隋・唐(589-907)
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「貴族 (中国)」の記事における「隋・唐(589-907)」の解説
北周から禅譲を受けた隋であったが、その制度は斉制を継ぎ、貴族制もまた受け継いだ。 595年(開皇15年)に中正が廃止され、開皇年間(581年-600年)中には科挙制度が確立された。これと平行して任子制もまた行われており、この頃では貴族は任子によって官界に入り、科挙に応じることはまずなかった。 隋から初唐においては旧斉に属する清河崔氏などの山東貴族が最高であり、その次が関隴集団らの鮮卑系貴族、その次が琅邪王氏など南朝において長い伝統を誇る北来貴族、その下に置かれるのが呉郡陸氏など江南を本貫とする南人貴族であった。 唐皇帝李氏は関隴系であるが、それでもなお山東系の家格が上であるという意識は強く残っていた。太宗は貞観6年(632年)に家格を書物にまとめることを命じ、これによりできたのが『貞観氏族志』である。初め、山東貴族である博陵崔氏の崔民幹が一等とされ、唐李氏は三等に格付けされた。これに怒った太宗は作り直しを命じ、李氏を一等に、長孫氏らの唐の外戚を二等に、山東貴族らを三等に付けた。 このように、初唐では山東系を強く抑圧した形で関隴系が主導権を握っていた。この状態を大きく崩したのが武則天である。武則天自身も関隴系の出身であるが、本流からは遠く、女性の身で権力を握ることへの反発もあり、関隴集団の助力は受け難かった。そこで武則天は自らの手足として科挙官僚を積極的に登用し、関隴系の権力を切り崩しにかかった。これにより関隴系の勢力は減退せざるを得なくなり、それに代わって山東系とこの時代における貨幣経済の伸張に伴って勢力を伸ばしてきた新興地主勢力とが官界を二分するようになり、関隴系の存在は小さなものとなった。 武則天後の玄宗は再び関隴集団を登用する反動政治を行うが、玄宗自身の退嬰とそれによって起きた安史の乱により頓挫した。安史の乱の大動乱の後、地方には藩鎮勢力が割拠するようになる。各地の藩鎮勢力はその幕下に優秀な人材を集めるために辟召を行った。 貴族層は官僚の出処進退を司る尚書吏部を支配下に置いており、科挙官僚を中央から排斥していた。そのような人物がこの藩鎮の辟召を受けることとなる。その代表としては韓愈が挙げられる。憲宗の時期より関隴系の牛僧孺・李宗閔らと山東系の李徳裕らの争いが勃発するが(牛李の党争)、その中で両派は自派の勢力を拡大するために盛んに辟召を行い、その結果として新興勢力の進出はますます促進された。 さらに唐末の戦乱の中で、貴族勢力は壊滅的な打撃を受けた。後に唐を滅ぼして後梁を建てる朱全忠は、905年に配下李振から「かつて貴族たちは自ら清流と自称していた。こいつらを黄河に沈めて、濁流としてしまいましょう」という進言を聞き、その通りに実行した(白馬の禍)。この事件の時点で貴族勢力は完全に壊滅したと考えられる。 北宋以降は、科挙官僚たちが完全に主導権を握り、「士大夫」と呼ばれる新しい支配層を形成した。
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隋・唐
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北周を滅ぼした隋朝を立てた楊堅は、生活環境の悪化や政治的思惑からこれまでの長安を廃止し、その郊外である龍首原に新たな都城を造営した。新たな都城造営を担当したのは、宇文愷(555年 - 602年)である。初め大興城(だいこうじょう)と称された都城が、隋唐代の首都・国際都市としての長安の都である。中央の朱雀門街を挟んで、左街に54坊と東市、右街に54坊と西市、総計110の坊市から構成される条坊都市であった。全体はおよそ南北8651メートル、東西が9721メートルあったとされる。東西の方が長いのが特徴である。