AC/DCのメンバーとして
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「ボン・スコット」の記事における「AC/DCのメンバーとして」の解説
詳細は「AC/DC#ボン・スコットの加入(1974年〜1980年)」を参照 1974年、スコットはドライバー兼雑用係としてアデレードで働いていたとき、ツアーでやってきたアンガス・ヤングとマルコム・ヤングの兄弟ら、AC/DCのメンバーに出会った。当時、AC/DCのリード・シンガーはデイヴ・エヴァンスだったが、ヤング兄弟は、エヴァンスをゲイリー・グリッターのようなグラム・ロックだと感じており、自分たちのバンドのフロントマンにはふさわしくないと考えるようになっていた。一方、スコットはAC/DCの器材車のドライバーとして雇われて働き始め、ことあるごとにバンドでドラマーがしたいと表明していたが、バンドはドラマーではなくシンガーが欲しいのだとスコットに言い続けていた。そうした折り、ツアー中の軋轢が高じてエヴァンスはマネージャーと殴り合う事態に至り、バンドからの離脱が避けられなくなってしまった。 1974年9月、ボン・スコットは、デイヴ・エヴァンスに代わってAC/DCのリード・シンガーとなった。当時のドラマーはピーター・クラック、ベーシストはロブ・ベイリーだったが、この2人を事実上外す形で、ヤング兄弟をリード・ギターとリズム・ギターに置き、セッション・ミュージシャンとしてトニー・カレンティがドラムを主に担当し、ジョージ・ヤングが臨時のベースという編成で、AC/DCは最初のLP『ハイ・ヴォルテージ (High Voltage)』をレコーディングし、1975年2月にオーストラリアでリリースした。その後、クラックとベイリーは1975年1月に正式に解雇され、AC/DCはドラムにフィル・ラッド、ベースにマーク・エヴァンスを正式に雇い、2枚目のアルバム『T.N.T.』をレコーディングして、1975年12月にオーストラリアでリリースした。オーストラリア国外で最初に流通したAC/DCのアルバムは、この2枚のアルバムから集めた曲の編集盤で、やはり『ハイ・ヴォルテージ (High Voltage)』というタイトルが付けられ、1976年5月にリリースされた。1976年には、スタジオ録音アルバム『悪事と地獄 (Dirty Deeds Done Dirt Cheap)』も、まずオーストラリアだけでリリースされ、オーストラリア国外では英国盤が1976年12月、米国盤は1981年3月に、それぞれ異なる曲構成でリリースされた。 AC/DCは、1977年のアルバム『ロック魂 (Let There Be Rock)』と1978年の『パワーエイジ (Powerage)』でさらに成功を収めた。『パワーエイジ』は、(マーク・エヴァンスに代わった)ベースのクリフ・ウィリアムズのデビュー作となり、よりハードなリフで『ロック魂』で打ち立てられた路線を押し進めるものだった。このアルバムはハリー・ヴァンダとジョージ・ヤングのプロデュースでボン・スコットがヴォーカルをとった最後の作品であり、AC/DCのアルバムとしては最も不当に低く評価されているものだといわれている。『パワーエイジ』から出た唯一のシングル盤「地獄のロックン・ロール (Rock 'n' Roll Damnation)」は、それまでで最高のチャートでの動きを見せて24位まで上昇した。Powerage ツアーで回ったスコットランド・グラスゴーのアポロ・シアターにおける演奏は録音され、ライブ盤『ギター殺人事件 (If You Want Blood You've Got It)』となった。 AC/DCの6枚目のアルバム『地獄のハイウェイ (Highway To Hell)』は、ロバート・ランジのプロデュースで1979年にリリースされた。このアルバムは、AC/DCにとって、米国でトップ100に入った最初のアルバムであり、最終的には17位にまで登り詰め、バンドをトップ・ランクのハード・ロック・アクトにまで押し上げることになった。
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AC/DCのメンバーとして
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「ブライアン・ジョンソン」の記事における「AC/DCのメンバーとして」の解説
1980年3月、ジョンソンは、ロンドンへ来てAC/DCのオーディションを受けないかという誘いの電話を受けた。前任者のヴォーカリスト、ボン・スコットは、2月19日に、アルコールが原因で嘔吐物の誤嚥を起こし窒息死していたが、バンドは活動の継続を望んでいた。オーディションでジョンソンは、AC/DCの「ホール・ロッタ・ロジー (Whole Lotta Rosie)」と、アイク&ティナ・ターナーの「ナットブッシュ・シティ・リミッツ (Nutbush City Limits)」を歌った。4月はじめ、ジョンソンは正式に、AC/DCの新しいヴォーカリストとして公表された。 この年の7月、ジョンソンをフィーチャーした最初のAC/DCのアルバム『バック・イン・ブラック』が発表された。このアルバムは、世界的な大成功を収め、史上有数の成功を収めたアルバムとなった。