陀々堂の鬼はしりとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 文化 > 文化財選集 > 陀々堂の鬼はしりの意味・解説 

陀々堂の鬼はしり

名称: 陀々堂の鬼はしり
ふりがな だだどうのおにはしり
種別1: 風俗習慣
保護団体名: 念仏寺鬼はしり保存会
指定年月日 1995.12.26(平成7.12.26)
都道府県(列記): 奈良県
市区町村(列記): 五條市大津町
代表都道府県 奈良県
備考 公開日毎年1月14日
解説文: わが国各地には年頭当たって鬼を追い除災招福を祈る行事残っている。鬼祭などとよばれるこの行事は、鬼の逃げ回ることを強調して鬼はしりなどともよばれる。鬼に災厄一切仮託しこれを追って厄を払う風習は、追儺【ついな】や修正会等の行事伴って行われることが多い。このなかで、鬼が追われる対象ではなく幸いをもたらす役割を担う例もみられる大分県国東半島修正鬼会の鬼などはその代表的なものであるが、奈良県五條市大津【おおづ】町の念仏寺行われる陀々堂だだどう】の鬼はしり行事の鬼もその一つである。
 念仏寺平安時代末期東大寺領豊井庄の一部として登場する坂合部【さかいべ】郷一二の郷寺といわれ、郷内の諸寺院本山格を務めていたが、現在は真言宗属す無住寺院となっている。この地域支配した土豪坂合部氏は、天正二年(一五七四高野山衆徒攻撃受けて没落するが、その末裔代々念仏寺別当務めてきた。
 坂合部郷一二は、近世には中【なか】大野【おおの】村・山陰【やまかげ村・田殿【たどの】・大深【おおぶか】黒駒【くろま】・表野【ひようの】大津【おおづ】火打【ひうち】犬飼【いぬがい】村・上野【こうづけ相谷【あいたに】として独立となった。しかし、吉野川隔てた河北河南のこれらの々は、中世後期から坂合部山という広大な共有地持っており、近世以降実質的にはこの山を中心に郷という共同体維持してきたのである。陀々堂の鬼はしりはこの坂合部郷一二に、明治二十二年から坂合部新田辻【かしつじ】加わり一四地区の約六〇〇戸が維持運営する行事である。なお、坂合部郷の共有山は現在約五〇〇町歩あり、昭和三十二年から財団法人坂合部自治会組織して管理している。
 行事一四地区の代表と財団法人坂合部自治会、坂合部郷中代表などからなる総代会と、鬼はしり諸役務め実質的にこれを執行する保存会によって行われる鬼はしり諸役は、本役などとよばれる鬼役三名カッテ火手)役一名スケ(助)役四名、カワセ五名、貝吹き二名太鼓打ち一名、棒打ち三名鉦打ち一名からなる。鬼は赤鬼面をつけ右手に斧を持った父鬼と、青鬼面をつけ捻木持った母鬼、赤鬼面をつけ持った子鬼である。ほかに屋外柴灯護摩焚く行者がおり、これは郷外から依頼している。
 一月八日三人鬼役別火精進に入る。かつては念仏寺境内にあった籠堂に籠ったが、現在は朝の水垢離一緒に取るほかはそれぞれ自宅精進潔斎する。精進内容水垢離をとり別火し、精進料理で過ごすことである。この間女手避け、人にものを貰ってはならず、人が口を付けた料理などは一切食べないことが守られる。これは、鬼は阿弥陀様の使い羅漢様であり最高のものだから人に後れをとることはしないのだという。
 十二日、鬼役一人当屋となり、他の鬼役カッテ役を招いて昼食夜食振る舞う。これも精進料理であり女手避け自分作るカッテ役はこの日から精進潔斎に入る。この日の午後カンジョウリという紙縒【こより】を作る。これは鬼はしり当日、各鬼の両手両足それぞれ四か所ずつ、計一六所を縛るものである。またこの日、鬼役カッテ役が中心となり、朝から念仏寺集まって鬼はしり準備をする。これは、鬼の井戸への道作り、鬼の井戸井戸替え松明の製作などである。鬼の井戸以前吉野川近接してあったが、洪水遭い現在では念仏寺境内一隅移されている。松明鬼役三本カッテ役用一本迎え松明一本の計五本を、それぞれの役に当たった家で作る松明長さ六〇センチ太さ四、五センチほどのの角板を輪に並べ底面直径三〇センチ口径五〇センチほどの筒を作り、これに紙を巻いた藁縄二重にして五か所結んで止め燃焼部分として小割にした肥松差し込んだ総高一・一メートル重さ約六〇キロほどのものである。この肥松同士ハナワという親指大の太さ紙縒で輪に結ぶ。松明本体四年目ごとに作り替え肥松毎年新調される。なお、迎え松明直径一五センチほどに細く作りカッテ役用の松明は鬼用の松明よりやや小さめ作られる
 この日から西金寺さいごんじ】の住職によって念仏寺修正会法要始められる
 十四日午後一時頃より西金寺住職導師として旧坂合部郷内降霊寺【ぶりようじ】・転法輪寺てんぽうりんじ】・生蓮寺【しようれんじ】・吉祥寺【きつしようじ】の住職と、郷内檀家をもつ野原金剛寺こんごうじ】の住職加わり大般若経〇〇巻の転読が行われる。この間本尊の裏側で鬼役衣装整える。転読終了すると昼の鬼はしりが行われ、同時に本尊背後板壁を棒で叩く阿弥陀さんの肩叩きが行われる。
風俗習慣のほかの用語一覧
年中行事:  酒津のトンドウ  野沢温泉の道祖神祭り  阿月の神明祭  陀々堂の鬼はしり  青海の竹のからかい  鳥羽の火祭り
生産・生業:  佐渡の車田植

