特別急行列車
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国鉄・JRの特別急行列車
沿革・概要
戦前特別急行列車の創始とその終焉
特別急行(特急)列車が設定される前、急行列車より速い列車には「最急行」という種別をつけることがあった。その中でも1906年(明治39年)4月16日に、国有鉄道の新橋駅 - 神戸駅間で設定された「最急行 1列車・2列車」は、運賃以外に初めて速達サービスのための料金を徴収する列車となるなど、現在の有料特急・急行の元祖と位置づけられるものであった。
「特別急行」の種別を初めて用いたのは、1912年(明治45年)6月に前述した「最急行 1列車・2列車」を区間延長する形により、関釜連絡船を介して中国・欧州などへの国際連絡運輸の一翼を担う「大陸連絡列車」として、新橋駅 - 下関駅(山口県下関市)間で運転を開始した 1列車・2 列車である。編成内容も一等車・二等車のみで洋食専門の食堂車を連結し、展望車が最後尾に連結されるなど[2]、「日本の国威」を対外宣伝するためのような存在であった。1914年(大正3年)12月に東京駅が開業すると、1列車・2列車も東京駅始発となった。
1923年(大正12年)7月、同区間に三等車のみで構成された 3列車・4列車が運転開始される[3]。そこからも分かるように、この列車は食堂車も急行列車と同様の和食堂車を連結するなど、どちらかと言えば大衆向けの設定であった。昭和に入ると特急列車に「列車愛称」が付けられるようになり[4]、新しい列車の設定も見られたが、間も無く戦争に突入したため、結局戦前の特急列車は下記の 4種のみにとどまった。また戦前の特急列車は、東京以西の路線(東海道本線、山陽本線、鹿児島本線、長崎本線)のみで設定されていた。しかし第二次世界大戦の戦局が悪化した1944年(昭和19年)3月14日には、決戦非常措置要綱に基づく旅客の輸送制限に関する件が閣議決定され、特急および急行列車などの全廃が決定[5]。同年4月を以て「富士」を最後にそれらは全て廃止され、日本の特急列車は一旦消滅した。
この時期の特急列車
- 富士(ふじ):1929年(昭和4年)9月、当時の国有鉄道を運営していた鉄道省は前述した 1列車・2列車に「富士」と命名した[4]。これは日本初であり、また公募によるもので(公募については列車愛称を参照)、後述する「櫻」・「燕」もそこから命名されている。「富士」は戦前の日本を代表する列車となり、一等展望車を最後尾に連結していた。1942年(昭和17年)11月、関門トンネルの開業により「富士」は運転区間を長崎まで延長、翌年博多までに短縮し、1944年(昭和19年)4月に廃止された。
- 櫻(さくら):1列車・2列車に「富士」と命名されると同時に、3列車・4列車には「櫻」と命名[4]。1934年(昭和9年)12月までは、「富士」に対して十数分先行するような時刻で運転された。前述した「大衆列車」としての使命を全うして運転されていたが、1942年(昭和17年)11月に急行列車に格下げられた。
- 燕(つばめ):1930年(昭和5年)10月、東京駅-神戸駅間に一・二・三等の各等をすべて連結した列車として運転を開始。この列車には所要時間を短縮するために、機関車の後位に水槽車を連結して横浜駅 - 名古屋駅間を無停車運行とするなど様々な工夫がなされ[6]、丹那トンネルが開通した1934年(昭和9年)12月には東京 - 大阪間を8時間で運転、戦前の最高記録を打ち立てた。1943年(昭和18年)10月に廃止。
- 鷗(かもめ):1937年(昭和12年)7月、東京 - 神戸間に運転を開始。前述した「櫻」・「燕」の補助的性格の強い列車であった。1943年(昭和18年)2月に廃止。
太平洋戦争後の復活とその後の展開
