「特別な目的の家」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 09:47 UTC 版)
「ロマノフ家の処刑」の記事における「「特別な目的の家」」の解説
帝室はイパチェフ館に厳しく隔離されたままであった。ロシア語以外の言語を話すことを厳しく禁じられた。内庭の離れ家に置いた手荷物を取りに行くことを禁じられた。ブローニーと撮影器具は、没収された。召し使いはロマノフ家を名前と父称でのみ呼ぶよう命じられた。一家は「ウラル地方ソビエト財務官による保管」を理由に金を没収され、所有物の日常的な点検とアレクサンドラや娘の腕から金のブレスレットを奪われるようなことを余儀なくされた。館は館から通りを見辛くする4メートル(14フィート)の高さの二重の柵で囲まれていた。出来合いの塀は、ヴォズネセンスキー通りに沿って庭を封鎖していた。6月5日に館を完全に封鎖する最初のものより高く長い二番目の柵が構築された。二場目の柵が建設された理由の一つは、ニコライが庭の二重のブランコを使う際に外から柵の上にその脚が見えてしまうことが分かった点であった。 一家のいる全ての部屋の窓は密閉され、新聞紙で覆われた(後に5月15日にホワイトウォッシュで塗られた)。家族の唯一の換気口は、皇孫の寝室のフォルトチカ(英語版)であったが、外を見ることは厳しく禁じられ、5月にアナスタシアが覗き見た際には歩哨がアナスタシアに向けて発砲した。繰り返し要請すると、ツァーリ夫妻の角の寝室の窓二つの内の一つが1918年6月23日に覆いの密閉が解かれた。しかしその結果、衛兵は見張りを強化するよう命じられ囚人は銃撃される恐怖と共に窓から顔を出したり外の誰かに合図を送ろうとしないように警告された。この窓から館から通りを隔てたところにあるヴォズネセンスキー大聖堂の尖塔(英語版)が見えた。鉄製の格子がアレクサンドルが解放した窓に近寄り過ぎないようにとのユロフスキーの度重なる警告を無視すると6月11日に組み込まれた。 衛兵司令官や上級の補佐官は、一家のいる部屋全てにいつでも完全に入れた。囚人は風呂や踊り場の洗面所を使おうと部屋を出たい時はいつもベルを鳴らすよう要求された。しかし衛兵が日常的に水が枯渇していると不平を言うと厳格な水の配給が囚人に適用された。レクリエーションは毎日、午前と午後にそれぞれ30分間だけ許された。しかし囚人は衛兵の誰とも口をきいてはならないという厳格な指示を受けていた。配給はほとんどの場合朝食は紅茶と黒パン、昼食はカツレツか肉の入ったスープであり、囚人は「もはやツァーリのように暮らすことはできない」と言い渡された。 6月中旬、ノヴォティフヴィンスキー修道会の修道女もほとんどは捕えている人々に掠め取られたが毎日一家の食事を届けた。一家は訪問を受けることや手紙のやり取りを許されなかった。アレクセイの治療にあたるウラジーミル・デレヴェンコ(英語版)博士の日常的な訪問がユロフスキーが司令官になると制限される一方で、エレナ・ペトロヴナが6月に館を訪れたが、衛兵に銃口を突き付けられて入館を拒否された。近くの教会のミサに出かけることは許されなかった。6月上旬、一家はもはや日刊紙を受け取ることができなくなった。 正常な感覚を維持するためにボリシェヴィキは1918年7月13日にロマノフ一家に対し仕える召し使いの内の2人(クレメンティイ・ナゴルーヌイ(ロシア語版)(アレクセイの従兵)とイヴァン・セドネフ(ロシア語版)(OTMAの召し使いでレオニード・セドネフの叔父))が「この政権から(例えばエカテリンブルクやペルミの司法管轄区から)送られた」と保証した。しかし2人はボリシェヴィキが5月にイパチェフ館から排除した後に既に死亡しており、白衛軍に殺された地元のボリシェヴィキの英雄(ロシア語版)が死んだことへの報復として7月6日に他の捕虜の一団と共にチェーカーに射殺された。7月14日、司祭と助祭がロマノフ家のために典礼を執り行った。翌朝4人の女中がポポフ館とイパチェフ館の床を洗うために雇われ、生きた一家の姿を見た最後の市民となった。どちらの場合も一家とは如何なる形でも口をきいてはならないという厳格な指示がなされていた。ユロフスキーは典礼の間や女中が一家と共に寝室を清掃する間、常に監視を続けた。 屋内の衛兵16人は、勤務中は地下か廊下、司令官の事務所で寝た。パーヴェル・メドヴェージェフ率いる屋外の衛兵は56人いて、反対のポポフ館に宿をあてがわれた。