サッカーの奨励と野球害毒論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 06:53 UTC 版)
「永井道明」の記事における「サッカーの奨励と野球害毒論」の解説
道明は茨城中在学時に蹴球に熱中するあまり、平行棒の下をくぐり損ねて頭部を強打、6針縫う怪我を負ったほどのサッカー好きであり、姫路中の校長時代には体操の授業で道明自ら生徒にルールを説明し、試合をさせた。しかし生徒の間でサッカーは流行せず、生徒は器械体操に関心を示したので、以来道明は姫路中でサッカーの奨励をぴたりとやめてしまったという。その後、1917年(大正6年)創設の東京蹴球団の初代団長に就任し、1921年(大正10年)設立の大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会)では理事(競技担当)を務めている。 野球に関しては、畝傍中校長時代に生徒と楽しんでいたが、姫路中校長に就任した翌年に禁止した。当時、姫路中の生徒であった和辻哲郎は、運動場が狭く野球ができなかったことも理由の1つであったかもしれないとしつつ、主な理由は「永井校長が野球を好まなかった」からと述べている。禁止した野球の代わりとして道明はサッカーを奨励したのであった。また1911年(明治44年)に東京朝日新聞が連載した「野球と其害毒」の第7回(9月4日)に道明が登場し、野球害毒論を論じている。この中で道明は「野球はおもしろいので学生がふけりやすく、時間を空費し、身体を疲労衰弱させるので、野球選手は学科ができない」と切り出し、野球が勝利至上主義に陥って、相手選手にヤジ・暴言を吐いたり妨害したりするなどの言動が見られ、一部の選手のみが活躍し他は見物に回り最終的には入場料を取るなど商売と化しており、心身の鍛錬という本来の運動の目的からすれば堕落していると批判した。日本の野球はアメリカ西部と似た堕落した野球であり、アメリカ東部やイギリスで行われているクリケットや蹴球は堂々として礼儀正しく、負けても失望せず、勝っても泣いたり笑ったりしないと語った。特に入場料を取ることを問題視し、これは日本の法律上「興行」に当たり、教育上問題で、野球を利益手段とする学校は論外であり、その犠牲となる学生が哀れだと述べた。同年9月16日には読売新聞社主催の「野球問題演説会」が開かれ、押川春浪らが野球害毒論に反対の立場から演説したほか、道明も野球の趨勢を論じた。この演説会は野球擁護を目的としていたが、道明は演説後、「拍手の裡に降壇」したという。野球害毒論について論述した小野瀬剛志は、道明の野球論を「野球否定の論理」の中で扱いつつ、「全体的論調から言えば擁護論、中立論に分類されるであろう」と記しており、道明の運動競技観について研究した植村真也は、「弊害を問題視しながらも、国民体育の手段として野球およびスポーツを認めるようにな」ったと述べた。 道明が取りまとめた『学校体操教授要目』の中では、「フットボール」(サッカー)は「競争を主とする遊戯」の例として挙げられ体操科の授業で採用すべきとした一方、「ベースボール」(野球)については「体操科教授時間外において行うべき諸運動」の末尾から2番目に取り上げている。
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