終戦直後は、石炭・車両・整備の状況が戦時中以上に悪化したこともあって、特急列車どころか普通の列車すらまともに運転できない状態となり、1947年(昭和22年)の1月から4月に掛けては急行列車まで全廃された。その後、それらの状況がやっと好転して来た1949年(昭和24年)9月、東京駅-大阪駅間に「へいわ」が運転開始される。同区間を9時間で結び、速度こそ戦前の水準に及ばなかったが、この時1944年(昭和19年)以来5年ぶりに展望車・食堂車が復活するなど、見るべきことは多かった。
特徴のある特急列車
その後、特急列車は次第に各線で設定・増発され、特徴ある物も増えた。戦後の特急列車史に残る列車としては、下記の列車などが挙げられる。(新幹線は除く)
- 「つばめ」・「はと」:1950年(昭和25年)1月、前述した「へいわ」を運転開始3か月で「つばめ」と改称し、戦前の名列車の名前が蘇った(戦後は「つばめ」と平仮名書き)。同年6月、同区間にその姉妹列車として「はと」が登場する。さらに同じ年の10月には東京 - 大阪間の所要時間を戦前同様の8時間とし、東海道本線が全線電化された1956年(昭和31年)11月には7時間30分にまで短縮する。後述する「こだま」が登場するまで、「つばめ」・「はと」は戦後の国鉄を象徴する列車として走り続けた。
- 「あさかぜ」:1956年(昭和31年)11月、東京 - 博多間に戦後初の夜行特急列車として登場した。関西圏を深夜時間帯に通過したりするなど、話題に尽きない列車であった。2年後の1958年(昭和33年)10月には使用車両を新型の20系客車に置き換え、初の「ブルートレイン」となった。
- 「はつかり」:1958年(昭和33年)10月に上野 - 青森間、即ち戦前戦後を通じて初めて東京以北へ向かう特急列車として設定された。当初は客車を使用していたが、2年後の1960年(昭和35年)12月にこれまた日本で初めての気動車による特急列車となった。1968年(昭和43年)10月の改正で電車特急となる。
- 「こだま」:1958年(昭和33年)11月、東京駅-大阪駅間に電車を使用した特急列車として登場。当初同区間を、それまでの機関車列車の所要時間より40分も早い6時間50分で結び、電車の優位性を見せ付けた。2年後の1960年(昭和35年)6月には、それをさらに6時間30分にまで短縮している(同時に「つばめ」・「はと」も電車に置き換え)。これによって東京 - 大阪間の日帰りが可能となったことから「ビジネス特急」と呼ばれ、東海道新幹線の開業まで東海道本線の代表列車として疾走した。
特急列車運行の全国展開
特急列車が普及したダイヤ改正として著名なものには、1961年(昭和36年)10月1日の改正(通称「サン・ロク・トオ」ダイヤ改正)と、1968年(昭和43年)10月1日の改正(通称「ヨン・サン・トオ」ダイヤ改正)がある。1961年(昭和36年)の改正ではそれまで東北・東海道・山陽・鹿児島・長崎の各本線と常磐線でしか運転されていなかった特急列車が全国の幹線を走り始め、1968年(昭和43年)の改正では、それまではその名の通り「特別」な列車であった特急列車が、需要の多い線区では1964年(昭和39年)10月に開業した東海道新幹線と同様ネットダイヤ化が進み、大衆化をも推し進めることになった。
この時期の著名な列車
- 「白鳥」:1961年(昭和36年)10月、大阪 - 青森・上野(信越本線経由)間を結ぶ気動車による特急列車として登場。直江津で上野編成と青森編成とを切り離し・併結すると言う、同時に登場した「かもめ」とともに、日本初の分割・併結を行う特急列車となった。1965年(昭和40年)10月に、上野への編成が上野 - 金沢間の「はくたか」として独立、そして1972年(昭和47年)10月には使用車両を電車に変えるが、その後も2001年(平成13年)3月まで大阪 - 青森間 1040.0km を結ぶ、在来線では日本最長距離を走る昼行特急列車として君臨し続けた。
