オランダとの交渉
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一方、シャフリルは連合軍との交渉を行っていた。1946年10月7日、シャフリルと前オランダ首相(当時)のウィム・スヘルメルホルン(英語版)は停戦に向けた調整を行うことで合意した。会合はイギリスの外交官マイルズ・ランプソンによる調停で進んでおり、スディルマンも同席した。彼はジャカルタへの特別列車に乗り、10月20日に出発した。しかし、オランダ軍の部隊がスディルマンと側近が武器を装備してジャカルタへ入ることを拒否すると、スディルマンはそのような命令は破廉恥であると感じ、ジョグジャカルタへ引き返すよう命じた。オランダ軍は目的を誤解していたとして謝罪した。スディルマンは10月下旬に別の列車に乗り、11月1日にジャカルタのガンビル駅に到着、彼は大群衆から歓迎を受けた。ジャカルタでの会合により11月15日、リンガジャティ協定の起草が行われた。インドネシアの民族主義者による強い反対があったものの、協定は1947年3月25日に批准された。スディルマンはこの協定はインドネシアの利益にとって有害なものであることに気づいて反対していたが、自身に対する命令に義務的に従うべきだと考えていた。 1947年初頭、リンガジャティ協定が比較的平穏のうちに発効されると、スディルマンは様々な「ラスカル」でTKRを統合する作業を始めた。委員会の一部として、スディルマンは軍の再構築を開始した。1947年5月に大筋で統合合意に達し、1947年6月3日にインドネシア国民軍(Tentara Nasional Indonesia、略称:TNI)が設立された。TNIはTKR軍と様々な「ラスカル」部隊から成り立っており、スディルマンは政党による工作拡大に気づいた後始めてlaskarを軍の構成に含めた。しかし、停戦は合意が長くは続かないことも含意していた。1947年7月21日、オランダ軍(イギリス軍の撤退中にイギリスの残した占領地を手中に収めていた)は商品作戦を発動し、すぐにジャワ島とスマトラ島の大部分を支配下に置いた。ジョグジャカルタの国民政府は手付かずの状態だった。スディルマンは「イブー・ペルティウィが呼んでいる!イブー・ペルティウィが呼んでいる!」という暗号を使用して軍に戦うよう命令し、後にオランダ軍と戦う兵士を鼓舞するためRRIを通していくつかのスピーチを通達したがこの試みは失敗に終わった。インドネシア人兵士は準備ができておらず足並みはすぐに乱れた。 旧東インドの状況を侮っていた国際連合の圧力により、1947年8月29日オランダ軍は自軍の支配領域とインドネシア軍の支配領域を分割するファン・モーク境界線(英語版)を設定、この境界線に沿って停戦が呼びかけられた。スディルマンはインドネシアのゲリラ部隊にオランダの支配領域で隠れることを言い含めた上で、インドネシアの支配領域に生還するよう命じた。兵士たちの士気を高揚させるため、スディルマンは撤退について、ムハンマドのマディーナへの聖遷を連想させる「ヒジュラ」という言葉で言及し、彼らが生還することを暗示した。35,000以上の部隊がこの命令で西ジャワを離れ、列車や船でジョグジャカルタへと向かった。この境界は1948年1月17日にレンヴィル協定で形成されたものであった。これはアミル・シャリフディンにより首相として署名がされていた。一方、シャリフディンは軍の合理化を始め、部隊数の削減を行った。当時通常の軍は350,000人の兵士から成り立っており、さらに47,000人を超える兵士が「ラスカル」に所属していた。 この計画の中では、大統領令により1948年1月2日に始まった軍の総司令官を解任された。スディルマンは中将に降格となり、一方で空軍総司令官にはスルジャディ・スルジャダルマを総司令官とする意図があった。そのすぐ後、シャリフディンはレンヴィル協定への関与に対し内閣不信任決議が行われたことで失脚し、新たな首相には合理化計画を推進していたモハマッド・ハッタが就任した。