火消 江戸の町火消

火消

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/25 06:31 UTC 版)

江戸の町火消

店火消

店火消(たなびけし)は、町人が自身で組織した火消[注釈 13]

幕府は町人地の火事に対し、慶安元年(1648年)に「各町に人足を10人ずつ備えておくこと、消火に参加したものには褒美を・参加しなかったものには罰を与える(要約)」との触を出した。こうして火事の際に動員された町人を店火消あるいは駆付火消(かけつけびけし)と呼ぶ[18]。しかし、武家火消のように制度化されたものではなかった。

明暦の大火後の万治元年(1658年)、南伝馬町など23町が火消人足167人を集め、共同で消火に当たる取り決めの火消組合を設ける[19]。この火消人足は町名と印のついた羽織を着用するなど、後の町火消の原型といえる。幕府もこの火消組合を認め、他の地域にも同様の活動を求めた。しかし、火消人足の常時雇いは負担が大きいことから、23町以外には広がりを見せなかった。

町火消

名所江戸百景より「馬喰町初音の馬場」中央に町火消の火の見櫓[10]

町火消(まちびけし)は、第8代将軍徳川吉宗の時代にはじまる町人による火消。殆どが身体能力の高い鳶職で構成された。

財政の安定化が目標の一つとなった享保の改革において、火事による幕府財政への悪影響は大きいため、消防制度の確立は重要な課題となった。享保2年(1717年)に南町奉行となった大岡忠相は、翌3年に名主たちの意見も取り入れ、火消組合の組織化を目的とした町火消設置令を出す。町火消は町奉行の指揮下におかれ、その費用は各町が負担すると定められた。これにより、火事の際には1町につき30人ずつ、火元から見て風上の2町と風脇の左右2町、計6町180人体制で消火に当たることになった。しかし、町の広さや人口には大きな差があり、地図上で地域割りを行なったものの、混乱するばかりでうまく機能しなかった。

享保5年(1720年)、地域割りを修正し、約20町ごとを1組とし、隅田川から西を担当するいろは組47組と、東の本所・深川を担当する16組の町火消が設けられた。同時に各組の目印としてそれぞれ(まとい)と(のぼり)をつくらせた。これらは混乱する火事場での目印にするという目的があったが、次第に各組を象徴するものとなっていった。享保15年(1730年)には、いろは47組を一番組から十番組まで10の大組に分け、大纏を与えて統括し、より多くの火消人足を火事場に集められるように改編した。一方で各町ごとの火消人足の数は負担を考慮して15人へ半減され、町火消全体での定員は17596人から9378人となった[20]

のちに、「ん組」に相当する「本組」が三番組に加わっていろは四八組となり、本所深川の16組は北組・中組・南組の3組に分けて統括された。元文3年(1738年)には大組のうち、組名称が悪いとして四番組が五番組に、七番組が六番組に吸収合併され、大組は8組となった。この年の定員は10642人で、そのうち鳶人足が4077人・店人足が6565人であった[21](鳶人足と店人足の違いについては後述)。

町火消は毎年正月の1月4日に、各組の町内で梯子乗り木遣り歌を披露する初出(はつで)を行なった。これは、定火消が行なっていた出初に倣ってはじめられたものである。

いろは組とその纏(落合芳幾

いろは組

いろは四八組は、いろは文字をそれぞれの組名称とした(「い組」「ろ組」「め組」など)。いろは文字のうち、「へ」「ら」「ひ」「ん」はそれぞれ「百」「千」「万」「本」に置き換えて使用された。これは、組名称が「へ=」「ら=摩羅」「ひ=」「=終わり」に通じることを嫌ったためであるという[注釈 14]。いろは四八組のうち、「め組」は文化2年(1805年)に「め組の喧嘩」を引き起こしたことで知られ、明治時代には竹柴基水の作で歌舞伎の演目『神明恵和合取組』にも取り上げられた。

橋火消

町人により組織された火消としては、享保7年(1722年)に成立した橋火消(はしびけし)もあげられる。これは橋台で商売をしていた髪結床に、橋梁の消防を命じたものである。橋の付近に多く設けられていた髪結床の店は、粗末なものが多く火事の際に飛び火の危険があるため、撤去するか地代を徴収して橋の防火費用に充てることが検討されていた。これに対し髪結床の職人たちは、自身で火消道具を揃え橋の防火を担当したいと申し出る。町奉行大岡忠相はこの申し出を認め、髪結床による橋火消が成立した。また、近くに橋のない山の手の髪結床は、火事が起きたら南北の町奉行所に駆けつけることが命じられた。