陀々堂の鬼はしり

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/08 01:48 UTC 版)

陀々堂の鬼はしり(だだどうのおにはしり)とは奈良県五條市大津町の念仏寺(ねんぶつじ)において室町時代から毎年1月14日1957年〈昭和32年〉までは旧暦1月14日[1])に行われている修正会結願の行事である。1995年(平成7年)に国の重要無形民俗文化財に指定された。

鬼走りというのは、宮中年中行事である追儺模倣した悪鬼疫病を払う儀式で各地に多く残されているが、陀々堂の鬼はしり行事のは、追い払われる対象となる悪い鬼ではなく、阿弥陀如来に仕え災厄を除き福をもたらす善い鬼とされている。

歴史

念仏寺陀々堂

念仏寺は土地の豪族坂合部氏阪合部阪合部村の語源)の氏寺として鎌倉時代に創建されたといわれ、阪合部郷12か村の郷寺であったが[2]、現在は真言宗に属する無住寺院となっている。境内には茅葺屋根本堂阿弥陀堂)があるだけでこの堂を陀々堂(だだどう)と呼んでいるが、これは、松明をかざして飛び散る火の粉で身を浄め災いを焼き払う達陀(だったん)の秘法を行う堂からの命名であるとされる[3]

この寺の達陀の行法は室町時代中期に領主坂合部是房の弟頼澄別当東大寺二月堂修二会にならって始めたもので、毎年1月14日の修正会結願に鬼走り行法を創始し厄除福授を願ったものと伝えられ、以来500年以上の間一度も欠けることなく行われてきた行事である[3]。行事で使われていた鬼面の文明18年(1486年)の墨書銘や、明応5年(1496年)の『坂合部郷定書』からも、15世紀には鬼面を用いた行事が成立していたことがわかる[4]。また、安永2年(1773年)の『大津村村鑑(むらかがみ)明細帳』には現在と変わらない鬼はしり行事の所作が記されている[5]

事前準備

阪合部郷とは近世以降は中村・大野村・山陰村・田殿村・大深村・黒駒村・表野村・大津村・火打村・犬飼村・上野村・相谷村となる12か村の総称で、1889年(明治22年)からはそれに阪合部新田と樫辻村が加わる。陀々堂の鬼はしりはこの阪合部郷14地区により維持運営されてきた。儀式は14地区の代表や阪合部自治会などからなる総代会と、鬼はしりの諸役を務め実質的にこれを執行する「念仏寺鬼はしり保存会」によって行われる[2]