後述される日本の平安京とは異なり、長安城内では、各坊の四囲にも高い牆壁が取り囲んでおり、それら門は夜間は閉門され坊外との通行は禁止された。また、龍首原は、北から南に向かって、6段に分かれた台地状の丘陵であった。設計者の宇文愷は、それを周易の六爻になぞらえて都市計画がなされたと考えられている。天子の位に相当する九二に宮城を置き、九三の君子の位には皇城を配置した。さらに、周易においては九二よりも上の最上位とされる九五の丘には、庶人を住まわせると災いの元と考え、国寺である大興善寺と道観の玄都観とを置いて、国家の安泰をはかったという。 最盛期で人口100万人とも言われる大都市に発展した長安であったが、同時に食糧問題という致命的な問題を内包していた。関中地域のみで長安の膨大な人口を支えるだけの食糧生産は不可能であり、江南から大運河を通じて大量輸送を行うか、朝廷そのものを食糧搬入が容易な場所に一時的に避難させる(洛陽に副都を置いた理由の一つである)ことによって対応していたが、安史の乱以後は政治的不安定から大運河の管理が次第と困難となり、大運河が通航不可能となるとたちまちのうちに長安での食糧価格の高騰に発展、貧困層の中には餓死するものも相次ぐようになる。唐の滅亡直前に王朝簒奪を狙う朱全忠によって都が洛陽に移された後、長安が再び都になることは無かった。
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隋・唐
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戦乱の中から中国を統一した隋は、貨幣の統一を試みた。隋は新たに漢よりも重い五銖銭を発行した。新しい五銖銭を普及させるために、楊堅は関所で通行者の貨幣を確認し、古い五銖銭は新しいものと回収して銅原料とした。しかし、隋が滅ぶと再び戦乱が起きて粗悪な銭貨が流通し、隋末の混乱を収めた唐によって統一される。銭貨の銘は半両銭にせよ五銖銭にせよ重さが刻まれていたが、開元通宝には「開元通宝」とのみ刻まれた。これ以降、銭貨には重さを書かなくなり、貨幣単位は銭に代わって文の普及が進んだ。秦代から隋代までに発行された、半両銭や五銖銭その他の銭貨を総称して古文銭と呼ぶ。 隋と唐では、以下のような貨幣が使われた。 金貨・銀貨:高額の贈与用である秤量貨幣で、贈与や貿易に使われた。隋や唐は、漢が始めた西域経営をさらに活発にした。 布:布帛。銅貨の不足により、唐は高額の取り引きで一定の布帛や穀物を兼用する銭帛兼行を定めた。 銅貨:隋は五銖銭を発行した。唐は、当時流通していた銭貨が粗悪であることから、新しい貨幣を発行した。それが開元通宝であり、唐代を通して発行された。開元通宝の重さは2.4銖(約3.73グラム)であった。 唐は銅鉱の付近に開元通宝の鋳造所を設置したが、鋳造所の6〜7割が華南や華中に位置しており、銅貨の流通にかたよりが生じた。唐の後期になると、市場での流通が増加して商税が始まり、客商と呼ばれる交易商人の活動が増えた。国庫に支払われる貨幣が急増し、国庫に納める貨幣は官銭に限られた。しかし銅貨が不足して、粛宗時期の宰相の第五琦は乾元重宝と重輪銭を発行した。この2種類の貨幣は開元通宝の約2倍の重量だったが、価値は乾元重宝で開元通宝の10倍、重輪銭で50倍として通用させた。こうした高額貨幣は官銭の信用を落とし、インフレーションが発生した。代宗時期には、乾元重宝も重輪銭も開元通宝と同じ価値とされ、開元通宝より重い乾元重宝・重輪銭は使われなくなった。開元通宝は天保期に32万貫を発行したが10万貫に減少して、地方が独自に発行する銅貨が23種類にのぼった。 隋・唐代の金融 唐には両替商として金銀鋪や兌房がいた。これらは金銀細工の製造販売や金銀の鑑定・保管のほかに両替・預金も行うようになった。唐の時代には送金用の手形として飛銭と呼ばれるものが使われており、飛銭は役所で発行されたが早々に信用を失った。同様に民間でも便換と呼ばれる手形が発行され、こちらは後の時代まで広く利用された。 隋・唐代の貿易と貨幣 当時の貿易は外交使節による朝貢と、辺境で商人たちが行う互市に分かれていた。陸路では中央アジアや北アジアとのシルクロード貿易が続き、海路では市舶司が海上貿易を管理し、いずれのルートでも絹が輸出され、南海交易では陶磁器が輸出された。絹との交換で中央アジアや北アジアからは馬を輸入し、東南アジアからは香料や染料を輸入した。8世紀の中央アジアでは、絹が帛練と呼ばれて物品貨幣として流通し、帛練の価格帯は絹の品質に応じて決まった。
