コレクションの形成
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大原は、自分と1歳違いの洋画家・児島虎次郎にことのほか目をかけ、パトロンとして生涯援助していた。児島は1908年から足掛け5年間、大原の援助でヨーロッパへ留学していた。彼はその後もさらに1919年5月–1921年1月と1922年5月–1923年3月の2回に亙って、大原の援助で渡欧している。その主たる目的は画業の研鑚であったが、児島は、ヨーロッパへ行く機会のない、多くの日本の画家たちのために、西洋名画の実物を日本へもたらすことの必要性を大原に説いた。大原は児島の考えに賛同し、何を購入するかについては児島に一任した。こうして児島はヨーロッパで多くの西洋絵画を購入したのである。。 大原(児島)コレクションの最初の作品となったのは、児島と同世代のフランスの画家エドモン=フランソワ・アマン=ジャン(1860年 - 1936年)の『髪』という作品であった。これは児島が1度目の滞欧中の1912年、アマン=ジャン本人から購入した。翌1913年に東京上野の竹之台陳列館で開催された光風会展覧会に出品された。当時、日本国内では西洋絵画の実物に接する機会はほとんどなく、この作品の公開は反響を呼んだ。美術館所蔵品の中核をなす作品の多くは、1920年から1923年の間に児島虎次郎によって、フランスの首都パリにおいて主に収集された。モネ『睡蓮』は晩年のモネ本人から児島が直接購入したものであり、マティス『画家の娘―マティス嬢の肖像』もマティス本人が気に入って長らく手元に置いていた作品を無理に譲ってもらったものだという。大原美術館の代名詞のようになっているエル・グレコ『受胎告知』は、1922年、3回目の渡欧中だった児島が、パリの画廊で売りに出ているものを偶然見出した。児島は「こんな機会は二度とない」と思ったが、非常に高価で手持ちの金もなかったため、この時ばかりは大原に写真を送り購入を相談した。現在ではこの名画が日本にあることは奇蹟だといわれている。その他、トゥールーズ=ロートレック『マルトX夫人の肖像―ボルドー』、ゴーギャン『かぐわしき大地』などの名品は児島の収集品である。これらの西洋美術の他に、エジプト美術、ペルシャ陶器、中国美術なども児島は収集した。これらの収集品は、美術館開館以前にも何度か公開され、評判を得ていた。 1929年、児島が他界し、これを大いに悲しんだ大原は、児島の功績を記念する意味をもって、その翌年に大原美術館を開館した。大原美術館には、児島虎次郎以外のルートから入手した作品もある。ルノワール『泉による女』は、大原孫三郎が援助していた画家の一人である満谷国四郎が入手した作品で、ピカソ『鳥籠』、ドラン『イタリアの女』、スーティン『鴨』などは画商・福島繁太郎(1895年–1960年)のコレクションに入っていたものを第二次世界大戦後、大原美術館が入手した。また、大原孫三郎の後を嗣いだ大原總一郎(1909年–1968年)も文化人として知られ、フォーヴィスム以降の現代絵画、近代日本洋画など、新たな収集品を付け加えた。 なお、第二次世界大戦の末期、一式陸上攻撃機などを製造していた三菱重工業水島航空機製作所(現:三菱自動車工業水島製作所)が何度も爆撃され(水島空襲)、隣県の広島市への原子爆弾投下もあったが、倉敷市中心部は全く爆撃されなかった。これは米軍関係者に、大原美術館のコレクションを知っていた者がいたからといわれることもあるが、ウォーナーリストなどにも載っておらず史料的な裏づけはない。実際には、軍事目標たる戦闘機の製造工場から破壊するのは当然であり、倉敷市街への爆撃に向けて目標情報票も作成されていた。さらに、現在では米軍が日本の文化財に配慮して爆撃を控えたとする説自体が疑問視されている。
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コレクションの形成
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「辰馬考古資料館」の記事における「コレクションの形成」の解説
三代辰馬悦蔵は京都帝国大学に学び、家業の酒造のかたわら、考古学の研究と考古資料の収集に努めた。なかでも銅鐸のコレクションは質・量ともに日本有数のものである。三代悦蔵は、大阪湾沿岸周辺で数多く出土する銅鐸が現地にとどまらずに散逸し、一部は海外に流出していることを知り、研究資料の保全のためには自ら収集するほかないと考えた。 当館所蔵の考古資料のなかには、他の個人コレクションを悦蔵が入手したものもある。茨城県福田貝塚出土の注口土器、同県椎塚貝塚出土の注口土器、千葉県余山(よやま)貝塚出土の土偶などは、高島多米治という人物が20世紀初頭に採集したものであった。高島は1866年に現在の福井県で生まれ、東京人類学会会員であったが、1922年にコレクションを手放した。そのコレクションは、滋賀県長浜市にあった財団法人下郷共済会の所蔵となったが、太平洋戦争後、同会からさらに移動した。その一部は1951年に辰馬悦蔵の所有となり、残りの一部は昭和30年代(1950年代後半〜60年代前半)に大阪市所有となった(現・大阪歴史博物館保管)。なお、当館所蔵の長門国鋳銭遺物も下郷共済会の旧蔵である。 当館所蔵の縄文時代の遺物には、工藤祐龍(工藤彦一郎)という人物のコレクションが含まれている。工藤はもと弘前藩士で、維新後は青森県田舎館村の村長や小学校長を務めた。当館所蔵の旧工藤コレクションのうち、青森県亀ヶ岡遺跡出土の注口土器は重要文化財に指定されている。 当館には考古資料以外に、富岡鉄斎の絵画のコレクションがある。これは三代悦蔵の祖父・悦叟(1835年 - 1920年)が鉄斎の知己であったことからもたらされたものである。
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