬儀・告別式喪主は、長男和泉聖治務めた

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