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隋唐
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隋が成立すると北周六官と九命制が廃され、三省六部が置かれて九品制に復した。続く唐の官制は流内官と流外官に分かれ、流内官は九品三十階の中にある職官として、流外官は九品の外にある職官とされた。
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隋唐
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「末法思想」、「華厳経」、および「中国の絵画#隋唐の絵画」も参照 6世紀末に成立した隋はおよそ40年ほどで滅亡したものの、中国における仏教美術の発展に残した影響は大きかった。300年ぶりに中国全土を統一した文帝(楊堅)は、各地方に僧院と仏舎利塔を建てた。また、中国そのもの政治的統合によって、地域性を保っていた各地の仏像芸術も隋の首都であった大興城(長安)を中心としながら徐々に融合をすすめていく。この時代から、仏像は銅製のものだけではなく、白檀や青銅を用いたものが作られ始める。また、仏教絵画においては、ホータン王国出身の尉遅跋質那(うっちばっしな)とその子、尉遅乙僧(うっちいっそう、塞:ヴィシャ・イーラサンガ)が隋末唐初にかけて活躍し、西域絵画を中国へと伝える役割を果たした。彼らはまた、鉄線描と呼ばれる、緊張感とエッジの効いた画風の作品を遺した。 隋の時代の伝統をふまえ、唐代の仏像はより生き生きとした表現がされるようになる。この頃の仏教彫刻は、グプタ時代のインド芸術に触発された、どちらかといえば古典風な様式を帯びている。それは、唐という国そのものがもっていた外来文化に対する開放性と、玄奘三蔵・義浄らの活動に代表されるインドとの往来によるものであった。結果、仏教は、その一大中心地となった首都長安 (今日の西安)から朝鮮、そして遣唐使を通じて日本へと拡がっていくことなった。 しかしながら、晩唐の頃になると外来の宗教や文化は否定的に捉えられるようになった。845年、武宗は、在来思想であった道教を支援するためにすべての「外国の」宗教(キリスト教のネストリウス派、ゾロアスター教、マニ教、仏教を含む)を禁止する(「会昌の廃仏」)。この弾圧の結果、仏教教団は寺院や荘園を没収され、国家の擁護から離れて存続せざるを得なくなった。そのため、中国における仏教はしばらく衰退するが、それは宋時代において花開く、禅宗と浄土教のふたつの宗派が民衆へと根ざしていく発端ともなった。 唐は歴代の王朝のなかでも最も仏教が盛んに信仰された時代の一つであり、かつ総じてみれば政治的にも概ね安定していたので、当時の作品も数多く遺されている。 初唐(7世紀)には、北魏時代に盛んであった弥勒信仰に代わって阿弥陀信仰が人気となり、西方極楽浄土を描いた芸術が現れた。唐代、莫高窟では、華やかで清浄な阿弥陀浄土が描かれた。このような状況において、太宗 (唐)の甥、李泰による龍門石窟の復興を皮切りに、北魏の滅亡以降衰微していた華北平原での石窟造営が盛んになる。武宗・武則天の時代には龍門石窟は最盛期を迎え、奉先寺の大仏が建立された。これらの仏像は、雲崗石窟のものに比べるとより繊細で写実的な人物表現がなされている。 盛唐から中唐(8世紀ごろ)にかけて、石窟美術は安史の乱による混乱を経てその中心を華北から四川に移していく。