アメリカ合衆国の奴隷制度廃止の動き
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「奴隷制度廃止運動」の記事における「アメリカ合衆国の奴隷制度廃止の動き」の解説
詳細は「南北戦争の原因」を参照 歴史家のジェイムズ・M・マクファーソンは、その著書「平等への戦い」の中で、奴隷制度廃止運動家を「南北戦争の前に、即時の、無条件に、そしてアメリカ合衆国全国の奴隷制度廃止を訴えた者」と定義している。 奴隷制度に反対した幾つかのグループ(「非合法に拘束された自由黒人の救済のための協会」など)があったが、合衆国の設立時点で奴隷制度を完全に禁じた州はほとんど無かった。憲法は奴隷制度を調整する条項があったが、どれも奴隷制度という言葉を使っていなかった。 アメリカの奴隷制度廃止運動はかなり早く始まり、アメリカ合衆国が国家として成立以前のことであった。著名なボストン市民でセイラム魔女裁判の判事の一人でもあったサミュエル・シューワルは、植民地の年季奉公に対抗するものとして完全な奴隷制度が広がることに抗議して、1700年に「ジョセフの売却」を書いた。これは後の合衆国となる地域で最も初期に記録された反奴隷制度論文の印刷物である。 奴隷制度廃止運動家には、運動が分散した1830年代や1840年代にアメリカ反奴隷制度協会やその付属団体に加わった者達がいた。分散した奴隷制度廃止運動には次のような団体があった。自由党、アメリカおよび海外反奴隷制度協会、アメリカン・ミッショナリー協会および教会反奴隷制度協会である。マクファーソンは南北戦争の前の運動家を3つの型に分けた。 急進派の即時廃止論から保守派の慎重な反奴隷制度論までのイデオロギー的な多様性において、どこで「奴隷制度廃止」(無条件の解放を要求し、大抵は市民の解放奴隷に対する平等を予測する)が終わり、どこで「反奴隷制度」あるいは「自由な土壌」(奴隷の束縛をのみ願い、平等の問題には二面的である)が始まるかを区別するのは難しい。ニューイングランドでは特に、多くの自由土地党員が心では奴隷制度廃止運動家である。大西洋岸中部の州や古北西部ではさらに、政治的な奴隷制度廃止運動家は広いが浅い自由土地の流れの中に運動家としての自己認識を潜ませてしまう傾向にある。 メリーランドから北の諸州では、1781年から1804年までに奴隷制度を段階的に廃止し始めた。ロードアイランド州は1774年に(バージニア州も独立戦争前にその試みを行ったが、イギリスの枢密院がその法律を否認した)、他の州は1786年までに、ジョージアだけは1798年にというふうに、全ての州が奴隷貿易を廃止するか厳しく制限していた。北部諸州の解放法は、法が成立する前に生まれた奴隷はある年齢に達した時点で解放されるとしたので、いつまでも奴隷でいる者が残っていた。ニュージャージー州では、かなりの数の「永久年季奉公」が1860年の国勢調査に記録された。奴隷制度を完全に廃止した最初の州は1780年のペンシルベニア州であった。 しかし、南部では奴隷制度がそのまま残り、北部の強い反奴隷制度の立場が高まるに連れて、地域の慣習や社会信条により奴隷制度の執拗な守りに入っていった。反奴隷制度感情は1830年以前に北部の多くの人々に存在し、1840年以後に奴隷制度廃止運動をうるさく求める人に加わっていった。北部の大多数は奴隷制度廃止運動家の極端な立場は拒絶した。たとえばエイブラハム・リンカーンである。実際にリンカーンやスティーブン・ダグラス(1860年の大統領選挙で民主党北部の候補者)、ジョン・C・フレモント(1856年の大統領選挙で共和党の候補者)およびユリシーズ・グラントは、道徳的な呵責もなく、南部の奴隷所有者の娘と結婚した。 奴隷制度廃止運動は、原則として奴隷制度の程度を制限したいというもの以上のことだった。北部人の大半は南部に奴隷制度があることを認識し、憲法が連邦政府にそこへ立ち入ることを許していないことも認識していた。また段階的な解放とその補償という政策に賛成していた。1849年以降、奴隷制度廃止運動家はこれを拒否し、即座にあらゆる場所で終わらせることを要求した。ジョン・ブラウンは実際に暴力的な反抗を計画した唯一の運動家だとされているが、デイビッド・ウォーカーがその考えを推進した。活動家の運動は解放されたアフリカ系アメリカ人の活動によって強化された。特に黒人教会は、古い聖書の奴隷制度に対する正当化は新約聖書と矛盾しているとした。アフリカ系アメリカ人の活動家とその書いたものは、黒人社会の外では耳を貸してはもらえなかったが、同情的な白人には大きな影響を与え、最も有名となった白人活動家であるガリソンは最も効果的な情報宣伝家でもあった。ガリソンは雄弁な広報担当者を探すように努め、その結果見出した元奴隷のフレデリック・ダグラスは結果的に自分自身の権利において卓越した活動家になった。ダグラスは自分で多くの出版部数を誇った奴隷制度廃止運動家の新聞「ノース・スター」を出版した。 1850年代早くに、アメリカの活動家の運動はアメリカ合衆国憲法の問題について2つの派に分かれた。この問題は1840年代遅くに、ライサンダー・スプーナーによる「奴隷制度の違憲性」の出版の後に提起された。ガリソンやウェンデル・フィリップスに指導されるいわゆるガリソニアンは、公衆の面前で憲法が奴隷制度を規定するものとしてその写しを焼き、その廃止と新しい憲法の制定を要求した。もう一派はライサンダー・スプーナー、ゲリット・スミスそれに最後はフレデリック・ダグラスに指導されて憲法は反奴隷制度の文書だと考えた。自然法に基礎を置く議論と社会契約論の形式を用いてこの派は、憲法の合法的権力の範囲の外に奴隷制度があり、それゆえに廃止されるべきものとした。 奴隷制度廃止運動はもう一つ、今度は社会階級で分裂した。ロバート・デイル・オーウェンとフランシス・ライトの職人共和主義は、実業家のアーサー・タッパンや福音伝道者の兄弟ルイス・タッパンのようなエリート活動家の政策とは際立った対照にあった。オーウェンとライトは「賃金生活者」と「家財奴隷」との連帯を基本に奴隷制度に反対していたのに対し、ホィッグ党のタッパン兄弟はこの見解を強く拒否し、いかなる意味においても北部の労働者を「奴隷」と性格付けすることに反対した。 多くのアメリカ人活動家は地下鉄道を支持することで奴隷制度に反対する行動的な役割を選んだ。これは合衆国議会により1850年の逃亡奴隷法によって違法とされた。それにもかかわらず、ハリエット・タブマン、ヘンリー・ハイランド・ガーネット、アレクサンダー・クラメル、エイモス・ノエ・フリーマンなどの参加者がその仕事を続けた。奴隷制度を打ち壊す戦いで2つの重要な出来事は、オバーリン・ウェリントン救助とジョン・ブラウンのハーパーズ・フェリー襲撃であった。 1863年1月1日の奴隷解放宣言後に、活動家は奴隷状態に残ったままの奴隷の自由と黒人の生活状態の改善を追求した。1865年のアメリカ合衆国憲法修正第十三条の成立が公式に奴隷制度を終わらせた。実際には1995年ミシシッピ州憲法での承認をもって、制度は完全に終わった。
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