これにより、合理化推進派と反対派のグループによる数ヶ月間に渡る討論が行われることとなった。スディルマンは計画に反対する数多くの古参の司令官を含む兵士の結集や運用を任されることとなった。スディルマンは1946年6月1日に正式に総司令官に再度着任し、合理化の命令をうまく無効にしていった。スディルマンは彼の副官としてアブドゥル・ハリス・ナスティオン大佐を選んだが、中将のままであった。 合理化計画が次第に縮小する中で、シャリフディンは東ジャワのマディウンでプロレタリア革命を起こすためインドネシア社会党やインドネシア共産党、全インドネシア労働組織組合の会員から兵士の結集を始め、革命行動が1948年9月18日に実行に移された。当時病気により自宅にいたスディルマンは革命に対する対処を行うため、ナスティオンを送り込んだ。また、スディルマンは攻撃前に平和調停役として二人の将校を送った。革命指導者のムソは和平交渉に従順であったが、ナスティオンと彼の部下は9月30日までに反乱を鎮圧した。スディルマンは反乱後まもなくマディウンを訪問し、後に彼の妻に対し、あらゆる流血に対し何もせずただ寝ている事はできなかったと語っている。 この反乱と継続する不安定な政治状況はスディルマンの原動力を蝕んだ。1948年10月5日、軍の3周年集会の後、スディルマンは倒れた。複数の医者による診察の後、彼は結核にかかっていると診断された。その月の終わり、彼はパンティ・ラピー病院へと移送され、結核の進行を止める望みを託して右肺の充填術(英語版)を行うこととなった。入院期間中、スディルマンは彼の任務のほとんどをナスティオンに任せていた。しかし、二人はオランダ軍に対する戦闘計画の討議を続けており、スディルマンは引き続き状況報告を受けていた。彼らは5月以降オランダ軍支配下領域へ襲撃をかけていたゲリラ戦が彼らの要請に見合う最良の戦法であることで合意した。この目標に向けて、スディルマンは11月11日、準備のほぼすべてを担当していたナスティオンとともに司令を発した。スディルマンは1948年11月28日に病院から解放された。 退院後も議題検討を続けた後、スディルマンは12月17日になって初めて職務に復帰した。オランダ軍とインドネシア軍の緊張が高まることを考慮し、スディルマンはTNIの兵士に警戒レベルを高めたまま待機するよう命令した。また、オランダ軍に対しTNIの攻撃能力を過大評価させる試みに失敗した場合に備え、大規模軍事訓練を命じた。彼らはもはやレンヴィル協定に縛られないという夜間告知を行った2日後の12月19日、オランダ軍はカラス作戦(英語版)を発動し、ジョグジャカルタにある首都奪還計画を敢行した。現地時間午前7時10分(UTC+7)、マグウォ飛行場はEekhout大将の命令の下空挺部隊により陥落した。スディルマンは敵の攻撃に気づき、RRIを通じ、インドネシア軍兵士は訓練通りゲリラとして戦うよう命じた 戦術指令No. 1/PB/D/48 # 我々は攻撃を受けた。1948年12月19日、オランダ軍はジョグジャカルタ市内とマグウォ飛行場を攻撃した。 オランダ政府は停戦を拒否した。 すべての兵士は通達通りオランダ軍の攻撃に対処せよ。 Sudirman's radio address, from Imran (1980, p. 55) 。 その後彼はジョグジャカルタ中心部にある大統領官邸に向かったが、そこでは政府指導者が植民地支配を受け入れないならばジョグジャカルタは混乱に陥るであろうと記述されたオランダの最後通告に関する議論をしていた。スディルマンは大統領と副大統領はジョグジャカルタを離れ彼らが以前約束していた通りゲリラとして戦うよう上申したが、この提案は却下された。侍医は止めたが、スディルマンはスカルノから彼の配下に加わる許可を受けた。中央政府はスルタン・ハメンクブウォノ9世の促しもあってスルタンの宮殿へと避難したが、彼らは拘束され収監された。
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