海上貿易
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 03:20 UTC 版)
前漢の時代には、海賈と呼ばれる商人が日南や黄支国に進出しており、『漢書』に記録がある。絹や金を運んで真珠や宝石、ガラス製品と交換し、移動には港ごとに地元の船を仕立てていたので長期の旅となった。唐の後半には海上貿易が盛んになり、海商と呼ばれる商人も現れた。交易港として栄えた広州、泉州、杭州をはじめとする港市には、海上貿易を管理する市舶司が設置され、イスラーム教徒の商人も訪れる。イスラーム商人は蕃坊に住み、広州に滞在する外国人は住唐と呼ばれた。 コショウ、クローブ、蘇芳といった東南アジアやインド洋の香料や染料が唐に輸入され、朝鮮の新羅はそれを中継貿易で日本へ送った。倭国時代の日本は、卑弥呼や5世紀の倭の五王が中国と冊封を結んでいるが、のちの時代の天皇は結んでいない。ただし遣隋使や遣唐使は、中国では朝貢として記録された。日本は600年に遣隋使を派遣して、838年の最後の遣唐使を送るまで朝貢は続いた。安史の乱ののちは唐の勢力が衰え、新羅では張保皐のように貴族や軍の指導者から私貿易を始めて富を得る者も現れる。唐の商人も私貿易に参加して、唐の商船には新羅や日本の乗員もいた。日本の朝貢品は絁、真綿、銀など国内で納税されたものが中心で、当時は物品貨幣として使えるものが中心で、のちに和紙や砂金が加わる。輸入品には漢籍や仏典などの書物、美術工芸品、薬物と香料がある。ミカンや茶のように食文化や喫茶文化に影響を与えたものもあった。遣唐使が停止したのちも交流は続き、874年の入唐使では外交使節や外国商人ではない役人も香料や薬物を求めて貿易に関わっていた。日本への輸入品は宝物として正倉院に収められて、唐物とも呼ばれて重宝された。
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