ドライビングスタイル・技術
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 14:29 UTC 版)
「アイルトン・セナ」の記事における「ドライビングスタイル・技術」の解説
予選 予選での速さで知られ、1988年と1989年には、2年連続して16戦中13回のPPを記録し、これはそれまでの9回の記録を大幅に更新する、当時の年間最多獲得記録であった。また、1988年第14戦スペインGPから1989年第5戦アメリカGPにかけて、8戦連続でPPを獲得しており、これを破ったドライバーは未だいない。またPP65回は、2006年にシューマッハが破るまで最多記録だった(2021年10月現在はルイス・ハミルトンのPP101回が最多記録)。獲得率は40.1%で歴代4位の記録である。これはレースの年間開催数が増え、個人の参戦数が増え始めた1970年代以降のドライバーの中では群を抜いており、PP最多記録保持者のルイス・ハミルトンで35.7%、セナのPP最多記録を更新したシューマッハで25.3%に留まっている。 予選でのセナは、最後の最後に最速ラップを出すケースが多かった。最後の最後にポールを奪うことから、メカニックなどピットクルーからは、セナが「ポケットの中のコンマ1秒を出した」とジョーク交じりに言われていた。 決勝レースではPPから首位を保持し、レース序盤で2位以下に大差をつけ、その差を維持するというスタイルで勝利を掴むことが多かった。このようなスタイルは、PPからスタートするドライバーの戦略として有効で、序盤で敵の戦意を削ぐことを意図しており、レース後半の展開を楽にできる(セナ以前に最多PPを保持していたジム・クラークもこのスタイルであった)。セナの現役時代の大半は再給油が禁止されており、ファステストラップはマシンが軽くなるレース終盤に記録されることが多かった。この時代背景と、先述の戦略スタイルから、ファステストラップ獲得数19回(2019年シーズン終了時・歴代15位タイ)は、勝利数41回(歴代5位)、PP数65回(歴代3位)と比較すると少ない。 セナ足 セナのテクニックでよく知られるものに、コーナーでアクセルを小刻みに煽るドライビングがある。日本では『セナ足』と言われるそのテクニックは、進入時の安定性を向上させるとともに、コーナー脱出時の早いエンジンの吹け上がりをもたらしていた。小刻みで独特な回転数コントロールは、元々ターボのタービンの回転を高く保ち、いわゆるターボラグの発生を抑えるためとされる。しかし、セナ足はカート時代に編み出されたテクニックであり、それ以降の下位フォーミュラ、F1でのターボ、NA関係なく見られた。それらのことから、上記の説には異論もある。セナは、「セナ足」をターボに限らず、コーナーの立ち上がりで可能な限り早く加速するための技術として完成させた。 セナ以前にもケケ・ロズベルグが「ケケ足」として類似したテクニックを使っていたが、ロズベルグのそれは、まさにアクセルを「小刻みに煽る」のであり、セナのそれは一秒の間に6回ともいうアクセルコントロールによる開閉の繰り返しであり、煽るというより痙攣に近い頻度のものであることが、テレメトリーデータから分かる。それらから、ロズベルグなどの「ケケ足」とは全く異なるテクニックであるとされる。ホンダのエンジニアがエンジンの動弁系にドライブ・バイ・ワイヤを採用する際、信号のノイズを除去するためのフィルターを設けていた。しかし、セナ足によるアクセルワークがノイズとして識別されるほど微細で敏速であったため、セナのアクセルワーク自体が無視されてしまうという「セナだけに発生するトラブル」が起こり、ホンダはこの問題を解決するのに苦労した。 セナ足については、その理論的・実践的根拠を求めて日本国内のF3000級(当時)のプロドライバーたちが検証したことがあり、その結論は「分からない」となった。中谷明彦は「常人の理解を超えた領域でのテクニックだろう」と述べ、限界点の抽出、荷重のコントロール、人間トラクションコントロールなど、一般に思いつく単純な理屈だけでは説明が付かないとも言われる。チームメイトだったプロスト、ベルガーもセナ足を試みたが、いずれも再現できないとの結論に達している。 このテクニックにより多少燃費は悪くなるものの、その後のストレートのスピードで大きく差がつく。1988年には、同僚のプロストにテレメトリーのデータでは常に100 - 300回転ほどの差を付けており、プロストが「ホンダはセナにいいエンジンを与えている」と疑っていた。後藤治によると、ホンダの調査ではプロストはシフトアップをセナより早いタイミングで行うため、高回転域を使い切れていないことが原因としている。