蕃坊
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蕃坊(はんぼう、ばんぼう)は唐代より中国で形成された外国商人の居留地である。番村、番坊ともいう。一般に、西域経由のムスリムは胡人(ウイグル人、ソグド人など)と同一視され、南海経由のムスリムは非ムスリム(啓典の民やゾロアスター教徒、ヒンズー教徒)などと共に番人・番民と呼ばれた。コーカソイドやオーストラロイドのアラブ人・ペルシャ人・インド人のほか、宋代に海南島に移住したチャム人ムスリム(オチャ Utsat)など、モンゴロイドのムスリムも番民と呼ばれ、所三亜番村=いま三亜市回新村あたりに居住した(回回、回民とは呼ばれなかった)。
- 1 蕃坊とは
- 2 蕃坊の概要
蕃坊
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「唐朝におけるイスラーム」の記事における「蕃坊」の解説
唐を訪れたムスリムは毎日の礼拝や漢民族との文化の差から自然に一つの地域に集まっていった。唐はこれを蕃坊とし、蕃坊内の争いを処理するために徳や人望があるムスリムを一人「蕃長」に任命した。また、ムスリム間の係争を裁定するために法官が任命され、イスラームの戒律にのっとって判決が行われた。唐の法律である『唐律』には「外国人が、同類の間で案件を起こした場合は、本俗法によって処理し、異類の場合には法律によって処理する」と記されている。851年(大中5年)に中国を旅行したアラブ商人スライマーンは広州の蕃坊について以下のように記した。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}広州には、イスラム教の管理者が一人おり、モスクも一ヶ所ある。各地から来たイスラム教の商人が、広州に多く住んでいるため、中国の皇帝は、一人のイスラム教の裁判官を任命し、イスラム教の風俗によってムスリムたちを治めさせるようにした。 —スライマーン 元代に広州を訪れたイブン・バットゥータは以下のように記した。 この大都市の一部にはイスラーム教徒の街がある、彼らは同地に寺院・旅舎・及び市場を有する。さらに法官と教長を置いて居る。ただこの都市以内に限らず、大凡イスラーム教徒の在留する核としには、均しく法官と教長とが居る。 —イブン・バットゥータ 広州の蕃坊では本国のカリフの名を読み上げて金曜礼拝が行われた。 安史の乱で吐蕃が唐と西域との交通を断ったことにより、やむを得ずに長安に取り残された胡人や蕃客は役所からの給与に頼って生活していた。それから何十年が経過した徳宗の時代に、このような優遇を享受したまま長期滞在している外国人が問題になり、宰相の李泌が戸籍を調査したところ4,000人余りの蕃客や胡人が長安に定住していることが判明した。李泌はこれに対し給与を停止するように命じ、「外国の使者の身分で、首都に何十年もいて、帰ろうとしないものがいるか。直ちに国に帰るか、あるいは職について俸給を得るか決定しなさい。」と述べた。これを受けた胡人や蕃客は、十数人を除いてほとんどが仕事を得てそのまま長安に居留した。
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