これに続いた1981年の『悪魔の招待状』も好調な売れ行きを見せた。その後、バンドのセルフ・プロデュースによるアルバム、1983年の『征服者 (Flick of the Switch)』と1985年の『フライ・オン・ザ・ウォール (Fly on the Wall)』は、さほどの商業的成功とはならなかった。1986年の『フー・メイド・フー (Who Made Who)』はホラー映画『地獄のデビルトラック』のサウンドトラックで、AC/DCを再び人気の主流に押し上げた。 1988年のアルバム『ブロウ・アップ・ユア・ヴィデオ (Blow Up Your Video)』は、ジョンソンの作詞による歌をフィーチャーしたAC/DCの最後のアルバムとなった。1990年の『レイザーズ・エッジ』以降は、ギターのアンガス・ヤングとマルコム・ヤングの兄弟2人が、AC/DCの作詞作曲を全面的に担うようになった。ラジオのインタビューで、ファンから、なぜ歌詞の提供を止めたのかと問われたジョンソンは、「言葉が在庫切れになっちゃって」と笑って答え、レコーディング中にアルバム一枚分の歌詞を生み出さなければならないというプレッシャーは楽しく思えないときもあったと説明し、『レイザーズ・エッジ』のレコーディング中にヤング兄弟が作詞をやってくれたときにはほっとした、と述べた。これ以降、すべてのアルバムは、すべての楽曲がヤング兄弟の作詞作曲となった。2008年には、ヴォーカルがジョンソンに代わって10枚目のアルバム『悪魔の氷』が発表された。 ジョンソンは、ステージではキャップを被って登場し、時々キャップを脱ぐというのが定番となっている。元々ジョンソンは、出身地であるタインサイドを象徴するものと見なされる「フラット・キャップ (ハンチング帽)」を被っていたが、時々はベースボールキャップを被ることもある。ジョンソンが帽子をかぶるのは、歌っている最中にカールした髪から汗が滴り落ちて目に入るのを防ぐために、弟が帽子を勧めたことがきっかけだった。「弟が『そいつをかぶってみな、そしたら何をやっているのか見えるようにはなるはずだぜ!』と言ったんだ。それで、被ってみて、2番目のセットで3曲やった後、弟の方を見て、親指を立ててやったんだ - 『こいつはすごいぞ!』ってね。弟はそれで帽子を返してもらえなくなっちまった訳だ。」 2009年7月、ブライアン・ジョンソンは『Classic Rock』誌のインタビューで、引退を考えることもあるという発言をした。しかし、同11月には、このコメントの意図は、コンサートを通して歌えないくらいになったら引退したいという意味で、すぐに引退するということではないとした。 2010年2月、ワールド・ツアーの最中、ジョンソンは、AC/DCにセットリストの変更を求める公開状を書いた一部のファンについて、毒舌を浴びせた。「くたばりやがれ!これまでに聞いたことがないファンはどうなるんだ?糞生意気な連中がいるもんだ。今じゃコンピュータ使って、どっかの自分ちにデカいケツで座り込んでいながら『あっ、連中また同じ曲を昨日の晩もやったよな、変えるのが当然だろ』と仰る。キンタマでも食らいやがれ。連中は、セットの中の曲を入れ替えるのが昔と大違いに大変だってこと分かっちゃないだろう。」 2016年4月、AC/DCの16枚目のアルバムに伴う、『ロック・オア・バスト ワールドツアー』において、聴力問題によりドクターストップが掛かり途中降板。代役をはガンズ・アンド・ローゼズのアクセル・ローズが務めた。 2018年夏、長年悩まされていた難聴の問題が解決し、AC/DCのメンバーとスタジオで再会。復帰した、フィル・ラッド、クリフ・ウィリアムズ含むメンバーと17枚目のアルバム、「パワーアップ」のレコーディングを開始した。 2020年11月、ニューアルバム、「パワーアップ」がリリースされ、世界21カ国でチャート1位を記録。新型コロナウィルスの影響で計画されていたワールドツアーは中止となったが、アンガス・ヤングがTwitterにて、コロナウィルスが収束した時再び計画する、と発言するなどブライアン自身もワールドツアー参加の意欲を示した。
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AC/DCのメンバーとして
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「アンガス・ヤング」の記事における「AC/DCのメンバーとして」の解説
1973年、アンガスの中学校卒業と同時に、兄のマルコムはそれまで活動していたブギー・バンドを脱退し、12月31日アンガスと共にAC/DCを結成。ギターはデビュー以来、一貫してギブソン・SGを使用している。姉からの提案により、結成当初は制服姿でコンサートを行い、以降ブレザー、半ズボンにランドセルを背負ったスクールボーイスタイルがトレードマークとなる。 また、プレイ中は両足を震わせるようにしてリズムを取りつつ、天然パーマの頭を振り回したり、チャック・ベリーに似た、ダックウォークなどのパフォーマンスで有名で、控えめなマルコムに比べてステージでは常に主役になっている。
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