コレクションの形成とは? わかりやすく解説

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コレクションの形成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 10:16 UTC 版)

大原美術館」の記事における「コレクションの形成」の解説

大原は、自分と1歳違い洋画家児島虎次郎ことのほか目をかけ、パトロンとして生涯援助していた。児島1908年から足掛け5年間、大原援助ヨーロッパへ留学していた。彼はその後もさらに1919年5月1921年1月1922年5月1923年3月の2回に亙って大原援助渡欧している。その主たる目的画業研鑚であったが、児島は、ヨーロッパへ行く機会のない、多く日本の画家たちのために、西洋名画実物日本もたらすことの必要性大原説いた大原児島考え賛同し何を購入するかについては児島一任した。こうして児島ヨーロッパで多く西洋絵画購入したのである。。 大原児島コレクション最初作品となったのは、児島同世代フランス画家エドモン=フランソワ・アマン=ジャン1860年 - 1936年)の『髪』という作品であった。これは児島1度目滞欧中の1912年アマンジャン本人から購入した。翌1913年東京上野の竹之台陳列館で開催され光風会展覧会に出品された。当時日本国内では西洋絵画実物接す機会はほとんどなく、この作品の公開反響呼んだ美術館所蔵品中核をなす作品多くは、1920年から1923年の間に児島虎次郎によって、フランス首都パリにおいて主に収集されたモネ睡蓮』は晩年モネ本人から児島直接購入したものであり、マティス画家の娘―マティス嬢の肖像』もマティス本人気に入って長らく手元置いていた作品無理に譲ってもらったものだという。大原美術館代名詞のようになっているエル・グレコ受胎告知』は、1922年3回目渡欧中だった児島が、パリ画廊売り出ているものを偶然見出した児島は「こんな機会二度とない」と思ったが、非常に高価手持ちの金もなかったため、この時ばかりは大原写真送り購入相談した。現在ではこの名画日本にあることは奇蹟だといわれている。その他、トゥールーズ=ロートレックマルトX夫人肖像ボルドー』、ゴーギャン『かぐわしき大地』などの名品児島収集品である。これらの西洋美術の他に、エジプト美術ペルシャ陶器中国美術なども児島収集した。これらの収集品は、美術館開館以前にも何度公開され評判得ていた。 1929年児島他界し、これを大い悲しんだ大原は、児島功績記念する意味をもって、その翌年大原美術館開館した大原美術館には、児島虎次郎以外のルートか入手した作品もある。ルノワール『泉による女』は、大原孫三郎援助していた画家一人である満谷国四郎入手した作品で、ピカソ鳥籠』、ドランイタリアの女』、スーティン』などは画商福島繁太郎1895年1960年)のコレクション入っていたもの第二次世界大戦後大原美術館入手したまた、大原孫三郎の後を嗣いだ大原總一郎1909年1968年)も文化人として知られフォーヴィスム以降現代絵画近代日本洋画など、新たな収集品付け加えた。 なお、第二次世界大戦末期一式陸上攻撃機などを製造していた三菱重工業水島航空機製作所(現:三菱自動車工業水島製作所)が何度も爆撃され水島空襲)、隣県広島市への原子爆弾投下もあったが、倉敷市中心部は全く爆撃されなかった。これは米軍関係者に、大原美術館コレクション知っていた者がいたからといわれることもあるが、ウォーナーリストなどにも載っておらず史料的な裏づけはない。実際には、軍事目標たる戦闘機製造工場から破壊するのは当然であり、倉敷市街への爆撃向けて目標情報票も作成されていた。さらに、現在では米軍日本の文化財に配慮して爆撃控えたとする説自体疑問視されている。

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コレクションの形成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 14:30 UTC 版)

辰馬考古資料館」の記事における「コレクションの形成」の解説

三代辰馬悦蔵京都帝国大学学び家業酒造かたわら考古学研究考古資料収集努めたなかでも銅鐸コレクション質・量ともに日本有数のものである三代は、大阪湾沿岸周辺数多く出土する銅鐸現地とどまらず散逸し一部海外流出していることを知り研究資料保全のためには自ら収集するかないと考えた。 当館所蔵考古資料なかには、他の個人コレクションを悦入手したものもある。茨城県福田貝塚出土注口土器同県椎塚貝塚出土注口土器千葉県余山(よやま)貝塚出土土偶などは、高島多米治という人物20世紀初頭に採集したものであった高島1866年現在の福井県生まれ東京人類学会会員であったが、1922年コレクション手放した。そのコレクションは、滋賀県長浜市にあった財団法人下郷共済会の所蔵となったが、太平洋戦争後、同会からさらに移動した。その一部1951年辰馬悦蔵所有となり、残り一部昭和30年代1950年代後半60年代前半)に大阪市所有となった(現・大阪歴史博物館保管)。なお、当館所蔵長門国鋳銭遺物下郷共済会の旧蔵である。 当館所蔵縄文時代の遺物には、工藤祐龍(工藤彦一郎)という人物のコレクション含まれている。工藤はもと弘前藩士で、維新後青森県田舎館村村長小学校長を務めた。当館所蔵の旧工藤コレクションのうち、青森県亀ヶ岡遺跡出土注口土器重要文化財指定されている。 当館には考古資料以外に、富岡鉄斎絵画コレクションがある。これは三代祖父・悦叟(1835年 - 1920年)が鉄斎知己であったことからもたらされたものである

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