PRI一党独裁時代
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「メキシコの歴史」の記事における「PRI一党独裁時代」の解説
1940年に成立したマヌエル・アビラ・カマチョ政権は、カルデナス政権期に悪化した資本家、地主、カトリック教会、アメリカ合衆国との関係改善に努めた。第二次世界大戦期の1942年5月、メキシコの領土への攻撃ではなく、メキシコのタンカー「ポトレロ・デ・リャノ(Potrero del Llano)」が13日に、「ファハ・デ・オロ(Faja de Oro)」が20日に、ナチス・ドイツのUボート(それぞれU-564とU-106)によって沈められたことから、22日メキシコはナチス・ドイツ、大日本帝国およびイタリア王国に宣戦布告し、第二次世界大戦に参戦した。太平洋戦争には空軍の一部を派遣してフィリピンの戦いで日本軍と交戦している。ラテンアメリカ諸国ではメキシコとブラジルだけがドイツ及び日本と海外で戦うために軍隊を派遣した。 第二次世界大戦後のメキシコは順調な経済成長を見せ、政権も制度的革命党(PRI)政権によって文民統治が維持された。1946年にはメキシコ革命党が制度的革命党(PRI)に再編され、メキシコにおけるコーポラティズム(組合主義)国家体制が完成した。 こうして成立したコーポラティズム体制は、それまでの革命路線を修正して労働者や農民よりも資本家や大地主に重点を移しながら経済開発を進めていった。1950年代から1970年代までの間、他のラテンアメリカ諸国ではクーデターが頻発し、軍事独裁政権が数多く誕生していったが、メキシコは文民統治体制を維持しながら「メキシコの奇跡」と呼ばれる高度経済成長を達成、1968年にはラテンアメリカ地域初の近代オリンピックであるメキシコシティオリンピック を開催している。他方この時期は外交において親西側諸国の立場から親米政策を維持しながらも、キューバ革命後のキューバに対する米州機構による制裁の反対や、日本、ユーゴスラヴィア、インド、インドネシア、カナダといった新興国との関係拡大などに努めた。 しかし、経済発展による格差の拡大や、隣国アメリカに比べ自由の制約されたメキシコに不満を持つ者がこの時期に学生や知識層から出現する。1968年のメキシコシティオリンピック直前には、反政府デモ隊を軍隊によって弾圧し300人もの死者を出したトラテロルコ事件や、1971年6月10日の「血の木曜日事件」など、体制による強権的な反対運動の弾圧が進むにつれ、徐々にPRI体制下での近代化の歪みが露わになっていった。 1970年に成立したルイス・エチェベリア政権は政治への不満を和らげるため、政治犯の釈放を行った。対外的には資源ナショナリズム前面に出した積極的な第三世界外交を行い、従来よりも更にアメリカ合衆国や西側世界とは一線を画した外交路線を採ったが、政権末期には対外債務が276億ドルにまで膨張した。 1976年に成立したホセ・ロペス・ポルティーヨ政権は、前政権以来の経済危機を克服するために国際通貨基金(IMF)の勧告を受け入れ、労働者の賃金抑制や緊縮政策を採り、さらには石油ブームの助けもあって一時的に経済危機を回避した。内政面では政治改革を行い、国会の議席定数を増やしたほか、比例代表制の導入、極左・極右政党の認可を行い、反政府派の不満の解消をはかった。外交面ではエチェベリーア以来の第三世界外交を継続し、南北問題を議論する初の南北サミット(英語版)を主催した他、第一次ニカラグア内戦に際してはソモサ王朝と戦うサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)への全面的な支持を表明した。しかし、石油に依存した経済の脆弱さは隠し難く、1982年には876億ドルを超える累積債務問題が表面化し、メキシコの国民経済は危機に直面した。 通貨危機の中で行われた選挙により、1982年にPRIからデ・ラ・マドリが大統領に就任した。デ・ラ・マドリは国際通貨基金(IMF)の勧告に従って緊縮財政の続行やペソの切り下げを行い、新自由主義化によって財政の健全化を目指したが、その代償に国民生活は窮乏した。1986年にメキシコの債務は1,000億ドルを越えた。外交面ではコンタドーラ・グループを結成し、エルサルバドル内戦、第二次ニカラグア内戦の停戦に力を注ぎ、同時にアメリカ合衆国との関係改善も行った。 1988年の大統領選挙は、PRIから分離して国民民主戦線(FDN)を結成したクアウテモク・カルデナスとPRIのカルロス・サリーナス・デ・ゴルタリの一騎討ちとなり、50.36%の得票で辛うじてサリーナスが勝利したが、史上かつてないほどのPRIの低得票率に加え、クアウテモク・カルデナスのように党内からも離反者が相次ぐなど、PRI一党制の限界は誰の目にも明らかになっていた。サリーナス政権下では、原油価格の上昇が産油国メキシコの追い風となり、経済は堅調を維持した。サリーナス政権は「サリーナス革命」を掲げながらも社会改革よりも経済開発を優先して前政権以来の新自由主義を推進し、1992年に憲法を改正して共有農場たるエヒードの廃止と、農地利用の市場経済化を推進し、ここにメキシコ革命の理念の一つだった農地改革の精神は失われた。 さらにサリーナスは市場原理に基づいてメキシコとアメリカ合衆国の経済統合を進め、1992年にはアメリカ合衆国、及びカナダと北米自由貿易協定(NAFTA)を締結したが、NAFTAは先住民や農民の生活基盤を破壊する性質を持っていたため、NAFTA発効の1994年1月1日に最南部のチアパス州からマヤ系インディオを主体としたサパティスタ国民解放軍(EZLN)がインディオの生活基盤やメキシコの農業を破壊するNAFTA発効に抗議して武装蜂起し、近代以降のメキシコのあり方の根本に異議を唱えた。サリーナス政権末期の同年3月には大統領候補のルイス・ドナルド・コロシオが暗殺され、国民の政治不信は一層深まることになった。 大統領候補の暗殺直後に行われた1994年の大統領選挙では、コロシオに代わって選出されたPRI候補のエルネスト・セディージョが大統領に就任したが、セディージョは就任直後からサリーナス前政権の汚職や、EZLNの蜂起への対応に追われることとなった。経済の停滞は如何ともし難く、1994年12月20日にはヘッジファンドによって通貨危機(テキーラ・ショック)が勃発した。1996年には中米自由貿易圏の設立の運びとなった。一方EZLNとの関係では、1996年2月にサン・アンドレス合意が締結されたが、以降交渉の進展はなく、1997年にはメキシコ軍の支援する準軍事組織によってチアパス州のインディオ虐殺事件が発生した。 2000年の大統領選挙で国民行動党(PAN)から出馬したビセンテ・フォックス・ケサーダが勝利すると、前身となった国民革命党設立以来71年間続いたメキシコの一党独裁体制は終焉を迎えた。
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