- 「富士」:1964年(昭和39年)10月に、東京 - 大分間を結ぶ寝台特急列車として登場、翌1965年(昭和40年)10月から運転区間を西鹿児島(現在:鹿児島中央)まで延長し、1980年(昭和55年)10月に運転区間を短縮するまでは、東京 - 西鹿児島間を日豊本線経由で 1574.2km を走る、日本最長距離走行の特急列車であった。
エル特急の登場とその後の展開
1972年(昭和47年)10月より一部の昼行特急には、「エル特急」と言う愛称が与えられた。後に従来の急行列車を昇格して特急列車とした際にもこの扱いを行うことが多かった。しかしJR東日本が2002年(平成14年)12月にエル特急を名称上全廃したのを皮切りに、他のJR各社でもエル特急の名称が廃止されていった。最後までエル特急の名称が残ったJR東海も、2018年3月のダイヤ改正でエル特急の名称を廃止したため、登場から45年半でエル特急の名称は消滅した。
1972年(昭和47年)- 1985年(昭和60年)に掛けて、山陽新幹線・東北新幹線・上越新幹線といった新幹線が次々と開通するにつれ、長距離を走る特急列車は新幹線に取って代わられる形で次第に減少し、それと引き換えに新幹線の沿線から離れた都市と、新幹線との連絡・接続を図る、中-短距離の列車が増えていった。
1985年(昭和60年)3月 - 2002年(平成14年)12月までの間、東北本線(宇都宮線)・高崎線などでは同線内相互間の輸送を目的とした一部のエル特急を「新特急」と称していた。元々は、短・中距離の急行列車を増収のためほとんど停車駅は変えず特急列車に格上げした物で、定期券でも乗車できることとし、料金も 50km 以下の区間は急行料金と同額とするなど、特急と急行の中間的な設定にされた。しかし前述のような理由で設定された特急であり、使われていた185系はそれまでの特急列車の車両より設備が劣り、関西では快速列車に使うような車両にデッキを付けただけのような物であったが、後に座席は通常の特急用と同じものに交換された。2001年(平成13年)12月にそれ以外の列車と特急料金が同額になり、「新特急」を列車名に冠する必要が無くなったためか翌年消滅した。因みにその頃までには東北本線の新特急は朝夕の時間帯を除いて一般車使用の快速に格下げされ、高崎線の新特急もアコモデーションのリニューアルや日中時間帯の停車駅の大幅な削減などの改善策が行われた。また、湘南新宿ラインの開通後は東北・高崎線の快速・普通列車においてもグリーン車の連結が行われるようになったため、旧「新特急」が担当していた高崎線内相互間の着席輸送においては、快速・普通列車のグリーン車の拡充を重視する傾向になっている。
2004年(平成16年)3月に九州新幹線が開通して以来、JR九州は「きりしま」のうち霧島神宮・国分発着のものや、「はやとの風」、また2009年10月10日から運転の「海幸山幸」といった臨時特急列車などが存在するが、これらの列車は停車駅こそ限定されてはいるもの、いずれも同区間を走る普通列車と同等か、それより遅い列車も存在する。これは速達性を意味する「特別な急行列車」の意味ではなく、新幹線との接続性を重視しているものや、また車内設備のサービスに対して料金を取るか取らないかどうかや、観光に特化したサービスの提供などといったサービスの違いで「快速列車」・「普通列車」などと区分するために、「特急列車」を名乗らせているものである。このような観光に特化した特急列車のことをJR九州では便宜的に「観光特急」などと呼ぶことが多い。
編成について
1950年代までは客車による長大編成が組まれた。しかし、1960年代以降、速達化を計る観点から、昼行列車から使用車種を電車・気動車へ変更してゆく事となった。
この初例としては、運用の効率化を図った登場時の151系を用いた「こだま」の編成がある。詳細はこちらを参照されたいが、これは、簡易食堂「ビュフェ」付き三等車と二等車を編成中央に組み込んで8両編成で運用するものであったが、速達化・快適性の向上がなされた。その後、運行されていた客車特急列車の電車化を行う際には、運用の効率化よりも旧来の客車編成との摺り合わせがなされたため、10両 - 12両で運用された。