鬼役は特定の家ではないが一度引き受けると翌年以降も毎年勤めるようになるらしい。鬼が持つ松明の重量は60kgもあるので若くて力の強いものに順次譲られていく。鬼役3人は1月8日から水垢離をして別火の精進生活を1週間続ける。昔はその間を境内にあった籠堂で過ごしたというが現在は各家で行っている[6]。行事の不備は精進が足りなかったことを意味するため、その間の生活は徹底している。ベテランの鬼役でさえ「手がちぎれても松明は離さん覚悟だが、精神統一のため毎日納得するまで水を浴びる」と話す[5]

12日からは火天(かって)役も精進潔斎に入る[2]。この日は鬼役が中心になり行事の準備をする。鬼の井戸へ行く道作りをし、鬼の体につける紙縒(コヨリ)づくり、さらに大仕事の松明づくりをする。松明の台は長さ80cmほどのヒノキの木片をを作るように囲む。その中に50cmほどの松根をさし込み燃えやすいようにホダ(乾燥した小枝)やヘギ(薄く剥いだ板)を混ぜておく。台のまわり5か所を細縄に白紙をまいたハナミナワで桶のたがを締めるように締めつける。松明を持つ部分もこれで作りくくりつける。鬼が持つ松明は長さ1.2m、直径70cm、重量60kg。これを3つとやや小さめの火天役用を1つ、そして直径15cmほどの迎え松明1つの計5本を作る。松根は毎年取り替えるが、本体の台部分は3・4年ぐらいで新調する[6][2]

鬼走りの盛り上がりは松明の燃え具合にかかっている。樹脂が多くて燃えやすい松根は1月5日頃に採掘する。以前は念仏寺の保安林の松を使用していたが、近年は山に松が植えられていない上に松くい虫の被害もあり良質の松根を確保するのが困難になっている[6][5]

行事当日

鬼走りに奉仕するのは勧行僧の他、鬼役3名、火天(かって)1名、佐(すけ)4名、水天(かわせ)5名、吹き2名、太鼓打ち1名、棒打ち3名、打ち1名など[7][2]

3匹の鬼は、を持つ赤い鬼が父鬼、捻木を持つ青い鬼が母鬼、を持つ茶色の鬼が子鬼で、それぞれの鬼面とそれぞれの色の法衣を着、手甲脚絆に草鞋履きといったいでたちで、その装束の上の足、腕、肩など16か所に観世縒(カンジョウリ)という紙縒を結び付けている[8][7]。この鬼の面が立派で、室町時代の文明18年(1486年)の墨書きがあるカヤ[9]の一木作りの3面ともほぼ同じ大きさの重量4.5kgほどのものだが、現在この面は文化財として保存されており、行事で実際に使われているのは1960年(昭和35年)[10]に太田古朴に依頼して作られたヒノキ材一木作りの鬼面である[11]

14日は午後から大般若経の転読法要が行われ昼の鬼走りが始まる。鬼は松明を持つが昼は点火されない。同時に本堂の内陣須弥壇裏の松の板壁を1mほどの長さの樫の棒2本でリズムをつけて叩く「阿弥陀さんの肩叩き」と呼ばれる棒打ちが行われる[12]

夜になると護摩が焚かれ夜の鬼走りとなる。迎えの小松明を先頭に鬼の入堂、読経が始まり、法螺貝太鼓とともに棒打ちの音が堂内に響きわたる中、火天(かって)役による「火伏せの行」となる。堂の奥からエビ茶色の法被姿の火天が燃えさかる松明を肩に登場し、お堂の正面に立つと松明を振り上げ「水」の字を書くように振り回す。火の粉が飛び散り、水天(かわせ)役が手に持つ桶から笹竹で水をすくい、火天にかけて火をはらったり床に落ちた火の粉を消してまわる。堂を3回まわって行は終わり堂内はしばし静まる[8][13]

