皇帝 (中国)
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中国史における皇帝(こうてい、中国語: 皇帝、拼音: ( 聞く))とは、一般に、紀元前221年に秦の政王が中国統一を機に始皇帝と号してから、辛亥革命を受けて1912年に愛新覚羅溥儀が清皇帝を退位するまでの中国の君主を指す[注 2]。中国の上古時代の君主の号は「天皇」だった。中国で「皇帝」の号がはじめて用いられるのは、秦の始皇帝の時である。基本的に秦の始皇帝以降は「皇帝」を名乗り、それ以前は、「天子」、「王」である皇帝はまた、皇帝号が用いられる以前の周や殷の君主を含めて天子とも称され、天下(地上世界)の支配者とみなされた。実際には、すべての皇帝が中国全土における最高権力を握っていたわけではないが、その場合でも通常は「天子」と呼ばれた。
注釈
- ^ 宣統帝の甥であるが、本人は皇帝位は請求しておらず、金姓を名乗り愛新覚羅の姓は名乗っていない。よって名目上の皇位請求者ということになる。
- ^ 退位後も溥儀は清室優待条件に基づいて1924年まで称号としての皇帝の肩書を維持した。また、袁世凱が中華帝国皇帝を称したが短期間で即位を取り消し、溥儀は、1917年に復位を宣言する(張勲復辟)が12日間で取り消し、1934年から1945年までは日本の傀儡として満洲国皇帝を称したが、これらは僭称として扱われることが多い。
- ^ 「帝」は本来、殷王家の神格化された祖先を指した。「帝」を「天帝」「上帝」のように神の名として用いるのは、殷王が「天子」を自称したところに発する。[3]
- ^ 一般的には武帝と称されるが、これは漢王朝のほとんどの皇帝が孝〇皇帝という諡号であり、便宜的に省略がなされてきたためである。
出典
- ^ 清朝皇室后裔(ウェブアーカイブ、2006年10月18日) - http://www.bj.xinhuanet.com/bjpd_sdwm/2006-07/04/content_7422818.htm
- ^ Sinicization vs. Manchuness: The Success of Manchu Rule
- ^ a b Nadeau, Randall L. The Wiley-Blackwell Companion to Chinese Religions, pp. 54 ff. John Wiley & Sons (Chichester), 2012. Accessed 22 December 2013.
- ^ Barmé, Geremie (2008). The Forbidden City. Harvard University Press. p. 594. ISBN 978-0-674-02779-4
- ^ "看版圖學中國歷史", p.5, Publisher: Chung Hwa Book Company, Year: 2006, Author: 陸運高, ISBN 962-8885-12-X.
- 1 皇帝 (中国)とは
- 2 皇帝 (中国)の概要
- 3 世襲と皇位継承
- 4 呼称・用語
- 5 皇族
中国の皇帝
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「失われた大陸 (E・R・バローズ)」の記事における「中国の皇帝」の解説
氏名不明。温厚で知的な人物。アビシニアとヨーロッパで激突した際、ターク(パン=アメリカ人)が捕虜になったと知ると、アメリカの現状を知るため、北京に招聘する。パン=アメリカとの国交を再開したいと思っているが、先代皇帝らと同じくアメリカの意向を尊重しているため、これまで交渉をしてこなかった。
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中国の皇帝
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「皇帝 (中国)」および「天子」も参照 東アジアにおいて「皇帝」号を最初に使用したのは、中華圏における国家である秦であり、その後も20世紀に至るまで多くの王朝の君主が皇帝を称した。皇帝は中華の歴史・思想と密接に関係している。
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中国の皇帝
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中国では、7世紀末から8世紀始めの、唐における武則天登位、建国(武周)の前後において、中宗・睿宗が即位後に武則天により退けられた。晩年の武則天による譲位で中宗が皇帝に復位し、中宗の後に睿宗が復位している。 また、明の英宗が土木の変でオイラト軍に囚われると、朝廷では弟の景泰帝を帝位につけ、帰還後の英宗は幽閉していた。後に奪門の変の結果、英宗は再度即位している。明の皇帝は一世一元の制があるため、元号を冠して呼ぶのが習いであるが(永楽帝など)、英宗は第6代と第8代の重祚を行い、元号を2つ使ったため廟号で英宗と称されることが多い。ただし、元号を用いて正統帝、天順帝と呼ぶ場合もある。 清朝の宣統帝は辛亥革命で退位した後に満洲国の皇帝に即位したが、形式上も実質的にも中国の支配をしていたわけではない(表向きには「満洲民族が独立国を作った」という形)ため、これは一般には重祚とみなされない。また、満洲国以前に清朝の再興と宣統帝の復位の企てがあったが、これは張勲復辟と呼ばれる。
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