しかし、利用者が少ないとされた地方線区での使用が予想されたキハ82系では食堂車と一等車(後のグリーン車)を各1両備えた6両編成を基本とした編成が基本とされた[注釈 3]。
電車でも二等車(→普通車)の両数の差があるものの、編成が短くなり、おおむね8両 - 12両程度で運用される従来のものから大きく変容するようになる。
その初例として、1976年(昭和51年)に設定された佐世保線エル特急「みどり」では485系新製車両では最も短い4両編成で運用される事例がみられるようになった。ただし、「みどり」の事例は「かもめ」と併結運転を行う多層建て列車として運行する関係もあり、線路容量が小さい路線での措置として異例とされた。
本格的な短編成化として知られるようになったのは、高速バスとの競争が激しくなった鹿児島本線エル特急「有明」である。この列車群では、車種統一を図った1984年(昭和59年)以降改造車両を用い、1本あたりの編成組成を短くする代わりに本数を増発する手法を採ったため、1986年(昭和61年)には「3両編成を組んだ特急」が運行されるようになった。
ただし、電車による短編成化には運用上の限界があり、2両編成の電車特急列車は1990年(平成2年)登場の札幌→旭川間運行の臨時特急「モーニングエクスプレス」があったものの、1994年(平成4年)には使用車両である785系の当時の所定編成であった4両編成に戻され、以降電車での短編成運行は485系・183系・253系・373系による3両編成が最小になったが、2010年に8000系の付属編成を2両に減じたため、2両編成電車特急が復活。後継となる8600系では、2両または3両編成で製作、運用されている。
しかし、気動車ではキハ82系の編成を元に設計したキハ181系・キハ183系では「大出力エンジンを積む」や(後者のみであるが)「極寒地仕様のため先頭車両は非貫通」とした事もあり、例えばキハ181系は2両で運行することは可能であるが、「便所がない」・「座席数が少ない」という問題もあった。
そこで、1986年(昭和61年)に運用を開始したキハ185系気動車では2両編成で運用可能とした設計とた。これには急行列車の格上げによる「急行形気動車の置き換え」ともされている。また実際に四国旅客鉄道(JR四国)は高徳線のエル特急「うずしお」の運用開始時に実施した。なお、同車両は2016年(平成28年)現在2両 - 3両の短編成で運用される事が多く、当初よりの所有会社であるJR四国では主に徳島県内の特急列車群で、一部は 九州旅客鉄道(JR九州)が購入し久大本線・豊肥本線を運行する特急列車群で運用されている。
また、西日本旅客鉄道(JR西日本)では「地域輸送の高速化」という観点から、キハ185系以降にて2両固定編成での運用を前提としたキハ187系を新製した。また、キハ181系を最後まで使用していた「はまかぜ」ではグリーン車連結の4両編成であったが、キハ189系では普通車のみの3両編成で置き換えた。
客車については、151系が登場した1960年代以降定員が少ない寝台車を中心にして運行されたこともあるため、食堂車、電源・荷物車を込みで10両 - 15両程度の長大編成を組んでいたが、14系客車では分割併合での簡易電源車連結の手間を省略するため、サービス電力を高出力ながら乗客を乗せない専用の電源車ではなく、編成の端に連結する緩急車より供給する関係で6両程度で組成をすることとなり、その編成単位の組み合わせで運行されるようになった。
なお、「はやぶさ」が1985年(昭和60年)にロビーカー連結により15両編成となった(東京駅 - 熊本駅間[注釈 4])がこれが、客車列車としては最長となった。[注釈 5]