1989年第12戦イタリアGPのモンツァ・サーキットでは予選時に高速レズモ・コーナーにおいて、ホンダV10エンジンをプロストより1000回転高い領域で使用していたという。 後にRacing Onでセナ没後10年企画が行われた際、「車はアンダー気味にセッティングをしておいて、セナ足で細かくパワーオーバーを出すことで打ち消し、ニュートラルに近い挙動を生み出していたのではないか」と解説されていた。 日本のサックス奏者本田雅人がセナを追悼するために1994年に制作(発表は1998年)した楽曲「Condolence」にはセナ足を連想させるフレーズが存在している。 雨 「レインマスター」「雨のセナ」と呼ばれるなど、雨のレースを非常に得意としていた。しかし当初から得意だったわけではなく、「カートを始めたばかりの頃、ウェットレースで他のドライバーたちからあらゆる箇所で簡単に抜かれ、その悔しさからの鍛錬による」と本人が語っている。セナは、上記の出来事の後、サーキットに練習に行ってはコース上に水をまいて水浸しにし、ウェットで速く走れる術を研究したという。 得意とすることとは裏腹に、本人はあまり雨のレースが好きではないと発言している。これは同じくウェットレースが得意なことから「雨のナカジマ」と呼ばれた中嶋悟も同様である。 サーキット別 雨と同時に、ストリート(市街地)コースを得意とすることでも知られ、F1での全41勝中18勝をストリートコースで挙げた。走行した6ストリートコースのうち、デビュー年のみの開催だったダラスは未勝利に終わったが、他の5コースではいずれも2勝以上を記録した。モンテカルロでは5連勝を含む6勝(1987, 1989 - 1993年)、スパ(2/3が公道)では4連勝を含む5勝(1985, 1988 - 1991年)、デトロイトでは3連勝(1986 - 1988年)をマークしている。特に1991年シーズンは、ストリートコースで開催された4GP(フェニックス、モンテカルロ、スパ、アデレード)をすべて制した。 パーマネントコースにおいても、埃が多く滑りやすいなど、ドライバーの技術を問われる悪条件を得意とした。ハンガロリンクでは、3勝(1988, 1990, 1991年)・2位4回を記録している。F1唯一の予選落ちかつ最期の地という負の面のあるイモラも、3勝(1988, 1989, 1991年)・8PPとキャリアを通しては得意コースとなり、特にPPの獲得回数は自身最多となる。 逆に鬼門とされていたのはモンツァ、エストリル、地元ブラジルGPの舞台となったジャカレパグア、インテルラゴスなどである。モンツァでは最終的に2勝を挙げたものの、1987年から1989年まで3年連続目前で勝利を逃し、1990年の初勝利までに6年を要した。初のポールポジションを獲得したエストリルでは1勝しか挙げられなかった。ジャカレパグアは6年間で未勝利となり、表彰台すら1986年の2位1度のみだった。インテルラゴスも5年間で2勝を挙げたものの、1990年の中嶋悟との接触、1994年のシューマッハ追走中の単独スピンなどが発生している。 また、ライバル・プロストの母国であるフランスGPにおいては、10年間でついに1勝も挙げることは出来なかった(最高位は1988年の2位1回)。プロストは地元GPにおいても、セナの母国ブラジルGPにおいても高い勝率を記録しており、この面では対照的な結果が残ることとなった。 危険な走行 その速さや技術の高さは評価されている一方で、危険な走行に対する批判もある。3度の世界チャンピオンで自他共に認める良識派だったジャッキー・スチュワートはその点を憂慮し、セナへのインタビューで直接苦言を呈したことがある。これに対しセナは「(ジャッキーに対し)あなたのような経験豊かなチャンピオンドライバーの発言内容として驚きだ」「僕たちF1ドライバーは2位や3位になるためにレースをしているのではない」「優勝をするために全力でレースを闘っている」「レーシングドライバーならば、僅かな隙を突くべきだ」「私には私の思ったことしかできない」と反論した。同じく3度の世界チャンピオンであるジャック・ブラバムは、1990年日本GPの1コーナーでプロストと接触した件について、自分たちの時代には集団の先頭であのような事故は起きなかったと述べ、マシンの安全性向上によってドライバーのモラルが低下したと嘆いた。後述するトップ・ギアのセナ特集でマーティン・ブランドルは「セナは道を譲るか、リタイヤするかの二択を迫ってくる」と語っている。
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