衛兵はポポフ館やイパチェフ館の地下室に性行為や飲み会(英語版)に女を連れ込むことを許された。機関銃の台座が4か所あった。一つは館に向ける目的でヴォズネセンスキー大聖堂の鐘楼にあり、二つ目は通りに面したイパチェフ館の地下の窓にあり、三つ目は館の裏庭を見渡せるバルコニーを狙い、四つ目はツァーリ夫妻の寝室の上に直接交差点を見渡せる屋根裏部屋にあった。イパチェフ館内と周辺に衛兵が10人配置され、屋外は日夜一時間に2回巡回が行われた。5月上旬、衛兵は囚人からダイニングルームのピアノを取り上げ、ロマノフ家の寝室の隣室にある司令官の事務所に移した。ここで飲んだり煙草をふかしたりしながらロシアの革命歌を歌って夕方に恥をかかせて楽しんだ。没収した蓄音機でロマノフ家のレコードも聴いた。踊り場の洗面所も壁の政治的なスローガンや猥褻な絵画を落書きした衛兵に使われた。一家が殺された時点で衛兵の数は全部で300人となった。 ユロフスキーが7月4日に司令官をアレクサンドル・アヴデーエフと交代すると、屋内担当だった衛兵をポポフ館に異動させた。上級の補佐官は維持されたが、玄関を監視するように指示され、ユロフスキー付にのみ認められた栄誉であったロマノフの部屋に出入りすることはもはやできなくなった。配置転換はユロフスキーの依頼によりヴェルフイセツク工場の志願兵大隊から地元のチェーカーにより選ばれて行われた。聞かれたことは全て答えられる献身的なボリシェヴィキが求められた。衛兵は秘密を守ることを誓わされて必要ならツァーリを殺す準備が行われることを理解した上で雇われた。この段階では一家や召し使いを殺すことについて何も言われなかった。アヴデーエフの下で行われた親交(英語版)の反復を防ぐためにユロフスキーは主に外国人を選んだ。ニコライは7月8日の日記にレッツ(この用語はロシア語起源でなく欧州の誰かを定義するためにロシアで用いられた)と表現しながら「新しいラトビア人が立哨している」と記した。新しい衛兵の指揮官は、リトアニア人のアドルフ・レパに率いられていた。 ボリシェヴィキが当初ロマノフ家を裁判にかけたかったことから、エカテリンブルクで赤軍によりロマノフ家は勾留されていた。内戦が続き白軍(反共軍の緩やかな連合軍)がエカテリンブルクを陥落させる恐れがあったため、ロマノフ家が白軍の手に落ちる恐れがあった。このことは二つの理由からボリシェヴィキには受け入れ難いことであった。第一にツァーリや家族の誰かが白軍の運動への支援に結集する象徴となりかねず、第二にツァーリが死ねばその家族の誰かが他の欧州諸国によりロシアの正統な支配者とみなされることであった。このことは白軍のために外国からの大規模な干渉に向けた交渉ができることを意味しかねなかった。 1918年7月半ば、チェコ軍団が既に支配していたシベリア鉄道を守るため、エカテリンブルクに迫っていた。歴史家のデヴィッド・バロックによると、混乱に陥り囚人を処刑したボリシェヴィキは、チェコ軍団は一家を救出する使命を帯びていると誤解した。チェコ軍団は1週間も経たずに到着し、7月25日にエカテリンブルクを陥落させた。 帝室一家が6月後半に勾留されている間に、ピョートル・ヴォイコフ(英語版)とウラル地区ソビエト代表アレクサンドル・ベロボロドフ(英語版)は、チェーカーの命令で平静を保ちながら一家の救出を求める君主主義者の官吏であると主張するフランス語で書いた手紙の密輸をイパチェフ館に命令した。ロマノフの返答と共に(空白や封筒に書かれた)この偽造された手紙は、モスクワの中央執行委員会(英語版)(CEC)に帝室を「粛清する」更なる正当化の口実を与えた。後にユロフスキーは偽の手紙に応えることでニコライは「自身を罠に陥れる我々の早まった計画に貶められた」と述べた。 7月13日、イパチェフ館から通りを挟んでエカテリンブルク・ソビエトの退去と同市の支配の移転を要求する赤軍兵や社会革命党(エスエル党)、アナーキスト(英語版)の示威行動がヴォズネセンスキー広場で行われた。この反乱はツァーリ夫妻の寝室の窓で聞こえる所全ての参加者に向けて銃火を開いたピョートル・エルマコフ率いる赤衛軍(英語版)を派遣することで激しく抑圧された。当局はこの事件をイパチェフ館の囚人の安全に脅威を与える君主主義者の率いる反乱と位置付けた。
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