しかし、1980年代以降、長期的な夜行列車・寝台列車の凋落傾向から必ずしも10両程度の需要がないことから、短編成化された列車も存在した。例えば、1984年 - 1989年までの「出雲2・3号」は8両編成で運行されたが、廃止直前(2000年以降)の「彗星」の様にB寝台車のみの4両編成で運行された列車もあった[注釈 6]。
なお、「富士」・「はやぶさ」は、運行末期である2005年(平成17年)より2009年(平成21年)の廃止までは門司以降のJR九州管内においては6両編成、東京 - 門司間ではそれを2編成組み合わせた12両で運行されていた。
なお、末期の寝台列車で運用されたものの編成は以下の通りであった。
- 2010年(平成22年)に廃止された「北陸」の運行末期はA寝台連結で8両編成であった。
- 「北斗星」・「トワイライトエクスプレス」・「カシオペア」では終着駅である札幌駅のホーム最大有効長に合わせた12両編成となっていた。
編成の長短について
この節の加筆が望まれています。 |
なお、2022年9月23日現在で最長編成の列車は以下の通りとなる。
- 電車列車
- 東北新幹線:「はやぶさ」・「こまち」:東京 - 盛岡間での17両編成[注釈 7]
- 在来線:東京 - 岡山間での285系「サンライズ瀬戸」・「サンライズ出雲」併結及び東京 - 熱海間でのE257系「踊り子」(伊豆急下田・修善寺発着)・「湘南」の14両編成が最長となる。[注釈 8]
- 単独貫通列車の場合:「ひたち」「ときわ」E657系10両編成が最長となる。
新幹線列車の扱い
新幹線で運行される列車も特急列車として分類される。また、在来線と直通する列車も特別急行列車と定義されている。このため、以下の列車も特別急行列車として取り扱われる。
- 直通するため在来線を改修し、在来線直通を意図した車両を用いた列車(いわゆる「ミニ新幹線」):「つばさ」・「こまち」
- 新幹線規格で施工された区間で、営業・法令上在来線として運用されている区間:博多南線運行列車(列車名なし)・上越線支線扱いとなる上越新幹線支線ガーラ湯沢駅を発着する「たにがわ」
なお、1975年(昭和50年)3月より1982年6月まで東海道・山陽新幹線のみであったことから料金は単一で設定されていたが、東北新幹線開業に際して個別の新幹線での設定がなされている。
それ以前、東海道新幹線開業より1972年(昭和47年)3月の山陽新幹線岡山開業までは「ひかり」は超特急、「こだま」は特急として区別しており、速達タイプの「ひかり」と各駅停車タイプの「こだま」は料金に区別があった。
新幹線で、220km/h超の速達列車に対する付加料金設定は、1992年(平成4年)3月に登場した「のぞみ」も「ひかり」・「こだま」とは料金に格差が設けられた。当初は、専用新型車両である300系開発のためと称したため、「のぞみ」特定となってきたが、2003年(平成15年)10月1日に「のぞみ」にも自由席を設定。「ひかり」・「こだま」と同一とした。
ただし、在来車両である200系・E2系により275km/hで運行された上越新幹線の実績もあり、東北新幹線での2002年12月の「はやて」設定時こそ行われなかったものの、E5系・H5系による2011年12月の「はやぶさ」設定に際し、最高時速を320km/hまで運行できる区間(ここでは宇都宮 - 盛岡間)を含む場合に列車名指定なしで料金付加を行っている。
特急料金
沿革にある通り、JR の場合特急列車を利用する場合、乗車券のほかに特別急行券(特急券)が必要である。料金などの詳細については、「特別急行券」の項を参照されたい。
特急列車への定期乗車券での乗車は原則として認められていないが、近年は特例として一部の列車・路線で定期乗車券に自由席特急券ないしは立席特急券を追加すれば乗車が認められるようになってきている。現在では、自由席については昼行列車の全列車が定期乗車券との組み合わせで乗れるようになった。しかし、指定席は認めていない場合も多い。