皇沢寺石窟や大足石刻は、玄宗皇帝時代の磨崖仏の白眉であると同時に、国際色と土俗性を兼ね揃えていく過程を窺える遺跡であるといえよう。 如来坐像 駝山石窟第3窟 隋、開皇年間(581年-600年) 山東省青州 如来坐像 龍門石窟賓陽南洞正壁(西壁) 唐、貞観15年(641年) 河南省洛陽市 北魏の滅亡以降、龍門石窟は衰退したが、唐の太宗の時代に再興した。賓陽南洞に作られたブロックを積み重ねたような構造の仏像は、隋や北周北斉のものに範をとったものであった。 盧舎那仏坐像 河南省洛陽市、龍門石窟奉先寺洞 唐、上元年間(675年) 立体感や人体観察に基づいた写実性が見られる。玄奘や王玄策らによるインド文化流入も様式の確立へ影響を及ぼしたと考えられている。 菩薩半跏像 盛唐(8世紀前半) 東京国立博物館蔵 マッスが強調された胸や腹部、腕はある種の官能性を感じさせる。身体を傾け、左脚に寄って座す姿勢ながらも、全体としては落ち着いた印象を与えるこの作品は、唐時代の写実性の到達点と言えるだろう。 楽山大仏 楽山凌雲寺 中唐、貞元19年(803年) 四川省楽山市 像高約59.98m 中唐から晩唐にかけては、中原に遺る石窟造像は少ないが四川には多い。中国最大のこの大仏は、当時としては珍しく国家事業ではなく民衆主導で建造され、90年ほどかかって完成した。 観無量寿経壁画 敦煌莫高窟第217窟 初唐(西暦600年頃) 阿弥陀浄土図は、中国絵画においては珍しいことに左右対称構図と透視画的遠近法が用いられた。仏教美術家の宮治昭は、観想の実践との関わりを指摘している。
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隋唐
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隋と唐は都を長安に置き、洛陽を陪都として「東京」あるいは「東都」と呼んだ。
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隋唐
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隋代、最初の年号の「開皇」は道教の劫から採用されたが、基本的には仏教に重きが置かれた。なお、『隋書』経籍志の「道経」では、以下のように道教を解説している。まず、不滅の神である元始天尊がおり、その下で天地は「劫」という41億万年ごとに生成と消滅を繰り返す。世界が生成された際、元始天尊は秘道を神仙らを介して人間に授ける。道教を学びたい者は入門すると先ず『五千文録』(『老子道徳経』)の勉強から始め、進捗に応じて『三洞籙』(三皇経)、『洞真籙』(霊宝経)、『上清籙』(上清経)が、祭壇を設け星宿を祀る大掛かりな儀式の下で与えられる。 唐代に入ると道教が重視されるようになり、中国の歴史上最も道教文化が栄えた時代となった。李淵は、李氏が天下を得ることを老君(太上老君)が予言したという道士の言葉を利用して唐王朝を創立し、老子を王室の祖先であるとした。このことから、唐代には則天武后の時代を除いて老子と道教が崇拝され、「道先仏後」(道教を仏教より優先する)の政策が採られた。よって唐代には道士は大きな役割を担い、国家の慶賀の儀式、皇帝の祖先の供養、皇帝や皇后の誕生日の祝い、雨乞いや晴天祈願などを行った。また皇帝やその一族の健康や長寿の祈願と、そのための不老長生の方法を教授することも重要な役目であった。皇帝の側も道教を保護・信奉し、宮観の建設や道士の供養などを行った。 唐代には、「重玄」と「無為」を重視し、老子尊重を推し進めた成玄英や、「虚心」の効用を説き道教修行の方法を記した『坐忘論』の著者である司馬承禎、従来の老子学を大成したほか『歴代崇道記』や『道教霊験記』など多数の著作を残した杜光庭など、多数の著名な道士を輩出した。
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隋唐