享保20年(1735年)、橋の防火担当は町火消へと変わり、火事の場合髪結床の職人はすべて町奉行所に駆けつけることとなった。のちに天保13年(1842年)、天保の改革により髪結床組合が解散すると、町奉行所への駆けつけは名主たちに命じられている[22]

幕末にかけての町火消の活動

町火消の出動範囲は、当初町人地に限定されていた。しかしいろは組成立時には、町人地に隣接する武家地が火事であり、消し止められそうにない場合は消火を行うこととなった。享保7年(1722年)には2町(約218m)以内の武家屋敷が火事であれば消火することが命じられる。以降も享保16年(1731年)に幕府の施設である浜御殿仮米蔵の防火が「す組」などに命じられたことをはじめ、各地の米蔵・金座・神社・橋梁など重要地の消防も町火消に命じられていった。

延享4年(1747年)の江戸城二の丸火災においては、はじめて町火消が江戸城内まで出動することとなった。二の丸は全焼したが、定火消や大名火消が消火した後始末を行い、幕府から褒美が与えられた。以後も天保9年(1838年)の西の丸出火や同15年(1844年)の本丸出火などで江戸城内へ出動し、目覚しい働きを見せたことにより、いずれも褒美が与えられている。

幕末には、定火消が1組のみに改編されるなど武家火消が大幅に削減され、江戸の消防活動は完全に町火消へと委ねられた。さらに、町火消の活動は消防のみにとどまらず、黒船来航時には市中警備を、戊辰戦争時には治安維持活動も行なっている。また、元治元年(1864年)の長州征討において、長州藩江戸藩邸の破壊が町火消に命じられており、鳥羽・伏見の戦い敗北後には町火消に兵事訓練を行なうなど、衰退する幕府に兵力として組み込もうとする動きもあった[注釈 15]

明治5年(1872年)、新政府によって町火消は消防組39組へと改められ、その活動は現在の消防団へと繋がっていく。のちに大正元年(1912年)、町火消成立以降に殉職した火消の慰霊と顕彰を目的とし、浅草寺に「消防殉職者表彰碑」が建立された。第2次世界大戦までは11月3日に、戦後は5月25日に慰霊祭が行なわれている[注釈 16]