特急料金が不要な区間
普通列車が一切ないなどの理由で、特急列車に乗車しても特急料金がかからない区間がある(ただし、新幹線車両使用区間を除く)。
車両
他の種別の列車の車両と異なる特急形車両を使っており、高速性能や、座席などの車内設備が他の種別の列車用より優れている[7]。原則として特急列車に専用されるが、利用客の少ない末端区間で普通列車になる場合や、運用の関係で全区間普通列車として運転される場合もある。
トレインマーク
この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2015年7月) |
国鉄時代の特急の特色として、綺麗なデザインが施されたヘッドマークやテールマーク(両方合わせて本節で「トレインマーク」という)がある。また、国鉄時代に製造された車両には、特急列車用の国鉄特急エンブレムが車両前面に装着されている。列車の前後、中央部に目立つように掲示したものである。戦前にすでに運行されていた「富士」「さくら」の列車愛称命名時に絵柄を入れた金属製のものを取り付けたのが端緒である。
戦後、1950年(昭和25年)に復活した特急「へいわ」号以降、特急列車のシンボルとして列車の前後に取り付けられるようになった。以降、特急列車である「つばめ」・「はと」・「さくら」・「かもめ」・「あさかぜ」・「はつかり」・「さちかぜ」・「平和」・「はやぶさ」・「みずほ」[注釈 9]まで絵柄入りのトレインマークが用意された。
しかし、"ビジネス特急「こだま」"用として1958年(昭和33年)に登場したモハ20系→151系(のちの181系)には、「特急マーク」と称される「T」をモチーフにしたエンブレムや、日本国有鉄道の英略である「JNR」をモチーフにしたロゴを制定したものの、トレインマーク自体は列車名のみのものとなった。この後に登場した気動車初の特急形車両であるキハ81系も151系の特急マーク・国鉄ロゴ・ボンネットスタイルを踏襲し、トレインマークについては列車名のみとなった。
またブルートレイン用客車の20系客車では、電源車・緩急車のテールマークについては当初地色を列車ごとに変えたが[注釈 10]、のちに白地に濃紺(ローマ字表記は赤)でいずれも列車名のみを表示する形とした。後継の14系客車・24系客車といった客車も当初は列車名のみの表記となっていた。
客車の絵柄入りのテールマークは廃されたものの、機関車取り付けのヘッドマークは残り、寝台特急のシンボルとなった。その一方で、取り外しが面倒、費用が嵩む、あるいは盗難にあうなどの理由で1975年(昭和50年)には東京 - 西日本・九州方面のブルートレイン7列車以外はすべて廃止された。
しかしながらその3年後、1978年(昭和53年)10月には話題性も目論んで、すべての電車特急にイラストを施したトレインマークを採用することになった。当初は、交換が容易な幕式愛称標を備えた制御車に採用されたため、同じ電車列車でも透過式アクリルトレインマークを使用したボンネットタイプの制御車を持つ車両ではイラストなしの愛称標を使用していた。続いて、14系客車・24系客車を使用したブルートレインに波及し、幕式愛称標を装備していなかったキハ82系・181系も1985年(昭和60年)1月までに絵柄入りトレインマークが採用された。
1987年(昭和62年)4月1日のJR発足後の新型車両については、LEDを利用したトレインマークが採用されたり、トレインマーク自体を掲げなったりするものも増加した。代わりに、車両を特徴付けるエンブレムやロゴマークを車体に直接表示する場合も増えた。絵柄入りトレインマークを使用する場合も、JR西日本の北近畿ビッグXネットワークやJR四国の各特急列車など図案を簡略化したものも現れた。
例外