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589年(開皇9年)、旧会稽郡は呉州に改編、山陰・上虞・始寧・永興4県を統合し会稽県、余姚・鄞・鄮3県を統合し句章県が設置された。605年(大業元年)に呉州は越州と改称、607年(大業3年)には会稽郡と改められ、会稽・句章・諸曁・剡の4県を管轄した。 唐朝が成立すると621年(武徳4年)、会稽郡が廃止となり越州を再設置、会稽・諸曁・山陰の3県を管轄した。624年(武徳7年)、姚州より余姚県が、その翌年には鄞州の廃止にともない鄮県、嵊州の廃止に伴い剡県が越州に編入されると同時に山陰県が廃止となっている。 677年(儀鳳2年)、会稽県及び諸曁県の一部に永興県(742年に蕭山県と改称)が再設置、686年(垂拱2年)には会稽県より山陰県が分割されている。 742年(天宝元年)、越州は会稽郡と改称され、会稽・山陰・諸曁・余姚・剡・蕭山・上虞の7県を管轄した。758年(乾元元年)に再び越州と改編し会稽郡の行政区画は消滅している。 表 話 編 歴 秦朝の行政区分 関中地区内史 隴西郡 上郡 北地郡 雲中郡 九原郡 新秦中郡 河南地区三川郡 潁川郡 碭郡 東郡 薛郡 東晦郡 四川郡 淮陽郡 南陽郡 臨淄郡 済北郡 博陽郡 瑯琊郡 即墨郡 膠西郡 城陽郡 河北地区河東郡 河内郡 太原郡 上党郡 代郡 雁門郡 邯鄲郡 鉅鹿郡 恒山郡 清河郡 河間郡 広陽郡 右北平郡 上谷郡 漁陽郡 遼西郡 遼東郡 淮漢地区漢中郡 蜀郡 巴郡 南郡 九江郡 衡山郡 会稽郡 長沙郡 黔中郡 洞庭郡 蒼梧郡 嶺南地区象郡 南海郡 桂林郡 閩中郡 表 話 編 歴 漢朝の行政区分 前漢 司隷校尉部京兆尹(渭南郡) 左馮翊(河上郡) 右扶風(中地郡) 河南郡 河東郡 河内郡 弘農郡 豫州刺史部潁川郡 汝南郡 梁国(碭郡) 沛郡 兗州刺史部淮陽国(淮陽郡) 陳留郡(済川郡) 定陶国(済陰郡) 東郡 山陽郡(昌邑国) 東平国 泰山郡 城陽国 青州刺史部斉郡 済南郡(博陽郡) 済北国 平原郡 千乗郡 菑川国 高密国(膠西国) 北海郡 膠東国 東萊郡 徐州刺史部東海郡 楚国(彭城郡) 魯国(薛郡) 琅邪郡 広陵国(広陵郡) 臨淮郡 泗水郡(沛郡) 冀州刺史部魏郡 趙国 広平国 鉅鹿郡 清河郡 信都国(広川国) 河間国 真定国 常山郡(恒山郡) 中山国 幽州刺史部広陽郡(燕国) 涿郡 勃海郡 上谷郡 漁陽郡 右北平郡 遼西郡 遼東郡 蒼海郡 楽浪郡 真番郡 臨屯郡 玄菟郡 并州刺史部太原郡 代郡 上党郡 雲中郡 雁門郡 定襄郡 朔方刺史部朔方郡 五原郡 西河郡 上郡 北地郡 涼州刺史部隴西郡 天水郡 安定郡 酒泉郡 張掖郡 敦煌郡 武威郡 金城郡 西海郡 益州刺史部蜀郡 広漢郡 漢中郡 巴郡 武都郡 犍為郡 越嶲郡 汶山郡 沈黎郡 牂牁郡 益州郡 荊州刺史部南郡 南陽郡 江夏郡 長沙国 桂陽郡 武陵郡 零陵郡 揚州刺史部会稽郡 丹陽郡 九江郡 廬江郡 六安国 豫章郡 交阯刺史部南海郡 蒼梧郡 合浦郡 鬱林郡 象郡 交阯郡 九真郡 日南郡 珠厓郡 儋耳郡 後漢 司隷校尉部河南尹 河内郡 河東郡 京兆尹 左馮翊 右扶風 弘農郡 豫州刺史部潁川郡 汝南郡 沛国 梁国 陳国(淮陽郡) 魯国 西平国 譙郡 兗州刺史部山陽郡 陳留郡 泰山郡 済陰郡 東平国 任城国 済北国 青州刺史部平原郡 東萊郡 斉国 済南国 楽安国(千乗郡 / 千乗国) 北海国 楽陵郡 長広郡 徐州刺史部東海郡 広陵郡 琅邪国 彭城国(楚郡 / 楚国) 下邳国(臨淮郡) 利城郡 城陽郡 東莞郡 東安郡 東城郡 冀州刺史部魏郡 鉅鹿郡 勃海郡 常山国 中山国 安平国(信都郡 / 楽成国) 河間国 清河国(甘陵国) 趙国 広川国 広平国 博陵郡 幽州刺史部広陽郡 涿郡 上谷郡 漁陽郡 右北平郡 遼西郡 遼東郡 玄菟郡 楽浪郡 代郡 帯方郡 遼東属国 并州刺史部太原郡 上党郡 西河郡 五原郡 雲中郡 定襄郡 雁門郡 朔方郡 上郡 新興郡 楽平郡 涼州刺史部漢陽郡(天水郡) 