AC/DCのメンバーとしてとは? わかりやすく解説

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AC/DCのメンバーとして

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 06:50 UTC 版)

ボン・スコット」の記事における「AC/DCのメンバーとして」の解説

詳細は「AC/DC#ボン・スコット加入1974年1980年)」を参照 1974年スコットドライバー雑用係としてアデレード働いていたとき、ツアーでやってきたアンガス・ヤングマルコム・ヤング兄弟ら、AC/DCメンバー出会った当時AC/DCのリード・シンガーはデイヴ・エヴァンスだったが、ヤング兄弟は、エヴァンスゲイリー・グリッターのようなグラム・ロックだと感じており、自分たちのバンドフロントマンにはふさわしくない考えるようになっていた。一方スコットAC/DC器材車のドライバーとして雇われ働き始めことあるごとにバンドドラマーがしたい表明していたが、バンドドラマーではなくシンガー欲しいのだとスコット言い続けていた。そうした折りツアー中の軋轢高じてエヴァンスマネージャー殴り合う事態至りバンドからの離脱避けられなくなってしまった。 1974年9月ボン・スコットは、デイヴ・エヴァンスに代わってAC/DCのリード・シンガーとなった当時ドラマーピーター・クラックベーシストロブ・ベイリーだったが、この2人事実上外す形で、ヤング兄弟リード・ギターリズム・ギターに置き、セッション・ミュージシャンとしてトニー・カレンティドラムを主に担当しジョージ・ヤング臨時ベースという編成で、AC/DC最初LP『ハイ・ヴォルテージ (High Voltage)』をレコーディングし1975年2月オーストラリアリリースしたその後クラックベイリー1975年1月正式に解雇されAC/DCドラムフィル・ラッドベースマーク・エヴァンス正式に雇い2枚目のアルバムT.N.T.』をレコーディングして、1975年12月オーストラリアリリースしたオーストラリア国外で最初に流通したAC/DCアルバムは、この2枚アルバムから集めた曲の編集盤で、やはり『ハイ・ヴォルテージ (High Voltage)』というタイトル付けられ1976年5月リリースされた。1976年には、スタジオ録音アルバム悪事地獄 (Dirty Deeds Done Dirt Cheap)』も、まずオーストラリアだけでリリースされオーストラリア国外で英国盤1976年12月米国盤1981年3月に、それぞれ異な曲構成リリースされた。 AC/DCは、1977年アルバムロック魂 (Let There Be Rock)』と1978年の『パワーエイジ (Powerage)』でさらに成功収めた。『パワーエイジ』は、(マーク・エヴァンスに代わった)ベースクリフ・ウィリアムズデビュー作となり、よりハードなリフで『ロック魂』で打ち立てられ路線押し進めるのだった。このアルバムはハリー・ヴァンダとジョージ・ヤングプロデュースボン・スコットヴォーカルをとった最後作品であり、AC/DCアルバムとしては最も不当に低く評価されているものだといわれている。『パワーエイジ』から出た唯一のシングル盤地獄ロックン・ロール (Rock 'n' Roll Damnation)」は、それまでで最高のチャートでの動き見せて24位まで上昇したPowerage ツアー回ったスコットランド・グラスゴーのアポロ・シアターにおける演奏録音されライブ盤ギター殺人事件 (If You Want Blood You've Got It)』となったAC/DCの6目のアルバム地獄のハイウェイ (Highway To Hell)』は、ロバート・ランジのプロデュース1979年リリースされた。このアルバムは、AC/DCにとって、米国トップ100入った最初アルバムであり、最終的に17位にまで登り詰めバンドトップ・ランクのハード・ロック・アクトにまで押し上げることになった

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AC/DCのメンバーとして

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/26 14:08 UTC 版)

