サッカーの確立とは? わかりやすく解説

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サッカーの確立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 22:11 UTC 版)

サッカー」の記事における「サッカーの確立」の解説

フットボールカルチョのような遊び近世末までヨーロッパ各地行われていた。イングランド行われていたものについては、決められルールなどなく、色々なやり方プレーされており、そのため極めて乱暴で、殺人を除くあらゆる手段使われ時に死者を出すことすらあったため、1314年ロンドン市長エドワード2世の名で禁止令を出して以降1847年までの533年間で、わかっているだけで42回にわたって禁止令が出されている。16世紀宗教改革が行われると、禁欲的な生活から少し開放的になり、国王庇護のもとに試合が行われるようになった。 ところが18世紀中頃から19世紀にかけて勃興した産業革命によって、大量工場労働者生み出すために農村共同体崩壊させられる次第廃れていった。 農村代わりにフットボールレクリエーションとして受け入れ近代的なスポーツ」として成立させたのがイングランドにおけるパブリックスクールである。パブリックスクールでも当初農村での遊びに近い形態行われていた。18世紀後半パブリックスクール上流階級の子弟のための教育機関となると生徒自分達よりも下の階級属す校長教師指導に従わなくなった。この時期18世紀後半から19世紀初め)にかけてのパブリックスクールには「乱暴な雰囲気があり、フットボールそのような雰囲気のなかで行なわれ」、「フットボール上級生下級生権力ふるうための一つの手段になっていた」。産業革命により新たに台頭した企業家たちがパブリックスクール運営にもかかわるようになると、上級生下級生支配するではなく教師権威確立され学校規律守られるようになったこうしたパブリックスクール自体改革によって、フットボールもまたルールに基づき人格形成に役立つような「スポーツ」を目指すようになった。 この時点でのフットボール学校毎にルール異なり他校との試合の際はその都度ルール調整のための話し合い持たれていた。しかし、これでは手間もかかる上、ルール対す理解齟齬を来たすため、しばしばルール統一目指し協議が行われた。そのため共通ルール1846年ケンブリッジ大学立案された(ケンブリッジルール)。これが現在のサッカーのルールの基になったケンブリッジルール特徴としてラグビー校式のルールがほぼ取り入れられなかったことが挙げられる上流階級出身者が多いイートン校ハーロー校卒業生が、中流階級の子弟が比較的多いラグビー校卒業生格下みなしていた階級差別もこの一因であったことが指摘されている。 こうして1850年代までにはイートン校中心とする「手を使うことを制限するルール」と、ラグビー校中心とする「手を使うことを許可するルール」との二大勢力に収束していったが、両者の間には依然として大きな隔たりがあった。1863年には、一部クラブボールを手で持って運ぶこと(キャリング)、ボール運んでいる相手の脛を蹴ること(ハッキング)を認めラグビー校スタイルルール採用しその他のクラブどちらも禁止していた。1863年10月26日イギリスロンドンにある居酒屋フリーメイソンズ・タバーンにて、ロンドン1211とする資料もある)のクラブが「統一ルール作成と、試合における同ルール運用携わる協会の設立」を目指し会議開いた参加したクラブは、バーンズブラックヒース(後に脱退)、ブラックヒース・スクール、クルセイダーズクリスタル・パレスフォレスト、ケンジントン・スクール、ノー・ネイムズ、パーシバル・ハウス、サーピトンなどである。この日がフットボール協会FA)の公式な設立とされる。この日の会合ではハッキング派と反対派との間の激し隔たりがあった。同年11月17日会合ではハッキング派が優位に立ち、この問題議論したFA主事エベネーザー・コッブ・モーリーによって起草されたFA規則初稿はこの好み反映し今日ではサッカーよりもラグビーに近いと見なされるであろう多く要素含んでいる。 11月24日会合では、「ハッキング派」が再び辛うじて過半数占めたしかしながら、この会合で、モーリーはその年の10月出版されキャリングハッキング禁止したケンブリッジ大学フットボール規則出席者注意を向けさせた。ケンブリッジルール議論とこの問題に関してケンブリッジ意思疎通をはかることを勧める提案によって、規則最終的な調停」は12月1日会合先延ばしとなったラグビーフットボール支持する多く代表者はこの追加会合出席せず、結果としてキャリングハッキング禁止された。最も顕著なハッキングであったブラックヒースのフランシス・キャンベルは、「ハッキング賛成する規則採用されるのを防ぐために11月24日会合不適切運営したとしてFA会長アーサー・ペンバー(英語版)、モーリー、そして彼らの仲間糾弾したペンバーそういった「非紳士的な行為訴え」を否認したブラックヒースと他の「ハッキング支持派クラブはこの論争結果としてFA脱退した同年12月FA規則最終版正式に採用出版された、14から成る統一ルール誕生したサッカー競技規則#1863年の規則)。これを現代サッカー始まり見なすことができる。FAフットボール協会フットボールAssociation Football)と呼ばれるようになった。その省略形 soc に「人」を意味する -er をつけたものsoccer語源であり、1880年代頃から使われているといわれている。1863年の規則現在の規則との大きな違い以下の通りである。 クロスバーがなく、ゴールはどの高さでも決めることができること今日オーストラリアンフットボールと同じ) ほとんどのハンドリング禁止だったが、ボールキャッチ認められていた(持ったまま走ったり、投げたりはできなかった)。フェアキャッチに対してフリーキック与えられた(今日オーストラリアンフットボールラグビーユニオンアメリカンフットボール残っている)。 厳格なオフサイドルールボールより前にいる味方選手オフサイドとなった今日ラグビーユニオンオフサイド似ている)。唯一の例外ボールゴールライン後方から蹴られた時。 ボールタッチの外に出た後に最初にボール触った選手スローイン与えられた。ボールタッチラインから直角に投げ入れなければならなかった(今日ラグビーユニオンラインアウトと同じ)。 コーナーキックはなかった。ボールゴールライン後ろ出た時は、ラグビー幾分似た状況となった攻撃側最初にボール触った時は攻撃側ボール触った地点から15ヤード後方からゴールへのフリーキック得てラグビーコンバージョン幾分似ている)、守備側最初にボール触った時は、ゴールライン後方からのキックアウトとなった現在のゴールキック相当する)。 ゴールが決まる毎にエンド交換したゴールキーパー審判反則対する罰、試合時間ハーフタイム選手の数ピッチマーキング(プレーエリアの境界線印す旗のみ)については規定設けられていなかった。 このFAルールでの初の試合(つまり世界初の「サッカー」の試合)は、1863年12月19日イングランド行われたリッチモンドバーンズ戦で、0-0引き分けだった。 1850年代英語圏パブリックスクール大学との繋りを持たない多くクラブ設立され様々なルールフットボールプレーしていた。その内1つ北部クラブであるシェフィールドFC1858年シェフィールド・ルール策定し、このルール北部地域ではサッカーよりも人気博していた。シェフィールド・ルールではコーナーキックスローインクロスバー考案され、またフェアキャッチ廃止したことによりヘディング技術発展したサッカーはこれらの要素取り込みつつ、最終的に1877年にはFAルールシェフィールド・ルール統一された。ゴールキーパーポジション1871年導入された。 なお、FAから去ったハッキング派(ラグビー派)は、1871年ラグビーフットボール連合設立した

※この「サッカーの確立」の解説は、「サッカー」の解説の一部です。
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