隴西郡 武都郡 金城郡 安定郡 北地郡 武威郡 張掖郡 酒泉郡 敦煌郡 張掖属国 張掖居延属国(西海郡) 安定属国 南安郡 新平郡 永陽郡 西平郡 西郡 益州刺史部広漢郡 漢中郡(漢寧郡) 巴郡(巴西郡) 蜀郡 犍為郡 牂牁郡 越嶲郡 益州郡 永昌郡 広漢属国 蜀郡属国 巴東属国 犍為属国 上庸郡 房陵郡 永寧郡(巴郡) 固陵郡(巴東郡) 梓潼郡 汶山郡 江陽郡 荊州刺史部武陵郡 南陽郡 南郡(江陵国) 江夏郡 零陵郡 桂陽郡 長沙郡(長沙国) 章陵郡 南郷郡 襄陽郡 宜都郡 新城郡 漢昌郡 臨江郡 西陵郡 固陵郡 揚州刺史部九江郡 丹陽郡 豫章郡 呉郡 会稽郡 廬江郡(六安国) 新都郡 臨川郡 鄱陽郡 廬陵郡 彭沢郡 交州刺史部交阯郡 南海郡 鬱林郡 蒼梧郡 合浦郡 九真郡 日南郡 高涼郡 カテゴリ 表 話 編 歴 三国の行政区分 魏(咸熙2年、紀元264年) 司州河南尹 弘農郡 河東郡 平陽郡 河内郡 魏郡 広平郡 陽平郡 原武郡 野王郡 滎陽郡 朝歌郡 幽州涿郡 燕国 漁陽郡 右北平郡 上谷郡 代郡 遼西郡 昌黎郡 遼東郡 玄菟郡 楽浪郡 帯方郡 冀州鉅鹿郡 趙国 安平郡 博陵郡 中山国 河間郡 勃海郡 常山郡 平原郡 楽陵国 清河郡 章武郡 并州太原郡 西河郡 上党郡 楽平郡 雁門郡 新興郡 朔方郡 青州北海郡 東萊郡 斉国 済南国 楽安郡 城陽郡 徐州彭城国 下邳郡 広陵郡 東海国 琅邪国 東莞郡 利城郡 平昌郡 兗州陳留国 東郡 済北国 東平国 済陰郡 泰山郡 山陽郡 任城郡 豫州潁川郡 汝南郡 弋陽郡 陳郡 魯国 沛国 譙郡 梁国 襄城郡 汝陰郡 雍州京兆郡 馮翊郡 扶風郡 新平郡 北地郡 安定郡 広魏郡 天水郡 南安郡 隴西郡 武都郡 撫夷護軍 涼州武威郡 金城郡 西平郡 張掖郡 西郡 酒泉郡 敦煌郡 西海郡 荊州南陽郡 南郷郡 襄陽郡 江夏郡 魏興郡 上庸郡 新城郡 房陵郡 義陽郡 鍚郡 襄陽南部都尉 揚州淮南郡 廬江郡 安豊郡 梁州漢中郡 梓潼郡 広漢郡 涪陵郡 巴郡 巴東郡 巴西郡 東広漢郡 陰平郡 益州蜀郡 汶山郡 犍為郡 江陽郡 漢嘉郡 朱提郡 越嶲郡 牂牁郡 建寧郡 永昌郡 雲南郡 興古郡 西域長史府西域 蜀(景耀6年、紀元263年) 益州蜀郡 汶山郡 犍為郡 江陽郡 漢嘉郡 広漢郡 東広漢郡 梓潼郡 巴西郡 巴郡 巴東郡 涪陵郡 漢中郡 宕渠郡 涼州陰平郡 武都郡 庲降都督朱提郡 越嶲郡 牂牁郡 建寧郡 永昌郡 雲南郡 興古郡 南広郡 呉(天紀4年、紀元280年) 揚州廬江郡 蘄春郡 丹陽郡 新都郡 呉郡 毗陵典農校尉 呉興郡 会稽郡 東陽郡 臨海郡 建安郡 豫章郡 鄱陽郡 廬陵郡 廬陵南部都尉 臨川郡 安成郡 彭沢郡 臨川郡 東安郡 故鄣郡 巴丘郡 雲陽郡 荊州南郡 宜都郡 建平郡 江夏郡 武陵郡 天門郡 長沙郡 衡陽郡 湘東郡 零陵郡 始安郡 昭陵郡 桂陽郡 始興郡 臨賀郡 西陵郡 固陵郡 武昌郡 営陽郡 広州南海郡 蒼梧郡 鬱林郡 桂林郡 高涼郡 高興郡 交州合浦郡 合浦北部都尉 珠崖郡 交阯郡 新昌郡 武平郡 九真郡 九徳郡 日南属国 寧浦郡 日南郡 表 話 編 歴 晋朝の行政区分 西晋 司州河南郡 滎陽郡 弘農郡 上洛郡 平陽郡 河東郡 汲郡 河内郡 広平郡 陽平郡 魏郡 頓丘郡 豫州潁川郡 汝南郡 襄城郡 汝陰郡 譙郡 魯郡 弋陽郡 安豊郡 梁国 沛国 兗州済陰郡 泰山郡 陳留国 濮陽国 高平国 任城国 東平国 済北国 青州済南郡 城陽郡 長広郡 斉国 楽安国 東萊国 徐州東海郡 東莞郡 広陵郡 臨淮郡 彭城国 下邳国 琅邪国 冀州勃海郡 博陵郡 常山郡 趙国 鉅鹿国 安平国 平原国 楽陵国 章武国 河間国 高陽国 清河国 中山国 幽州北平郡 上谷郡 広寧郡 代郡 遼西郡 范陽国 燕国 平州昌黎郡 楽浪郡 玄菟郡 帯方郡 遼東国 并州太原国 上党郡 西河国 楽平郡 雁門郡 新興郡 雍州京兆郡 馮翊郡 扶風郡 安定郡 北地郡 始平郡 新平郡 涼州金城郡 西平郡 武威郡 張掖郡 西郡 酒泉郡 敦煌郡 西海郡 秦州隴西郡 南安郡 