み‐はか【▽御墓/▽陵】
読み方:みはか
「みささぎ」に同じ。
み‐ささぎ【陵】
りょう【陵】
読み方:りょう
[常用漢字] [音]リョウ(呉)(漢) [訓]みささぎ おか
2 丘の形をした大きな墓。みささぎ。「陵墓/古陵・御陵・山陵」
3 (「凌(りょう)」と通用)しのぐ。相手を踏みにじる。「陵駕(りょうが)・陵辱」
[名のり]たか
りょう【陵】
宮内庁治定陵墓の一覧
(陵 から転送)
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宮内庁治定陵墓の一覧(くないちょうじじょうりょうぼのいちらん)では、宮内庁が治定する陵墓の一覧を示す。
- ^ かつては雄略天皇陵を河内大塚山古墳(大阪府羽曳野市・松原市)に比定する説も有力視されたが、現在では後期古墳説が定着している(川内眷三 「河内大塚山古墳の研究動向と周辺域古墳群の復原」 (PDF) 『四天王寺大学紀要 第57号』 2014年、pp. 32-41)。
- ^ 「むち宮」の「むち」は「林+厂+巴」。
- ^ 『令集解』巻26(喪葬令)先皇陵条では、天皇を葬る所を陵、それ以外を墓とする。
- ^ 陵墓(国史).
- ^ a b c d 陵墓地形図集成 縮小版 2014, pp. 5–6.
- ^ a b c d e f 陵墓地形図集成 縮小版 2014, pp. 7–21.
- ^ 陵墓地形図集成 縮小版 2014, pp. 399–463.
- ^ 『発見・検証 日本の古代II 騎馬文化と古代のイノベーション』 KADOKAWA、2016年、pp. 335-336。
- ^ a b c d e 一瀬和夫「10のクエスチョンでイチからわかる古墳の基礎知識」『歴史読本 2015年1月号』KADOKAWA、2014年、p. 46。
- ^ 外池昇 『事典陵墓参考地 もうひとつの天皇陵』 吉川弘文館、2005年、pp. 49-52。
- ^ 陵墓要覧(国史).
- 1 宮内庁治定陵墓の一覧とは
- 2 宮内庁治定陵墓の一覧の概要
- 3 調査
- 4 陵墓関係事項
- 5 脚注
陵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 06:20 UTC 版)
陵(みささぎ)は、宮内庁により兵庫県加古川市加古川町大野にある日岡陵(ひのおかのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「日岡陵古墳」で、墳丘長約80メートルの前方後円墳である。 表 話 編 歴 皇后一覧 伝承の時代古墳時代(前・中期)媛蹈鞴五十鈴媛命 五十鈴依媛命 渟名底仲媛命 天豊津媛命 世襲足媛 押媛命 細媛命 欝色謎命 伊香色謎命 御間城姫 狭穂姫命 日葉酢媛命 播磨稲日大郎姫 八坂入媛命 気長足姫尊 仲姫命 磐之媛命 八田皇女 草香幡梭皇女 忍坂大中姫 中蒂姫命 草香幡梭姫皇女 難波小野王 春日大娘皇女 春日娘子 古墳時代(後期)手白香皇女(507? - 539?) 春日山田皇女(534? - 539?) 橘仲皇女(535? - 539?) 石姫皇女(540? - 572?) 広姫(575?) 額田部皇女(577? - 592) 穴穂部間人皇女(585? - 622) 飛鳥時代宝皇女(630 - 642) 間人皇女(645 - 665) 倭姫王(668 - ?) 鸕野讚良皇女(673 - 690) 奈良時代藤原安宿媛(729 - 749) 井上内親王(770 - 772) 平安時代藤原乙牟漏(783 - 790) 藤原帯子(806贈) 橘嘉智子(815 - 823) 高志内親王(823贈) 正子内親王(827 - 833) 藤原穏子(923 - 931) 藤原安子(958 - 964) 昌子内親王(967 - 973) 藤原媓子(973 - 979) 藤原遵子(982 - 1000) 藤原定子(990 - 1000) 藤原彰子(1000 - 1012) 藤原妍子(1012 - 1018) 藤原娍子(1012 - 1025) 藤原威子(1018 - 1036) 禎子内親王(1037 - 1051) 藤原嫄子(1037 - 1039) 章子内親王(1046 - 1068) 藤原寛子(1051 - 1069) 藤原歓子(1068 - 1074) 馨子内親王(1069 - 1093) 藤原賢子(1074 - 1084) 媞子内親王(1091 - 1093) 篤子内親王(1093 - 1114) 令子内親王(1107 - 1134) 藤原璋子(1118 - 1124) 藤原聖子(1130 - 1141) 藤原泰子(1134 - 1139) 藤原得子(1141 - 1149) 藤原多子(1150 - 1156) 