注釈

  1. ^ 「火消し」という「し」を付けた表記も幅広く用いられているが、参考文献であげた書籍が基本的に「火消」の表記を採用しているため、本項では冒頭文を除き「火消」に統一する。
  2. ^ 火事の回数については研究者により差異が存在する。ここでは『江戸の火事』P.3の記述を参考に回数を引用した。
  3. ^ 火事に紛れての兵乱などが警戒され、治安維持を優先していた[2]
  4. ^ 所々火消・方角火消・各自火消などは、この大名火消の一種である。
  5. ^ 水谷勝隆伊東祐久加藤泰興などに命じられている。翌正保元年(1644年)には10家3組に、正保3年には9家3組に、慶安2年(1649年)には10家3組にと編成が変わっていく[6]
  6. ^ 犠牲者の数は10万人台との説もあるが、ここでは内閣府防災部門の中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」による平成16年3月の報告書[1]の人数をあげた。
  7. ^ 大名屋敷の火の見櫓建築には制限があり、方角火消では3丈(約9.1m)、それ以外の大名では建築を許された場合でも2丈5尺(約7.6m)までであった[9]
  8. ^ 慶安3年(1650年)、4000石以上の旗本2名を火消役に任命したことを定火消のはじまりとする説もある。1658年説-『江戸の火事』『江戸学事典』など、1650年説-『江戸の火事と火消』『新消防雑学事典二訂版』など。
  9. ^ 定火消削減の理由は、江戸幕府の財政難にある。代わって八王子千人同心に火消役が命じられたが、大きな活動はなくやがて廃止された[13]
  10. ^ 米沢藩上杉家の場合、『上杉家年譜』寛永18年(1641年)に火事で老中奉書により出動した記録で「防火士頭」「火消方」などの記述が見られる[14]
  11. ^ この場合の「町」は尺貫法の単位であり、1町は約109m。
  12. ^ 参勤交代が3年に1度・江戸在留期間も100日となり、人質であった大名妻子の帰国も許されたため、江戸藩邸の人員が大幅に減少し火消役を維持できなくなった[17]
  13. ^ 店火消に関しては、「何をもって店火消と呼ぶか」「誕生の時期・活動時期はいつか」などで諸説がある。「江戸における店火消の動向」では、店火消に関する研究の不足を指摘したうえで、町火消誕生後も幕末にいたるまで、店火消が江戸の消防に大きな役割を果たしていたとしている。
  14. ^ 「ひ」が「火」に通じるため避けられたことには異論がないが、他の文字が置き換えられた理由としては、語呂が悪いから・忌み言葉に通じるから・「ん」は元々いろは文字に含まれないから、といった様々な説がある。四番組と七番組が吸収合併された理由も、「四=死」「七=質」に通じるため、など諸説がある。詳細については参考文献や外部リンクを参照。
  15. ^ このことに関して、山本純美は著書において「本末転倒もはなはだしい」「消防制度誤用の珍しい例」と評している[23]
  16. ^ 町火消時代から昭和14年(1939年)までの殉職者118人の名が記されている[24]
  17. ^ 寛永通宝など銭貨中央の穴に通して束にするため使用する、細い縄や紐のこと。
  18. ^ 翌年には諸大名に対しても、火消人足として鳶職人を雇わないようにと命じている。これは、日ごろから町で乱暴を働いたり、火事のときに遺恨のあるものへ報復するなど、鳶を生業とする火消の問題行動が多かったためである[28]
  19. ^ 「せ組」の場合、差し出す火消人足281人を、鳶人足70人に代えることが認められている[29]
  20. ^ 本業の鳶で遠方へ出向くことを禁じ、風の強い日などには番屋へ詰めて警戒させるための費用。
  21. ^ 『江戸の火事と火消』P.63による。『江戸の火事』P.97では弘化年間に頭取が177人いたとしている。
  22. ^ 加賀鳶が消火を終えかけたところに、仙石兵庫の組が割り込んだと認められたため。
  23. ^ こうした興行では、地元の鳶人足であれば入場は自由であったが、このときは地元以外のものを連れて入場しようとしたことが争いの原因である。
  24. ^ 丸玉は芥子玉で、四角の台は枡をあらわす。また、丸玉は天で、四角の台が地をあらわすという天地陰陽説もある[32]

出典

  1. ^ 『江戸の火事と火消』P.23
  2. ^ 「江戸火消制度の成立と展開」P.95
  3. ^ 『消防博物館歴史案内』江戸火消編「武家火消の誕生」
  4. ^ 「江戸火消制度の成立と展開」P.102
  5. ^ a b c 『元禄武鑑』による。(『江戸学事典』P.577)
  6. ^ 「江戸火消制度の成立と展開」P.98
  7. ^ 初回の任命は一組:水谷勝隆伊東祐久亀井茲政松平英親 、二組:加藤泰興京極高和秋月種春松平定房 三組:有馬康純稲葉紀通木下俊治青山幸利 四組:稲葉信通古田重恒九鬼久隆井上正利
  8. ^ 『江戸の火事と火消』P.49
  9. ^ 『江戸の火事』P.37
  10. ^ a b 『江戸消防 創立五十周年記念』P.74
  11. ^ 「江戸火消制度の成立と展開」P.100
  12. ^ 『東京の消防百年の歩み』P.21
  13. ^ 『江戸を知る事典』P.43
  14. ^ 「江戸火消制度の成立と展開」P.112
  15. ^ 『江戸の火事』P.39
  16. ^ 『江戸三火消図鑑』P.196
  17. ^ 『町火消たちの近代』P.42
  18. ^ 黒木 1999, p. 68.
  19. ^ 黒木 1999, pp. 69-70.
  20. ^ 『江戸の火事』P.82
  21. ^ 『江戸の火事と火消』P.59
  22. ^ 『江戸の火事』P.90
  23. ^ 『江戸の火事と火消』P.93
  24. ^ 『江戸三火消図鑑』P.225
  25. ^ 『江戸の火事と火消』P.52
  26. ^ 『町火消たちの近代』P.146
  27. ^ 『江戸三火消図鑑』P.193
  28. ^ 『町火消たちの近代』P.18
  29. ^ 『町火消たちの近代』P.21
  30. ^ 『江戸の火事』P.98
  31. ^ 『江戸三火消図鑑』P.197
  32. ^ 『江戸三火消図鑑』P.198




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