天水郡 略陽郡 武都郡 陰平郡 梁州漢中郡 梓潼郡 広漢郡 新都郡 涪陵郡 巴郡 巴西郡 巴東郡 益州蜀郡 犍為郡 汶山郡 漢嘉郡 江陽郡 朱提郡 越嶲郡 牂牁郡 寧州雲南郡 興古郡 建寧郡 永昌郡 荊州江夏郡 南郡 襄陽郡 順陽郡 義陽郡 新城郡 魏興郡 上庸郡 建平郡 宜都郡 南平郡 武陵郡 天門郡 南陽国 揚州丹陽郡 宣城郡 淮南郡 廬江郡 毗陵郡 呉郡 呉興郡 会稽郡 東陽郡 新安郡 臨海郡 湘州長沙郡 衡陽郡 湘東郡 零陵郡 邵陵郡 臨賀郡 始安郡 始興郡 江州桂陽郡 武昌郡 安成郡 建安郡 晋安郡 豫章郡 臨川郡 鄱陽郡 廬陵郡 南康郡 広州南海郡 蒼梧郡 鬱林郡 桂林郡 高涼郡 高興郡 寧浦郡 交州合浦郡 交趾郡 新昌郡 武平郡 九真郡 九徳郡 日南郡 東晋 揚州丹陽尹 宣城郡 呉郡 呉興郡 会稽国 東陽郡 新安郡 臨海郡 永嘉郡 義興郡 晋陵郡 淮南郡 琅邪郡 徐州広陵郡 海陵郡 盱眙郡 鍾離郡 山陽郡 秦郡 北徐州彭城郡 沛郡 下邳郡 東海郡 東莞郡 譙郡 梁国 琅邪郡 蘭陵郡 宿預郡 淮陽郡 兗州濮陽郡 泰山郡 高平郡 魯郡 東燕郡 陳留国 東平郡 済陰郡 済陽郡 豫州汝南郡 汝陰郡 新蔡郡 陳郡 南頓郡 潁川郡 弋陽郡 歴陽郡 馬頭郡 晋熙郡 廬江郡 廬江郡 西陽郡 北青州斉郡 済南郡 楽安郡 高密郡 平昌郡 北海郡 東萊郡 長広郡 司州河南郡 滎陽郡 弘農郡 河北郡 北雍州北京兆郡 馮翊郡 扶風郡 咸陽郡 始平郡 安定郡 新平郡 荊州南郡 南平郡 武寧郡 江夏郡 竟陵郡 襄陽郡 南陽郡 順陽郡 義陽郡 随郡 新野郡 建平郡 宜都郡 武陵郡 天門郡 巴東郡 臨賀郡 始興郡 始安郡 長沙郡 衡陽郡 湘東郡 零陵郡 営陽郡 邵陵郡 桂陽郡 新蔡郡 江州尋陽郡 豫章郡 鄱陽郡 廬陵郡 臨川郡 南康郡 建安郡 晋安郡 武昌郡 安成郡 梁州漢中郡 魏興郡 新城郡 上庸郡 梓潼郡 晋寿郡 広漢郡 遂寧郡 汶陽郡 巴郡 宕渠郡 新巴郡 北巴西郡 陰平郡 益州蜀郡 沈黎郡 晋原郡 犍為郡 汶山郡 東江陽郡 越嶲郡 寧蜀郡 寧州建寧郡 牂牁郡 夜郎郡 朱提郡 平蛮郡 南広郡 建都郡 興古郡 晋寧郡 西平郡 梁水郡 雲南郡 興寧郡 河陽郡 西河郡 広州南海郡 東官郡 蒼梧郡 晋康郡 新寧郡 永平郡 鬱林郡 晋興郡 桂林郡 高涼郡 寧浦郡 義安郡 交州交趾郡 合浦郡 新昌郡 武平郡 九真郡 九徳郡 日南郡 表 話 編 歴 隋朝の行政区分 606年(大業2年)以前(州制) 雍州地区雍州 同州 岐州 涇州 寧州 敷州 綏州 延州 慶州 原州 夏州 塩州 霊州 勝州 豊州 秦州 渭州 蘭州 河州 廓州 鄯州 涼州 甘州 瓜州 梁州地区梁州 金州 遷州 巴州 通州 渠州 成州 洮州 宕州 武州 扶州 鳳州 興州 利州 竜州 会州 始州 綿州 梓州 隆州 遂州 涪州 渝州 信州 益州 雅州 眉州 陵州 資州 瀘州 戎州 西寧州 牂州 黔州 豫州地区豫州 鄭州 宋州 亳州 曹州 汝州 許州 蔡州 陳州 潁州 商州 虢州 淅州 鄧州 淯州 顕州 兗州地区兗州 鄆州 済州 魏州 滄州 徳州 冀州地区冀州 貝州 相州 衛州 懐州 沢州 潞州 蒲州 絳州 汾州 晋州 隰州 介州 石州 代州 朔州 雲州 并州 邢州 洺州 趙州 恒州 定州 瀛州 幽州 易州 玄州 平州 檀州 営州 青州地区青州 斉州 萊州 密州 徐州地区徐州 魯州 沂州 海州 泗州 揚州地区揚州 濠州 寿州 光州 蘄州 廬州 熙州 和州 蔣州 宣州 常州 呉州 越州 杭州 歙州 婺州 括州 閩州 睦州 饒州 撫州 吉州 虔州 袁州 洪州 番州 循州 潮州 高州 端州 滝州 封州 桂州 藤州 鬱州 合州 崖州 欽州 交州 愛州 驩州 蕩州 農州 沖州 荊州地区荊州 硤州 郢州 沔州 辰州 朗州 庸州 襄州 昌州 隋州 安州 衡州 申州 津州 澧州 岳州 湘州 郴州 永州 連州 607年(大業3年)以後(郡制) 雍州地区京兆郡 馮翊郡 扶風郡 安定郡 北地郡 上郡 雕陰郡 延安郡 弘化郡 平涼郡 朔方郡 塩川郡 霊武郡 