藤原呈子(1150 - 1158) 藤原忻子(1156 - 1172) 統子内親王(1158 - 1159) 姝子内親王(1159 - 1162) 藤原育子(1162 - 1173) 平徳子(1172 - 1181) 亮子内親王(1182 - 1187) 鎌倉時代九条任子(1190 - 1200) 範子内親王(1198 - 1206) 大炊御門麗子(1205 - 1210) 昇子内親王(1208 - 1209) 九条立子(1211 - 1222) 邦子内親王(1221 - 1224) 三条有子(1223 - 1227) 近衛長子(1226 - 1229) 藤原竴子(1230 - 1233) 利子内親王(1233 - 1239) 西園寺姞子(1242 - 1246) 曦子内親王(1248 - 1251) 西園寺公子(1257 - 1259) 洞院佶子(1261 - 1272) 西園寺嬉子(1261 - 1267) 姈子内親王(1285 - 1291) 西園寺鏱子(1288 - 1298) 徳大寺忻子(1303 - 1308) 南北朝時代 南朝奨子内親王(1319) 西園寺禧子(1319 - 1333) 珣子内親王(1333 - 1337) 西園寺公重女(1372頃 - 1377以後) 北朝珣子内親王(1336 - 1337) 室町時代立后無し 安土桃山時代同上 江戸時代徳川和子(1624 - 1629) 鷹司房子(1683 - 1687) 幸子女王(1708 - 1710) 欣子内親王(1794 - 1820) 鷹司繋子(1824贈) 近代現代一条美子(1868 - 1912) 九条節子(1912 - 1926) 良子女王(1926 - 1989) 正田美智子(1989 - 2019) 小和田雅子(2019 - ) 橙色は非妻皇后を示す。 緑色は贈皇后を示す。
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陵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 08:07 UTC 版)
宮内庁は「手白香皇女衾田陵」として、奈良県天理市中山町に所在する西殿塚古墳を治定している。西殿塚古墳は、大和古墳群に属する古墳時代前期の前方後円墳であるが、年代的には整合しない。白石太一郎は、大和古墳群のなかで1基だけ比較的大規模な6世紀代の古墳、西山塚古墳が「手白香皇女衾田陵」ではないかとしている。 西山塚古墳の埴輪は、今城塚古墳同様高槻市の新池遺跡で焼成されたものといわれており、6世紀前半ころの造営で、墳丘長は115メートルの規模を有する。 このことについて白石は、継体天皇が、ヤマトの王統につながる手白香皇女の墓をヤマト王権の始祖たちの墓が並ぶ大和古墳群や柳本古墳群のなかに営むことによってみずからの王権の連続性・正統性を主張したものではないかと推測し、継体朝の成立について、これが王朝交替説の説くような王統の断絶を意味するものではないとしている。
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陵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:22 UTC 版)
『史記』によれば公陵に葬られた。『史記正義』は、『括地志』に曰くとして、その位置を雍州の咸陽県西北十四里と記す。現在の咸陽市内の2カ所に墳丘があり、そのいずれかと推定される。
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陵
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陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県奈良市山陵町にある狹木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ、位置)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「佐紀陵山古墳」で、墳丘長207メートルの前方後円墳である。 中世にはその所在を失ったが、1875年(明治8年)に治定を見て、修治を加えられたものである。
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陵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/28 05:08 UTC 版)
陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府南河内郡太子町大字太子にある磯長原陵(しながのはらのみささぎ)に治定されている。子の敏達天皇との合葬陵で、宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「太子西山古墳」で、墳丘長113メートルの前方後円墳である。 石姫皇女の崩御年は不明であるが、『日本書紀』では崇峻天皇4年(591年?)4月に石姫皇女の墓に敏達天皇が追葬されたとし、その陵号を「磯長陵」とする。『延喜式』諸陵寮では石姫皇女墓は遠墓の「磯長原墓」として記載され、河内国石川郡敏達天皇陵内の所在で、守戸3烟を毎年あてるとする。
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陵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 16:00 UTC 版)
陵(みささぎ)は、宮内庁により滋賀県米原市村居田字北屋敷にある息長陵(おきながのみささぎ、位置)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。遺跡名は「村居田古墳」。 広姫の陵について『日本書紀』に記載はないが、『延喜式』諸陵寮では遠墓の「息長墓」として記載され、近江国坂田郡の所在で、兆域は東西1町・南北1町で守戸3烟を毎年あてるとする。その後、息長墓の所在に関する所伝は失われ、後世の坂田郡内には「皇后塚」と称される古墳が数ヶ所存在した。 村居田の皇后塚(村居田古墳)は、元々は現陵でなく荒陵山光運寺境内地に存在した古墳を指した。その古墳は元禄9年(1696年)の光運寺建立の際に大部分が削平され、その際には石室・家形石棺とともに宝冠・大刀・鏡が出土したが、出土品の入った石棺は光運寺隣接地の堀居氏の庭に埋納されたという。明治7年(1874年)5月に教部省により当地が息長陵に考証され、明治8年(1875年)7月には掌丁付置が命じられたが、上述の経緯を踏まえて同年9月に遺物埋納地に円丘が築かれてそれが息長陵に定められた。そして明治10年(1877年)の兆域確定の際には、光運寺南側の皇后塚残丘は息長陵付属地と定められ、陵の参道に囲い込まれている。ただし考古学的には、この皇后塚は古墳時代中期の5世紀代の築造と見られ、広姫の墓とするには否定的な見解が強い。
※この「陵」の解説は、「広姫」の解説の一部です。
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陵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 14:52 UTC 版)
陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県葛城市北花内にある埴口丘陵(はにぐちのおかのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「北花内大塚古墳」で、墳丘長90メートルの前方後円墳である。 陵について『日本書紀』では「葛城埴口丘陵」、『延喜式』諸陵式では「埴口墓」と記載される。『日本書紀』では「陵」と表記し、「墓」ではないことが注意される。
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陵
陵
陵
「 陵」の例文・使い方・用例・文例
- 丘陵地帯
- ヨークシャー丘陵
- 飛行機から見ると、小さな丘陵は平地のように見える。
- 起伏して続く丘陵地帯.
- ゆるやかに起伏する丘陵を歩く.
- 低木林や岩山の丘陵斜面などにすむムチヘビ類の一種
- 米国西部産で、砂漠、丘陵地帯のそばにある岩場、浜辺などで、低木の根の間や岩の下に穴を掘り潜む
- コッツウォルド丘陵原産の長い羊毛を持つ羊
- 荒野や丘陵地帯に大ざっぱに切り開かれた、小道や跡
- タミール語によく似たドラビダ語でインド南西部の丘陵地帯で使われる
- レバノン南部とシリア南部の軍備強化された丘陵地帯
- イングランド南西部の低い丘陵地域
- ブリテン島の丘陵地帯で、北部のスコットランド国境から南部のトレント川にかけて広がるところ
- イングランド南西部の丘陵地にある州
- (丘陵地にある)開けた川谷
- その谷は二つの丘陵の間にあった
- インド南部のニルギリ丘陵に住むドラヴィダ族
- 南インドのニルギリ丘陵に住む農耕民族の一員
- コースト・ライブ・オークに似ているが、海岸から移され主に山岳地帯の丘陵で見られる、北アメリカ西部の小型の低木状の常緑樹
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