ブライアン・ジョンソン」の記事における「AC/DCのメンバーとして」の解説

1980年3月ジョンソンは、ロンドンへ来てAC/DCオーディション受けないかという誘い電話受けた前任者ヴォーカリストボン・スコットは、2月19日に、アルコール原因嘔吐物誤嚥起こし窒息死していたが、バンド活動継続望んでいた。オーディションジョンソンは、AC/DCの「ホール・ロッタ・ロジー (Whole Lotta Rosie)」と、アイク&ティナ・ターナーの「ナットブッシュ・シティ・リミッツ (Nutbush City Limits)」を歌った4月はじめ、ジョンソン正式にAC/DC新しヴォーカリストとして公表された。 この年7月ジョンソンフィーチャーした最初AC/DCアルバムバック・イン・ブラック』が発表された。このアルバムは、世界的な大成功収め史上有数成功収めたアルバムとなった。これに続いた1981年の『悪魔の招待状』も好調な売れ行き見せたその後バンドセルフ・プロデュースによるアルバム1983年の『征服者 (Flick of the Switch)』と1985年の『フライ・オン・ザ・ウォール (Fly on the Wall)』は、さほどの商業的成功とはならなかった。1986年の『フー・メイド・フー (Who Made Who)』はホラー映画『地獄のデビルトラック』サウンドトラックで、AC/DCを再び人気主流押し上げた1988年アルバムブロウ・アップ・ユア・ヴィデオ (Blow Up Your Video)』は、ジョンソン作詞による歌をフィーチャーしたAC/DC最後アルバムとなった1990年の『レイザーズ・エッジ以降は、ギターアンガス・ヤングマルコム・ヤング兄弟2人が、AC/DC作詞作曲全面的に担うようになったラジオインタビューで、ファンから、なぜ歌詞の提供を止めたのかと問われジョンソンは、「言葉在庫切れになっちゃって」と笑って答えレコーディング中にアルバム一枚分の歌詞を生み出さなければならないというプレッシャー楽しく思えないときもあったと説明し、『レイザーズ・エッジ』のレコーディング中にヤング兄弟作詞をやってくれたときにはほっとした、と述べた。これ以降すべてのアルバムは、すべての楽曲ヤング兄弟作詞作曲となった2008年には、ヴォーカルジョンソンに代わって10目のアルバム悪魔の氷』が発表された。 ジョンソンは、ステージでキャップ被って登場し、時々キャップを脱ぐというのが定番となっている。元々ジョンソンは、出身地であるタインサイドを象徴するものと見なされる「フラット・キャップ (ハンチング帽)」を被っていたが、時々はベースボールキャップを被ることもある。ジョンソン帽子をかぶるのは、歌っている最中カールした髪から汗が滴り落ちて目に入るのを防ぐために、弟が帽子勧めたことがきっかけだった。「弟が『そいつをかぶってみな、そしたら何をやっているのか見えるようにはなるはずだぜ!』と言ったんだ。それで、被ってみて、2番目のセットで3曲やった後、弟の方を見て親指立ててやったんだ - 『こいつはすごいぞ!』ってね。弟はそれで帽子返してもらえなくなっちまった訳だ。」 2009年7月ブライアン・ジョンソンは『Classic Rock』誌のインタビューで、引退考えることもあるという発言をした。しかし、同11月には、このコメント意図は、コンサート通して歌えないくらいになった引退したいという意味で、すぐに引退するということではないとした2010年2月ワールド・ツアー最中ジョンソンは、AC/DCセットリスト変更求め公開状書いた一部ファンについて、毒舌浴びせた。「くたばりやがれ!これまで聞いたとがないファンはどうなるんだ?糞生意気な連中がいるもんだ。今じゃコンピュータ使って、どっかの自分ちにデカケツ座り込んでいながら『あっ、連中また同じ曲を昨日の晩もやったよな、変えるのが当然だろ』と仰るキンタマでも食らいやがれ。連中は、セットの中の曲を入れ替えるのが昔と大違い大変だってこと分かっちゃいだろう。」 2016年4月AC/DC16目のアルバムに伴う、『ロック・オア・バスト ワールドツアー』において、聴力問題によりドクターストップ掛かり途中降板代役をはガンズ・アンド・ローゼズアクセル・ローズ務めた2018年夏長年悩まされていた難聴問題解決しAC/DCメンバースタジオで再会復帰したフィル・ラッドクリフ・ウィリアムズ含むメンバー17目のアルバム、「パワーアップ」のレコーディング開始した2020年11月、ニューアルバム、「パワーアップ」がリリースされ世界21カ国でチャート1位を記録新型コロナウィルス影響計画されていたワールドツアー中止となったが、アンガス・ヤングTwitterにて、コロナウィルス収束した時再び計画する、と発言するなどブライアン自身ワールドツアー参加意欲示した

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AC/DCのメンバーとして

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 00:05 UTC 版)

アンガス・ヤング」の記事における「AC/DCのメンバーとして」の解説

1973年アンガス中学校卒業と同時に、兄のマルコムそれまで活動していたブギー・バンドを脱退し12月31日アンガスと共にAC/DC結成ギターデビュー以来一貫してギブソン・SG使用している。姉からの提案により、結成当初制服姿コンサート行い以降ブレザー半ズボンランドセル背負ったスクールボーイスタイルがトレードマークとなる。 また、プレイ中は両足震わせるようにしてリズム取りつつ、天然パーマ頭を振り回したりチャック・ベリー似た、ダックウォークなどのパフォーマンスで有名で、控えめマルコム比べてステージでは常に主役になっている

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