例外として、埼京線・川越線・相鉄線直通列車にはJR東日本の公式サイトの時刻表上にのみ「特急」の列車種別が設定されているが、これはJR線内(羽沢横浜国大駅まで)において「各駅停車」、「快速」(新宿駅からは各駅停車に種別変更)として走る列車が直通先の相模鉄道本線・相鉄新横浜線内において後述の料金不要の「特急」として走ることを意味しており[注釈 11][注釈 12]、本節で述べた「特急列車」とは全く性質の異なるものである。
注釈
- ^ 例外ではあるが2015年3月のダイヤ改正時点でも有料特急の所要時間が通勤快速と同等の路線がある(JR 京葉線 特急/東京 18:00 発→蘇我 18:33 着 所要時間 33 分 、通勤快速/東京 18:16 発→蘇我 18:49 着 所要時間 33 分)。また、特急停車駅の「海浜幕張駅」を通勤快速は通過するのも異例である[1]。
- ^ 私鉄では速達列車は料金徴収の有無を問わず優等列車として扱われることもあるが、料金不要列車も優等列車の範疇に含めるかどうかは事業者によって異なり、京王電鉄のように料金不要列車には速達列車であっても優等列車という表現を用いない事業者もある(優等列車#私鉄も参照)。なお、料金徴収の特急列車が運行されている会社は、料金不要の最速種別は「快速急行」や「急行」となる。
- ^ なお、鉄道ファン1991年12月号のキハ80系・キハ181系の記事によると、当時の時刻表の編成図には、一等車は「ロ」、二等車は「ハ」、食堂車は「シ」と記載されていたため、編成は「ハ・ハ・ハ・シ・ロ・ハ」となり、「はっ、はっ、はっ白歯」と駄洒落めいた表現で編成内容を覚えることができたとされる。
- ^ 電源・荷物車込みとなるため車号番号としては14号車までとなる。
- ^ 「はやぶさ」自体は厳密には20系客車時代にも15両編成にもなったが、1両の長さが標準的なナハネ20形車両では20.5mであるが、1985年当時使用の24系25形で標準となるオハネ25形車両であると21,3mとなることから。
- ^ なお「彗星」の末期は多客時でも6両編成であった。
- ^ なお、「やまびこ」・「つばさ」の東京駅 - 福島駅間の17両編成でも車両の両数上同数となるが、E2系電車・E3系電車とE5系・H5系電車・E6系電車の先頭車両の差により、「はやぶさ」・「こまち」となる。
- ^ 185系15両編成「踊り子」は1981年10月の列車設定当時より2021年3月13日改正まで在来線電車特急列車では最長だった。
- ^ 「みずほ」については「こだま」登場以降だが、運行当初は在来形車両での運行であるためこれに含める。
- ^ 例えば、「あさかぜ」は薄水色、「さくら」は桃色、「はやぶさ」は黄色、「みずほ」は水色で文字が黄色。
- ^ ちなみに行先表示器上では「各駅停車(快速)/相鉄線内特急」表示。
- ^ JRでいう「快速」に相当する。なお、小田急電鉄小田原線内において料金不要の「急行」として走る常磐緩行線も同様の記載があるが、小田急線内準急となる列車には記載がない。
- ^ ただ、当時は名古屋線と大阪線で軌間が異なっていたため、伊勢中川駅での乗り換えを要していた。近鉄において名阪間の直通運転が可能になったのは1959年12月のことである(近鉄特急史も参照のこと)。
出典
- ^ JTBパブリッシング 『JTB時刻表』2015年3月号 京葉線のページを参照。
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- ^ PHP研究所 梅原淳『雑学3分間ビジュアル図解シリーズ 特急列車のすべて』2010年7月 p.30 - p.31
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- ^ デビット・ベネット (2021年5月3日). “外国人が語る東京の「鉄道表記」難しすぎる問題”. 東洋経済オンライン. 2022年12月10日閲覧。
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