楡林郡 五原郡 天水郡 隴西郡 金城郡 枹罕郡 澆河郡 西平郡 武威郡 張掖郡 敦煌郡 鄯善郡 且末郡 河源郡 伊吾郡 梁州地区漢川郡 西城郡 房陵郡 清化郡 通川郡 宕渠郡 漢陽郡 臨洮郡 宕昌郡 武都郡 同昌郡 河池郡 順政郡 義城郡 平武郡 汶山郡 普安郡 金山郡 新城郡 巴西郡 遂寧郡 涪陵郡 巴郡 巴東郡 蜀郡 臨邛郡 眉山郡 隆山郡 資陽郡 瀘川郡 犍為郡 越嶲郡 牂牁郡 黔安郡 明陽郡 豫州地区河南郡 滎陽郡 梁郡 譙郡 済陰郡 襄城郡 潁川郡 汝南郡 淮陽郡 汝陰郡 上洛郡 弘農郡 淅陽郡 南陽郡 淯陽郡 淮安郡 兗州地区東郡 東平郡 済北郡 武陽郡 渤海郡 平原郡 冀州地区信都郡 清河郡 魏郡 汲郡 河内郡 長平郡 上党郡 河東郡 絳郡 臨汾郡 竜泉郡 文城郡 西河郡 離石郡 雁門郡 馬邑郡 定襄郡 楼煩郡 太原郡 襄国郡 武安郡 趙郡 恒山郡 博陵郡 河間郡 涿郡 上谷郡 漁陽郡 北平郡 安楽郡 柳城郡 遼西郡 襄平郡 青州地区北海郡 斉郡 東萊郡 高密郡 徐州地区彭城郡 魯郡 琅邪郡 東海郡 下邳郡 揚州地区江都郡 鍾離郡 淮南郡 弋陽郡 蘄春郡 廬江郡 同安郡 歴陽郡 丹陽郡 宣城郡 毗陵郡 会稽郡 余杭郡 新安郡 東陽郡 永嘉郡 建安郡 遂安郡 鄱陽郡 臨川郡 廬陵郡 南康郡 宜春郡 豫章郡 南海郡 竜川郡 義安郡 高涼郡 信安郡 永熙郡 蒼梧郡 始安郡 永平郡 鬱林郡 合浦郡 珠崖郡 寧越郡 交趾郡 九真郡 日南郡 比景郡 海陰郡 林邑郡 荊州地区南郡 夷陵郡 竟陵郡 沔陽郡 沅陵郡 武陵郡 清江郡 襄陽郡 舂陵郡 漢東郡 安陸郡 永安郡 義陽郡 九江郡 澧陽郡 巴陵郡 長沙郡 衡山郡 桂陽郡 零陵郡 熙平郡
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隋唐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 17:52 UTC 版)
北周の武帝は北斉を滅ぼして華北を統一するが、念願の南北統一を前にして病死する。その後を継いだ宣帝は奇矯な人物であり、即位後すぐに幼子の静帝に位を譲り、宣帝自身は太上皇として、好き勝手な放逸に耽るようになった。宣帝の皇后の父で十二大将軍である楊堅(後の隋の文帝)が衆望を集めるようになる。 楊堅は幼主の静帝より禅譲を受けて隋を建て、589年に南朝陳を滅ぼして中国を統一する。革命が起きたとはいえ、隋の支配者集団は変わらずに関隴系であり、楊堅の皇后独孤伽羅は八柱国の独孤信の娘(七女)である。これ以外にも関隴集団内では複雑な姻戚関係が結ばれており、互いの間での関係を密にすることでより力を高めていた。 隋は楊玄感の反乱を機に全国で大反乱が起き、その中で八柱国の李弼の曾孫である李密、同じく八柱国の李虎の孫である李淵も反乱に参加する。李淵は八柱国の家系であるというだけではなく、独孤信の娘(四女)を母としており、いわば関隴系の中で最上級の血縁を持っていた。このことにより、関隴貴族集団の強い後援を受けられたことが、李淵が簡単に大興城(長安)を奪取し、最終的に争覇戦で勝利した理由の一つだと見られている。 隋が滅び唐が建国されたが、支配者集団は変わらずに関隴系であり続け、初唐の主要な地位を持った者たちには関隴系の者が多数を占めている。 政権を握った関隴貴族集団は、自らの地位を確固たるものとするために貴族制の再編に取り組む。当時は南北朝時代から引き継いで、家格の上下による人間の上下の思想が強く残っており、当時もっとも家格が高いとされていたのが、山東の崔氏・盧氏・李氏・鄭氏の4姓であった。 高祖李淵の後を継いだ太宗は、貴族の家格を九等に分ける『氏族志』の編纂を命じ、一等に唐の皇族の李氏、二等に独孤氏・竇氏・長孫氏の外戚を就け、関隴系こそが最高の家格であると「公認」させた(実際には旧来からの家格意識は根強く残った)。
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