そのうちヒノキの生葉をいぶした厚い煙の雲が堂内に立ちこめ[5]煙の中から棒打ちの音、法螺や太鼓の響く中、行事を取り仕切る差配(さはい)の指示でいよいよ最初の一番松明に点火、松明は佐(すけ)役の肩に担がれ父鬼とともに登場、鬼は一の戸口(北側)で松明を受けとると正面に来て左膝の上に置き、右手の斧を高く上げて見得を切る。続いて母鬼が二番松明で登場、鬼は二の戸口(中央)、三の戸口(南側)へと渡っていく。三番松明で子鬼が北の戸口に登場するときには父鬼は南の戸口、母鬼は中央の戸口と3つの松明が並びそれぞれが大きく見得を切る。松明は南の戸口から佐役により須弥壇裏を廻って再び北側に渡り、鬼たちの同じ所作が3周繰り返される[14][15]

堂内での火祭りは例が少なく初めて見る人はそのスケールの大きさに驚く。松明の炎は木造の堂の軒先をなめるように広がり、「火伏せの行」と同じく水天役が火の粉を消してまわる。これだけの火を集めるのだから神経を使うがこれまで火災になったことはない。阿弥陀さんの御加護だと地元の人たちは語る[16]

昔は3つの松明の燃え方でその年のの出来具合を占ったという。一番松明が早稲(ワセ)、二番松明が中稲(ナカテ)、三番松明が晩稲(オクテ)と定め、一番よく燃えたものがその年の豊作をもたらすといわれていた[16]

鬼たちが堂内を3周すると、横出口から境内の右隅にある水天井戸に礼参りに行き松明を水に沈めて火を消す。行事はこれで終わりとなるが、鬼が体に結び付けている紙縒(観世縒)が禍除けになるというので、見物に来ている人たちがこの時に鬼の周りに殺到し奪いあいとなる[16][17]

日時

  • 12月22日 - 松明の根掘り[18]
  • 1月5日 - 保存会総会(役員決定)[18]
  • 1月8日 - 鬼役別火入り・水垢離精進潔斎[18]
  • 1月12日 - 当番町の御供餅作り、水天井戸清掃、松明・コヨリ作り、修正会の法要[18]
  • 1月13日 - 柴灯護摩準備、焚火場作り、境内清掃、テント設営[18]
  • 1月14日 - 修正会結願[19]
    • 午後1時 - 五人の僧による大般若経転読[2]
    • 午後4時 - 昼の鬼はしり(松明無灯火)
    • 午後4時15分 - 子ども鬼はしり[18]
    • 午後4時30分 - 福餅まき
    • 午後7時 - 息災護摩供(堂内)
    • 午後7時30分 - 柴灯護摩供(境内)
    • 午後9時 - 鬼はしり(午後9時30分終了)

位置

  • 奈良県五條市大津町127 念仏寺

交通

鬼面

1960年(昭和35年)まで行事に使われていた鬼面は15世紀製作の貴重なもので、本尊阿弥陀如来の面と伝わる無銘の鬼面を含めた4面が、「陀々堂の鬼面」として奈良県指定有形民俗文化財(2015年〈平成27年〉3月27日指定)となっている[24]

鬼面詳細[25]
父鬼面(赤鬼)
材質 榧(カヤ)
法量 長さ 60センチメートル
42.5センチメートル
高さ 26センチメートル
重さ 4.5キログラム
形状 阿形で二本角。毛髪部は胡粉地銀泥塗
墨書銘 「別当頼澄僧都/山陰 右衛次郎/文明十八年丙午」
母鬼面(青鬼)
材質 榧(カヤ)
法量 長さ 51.5センチメートル
38センチメートル
高さ 26センチメートル
重さ 4.5キログラム
形状 吽形で一本角
墨書銘 「権大僧都頼澄別当/作者右兵衛次郎/文明十八年丙午十二月 日」
子鬼面(茶鬼)
材質 榧(カヤ)
法量 長さ 47.5センチメートル
35.5センチメートル
高さ 21センチメートル
重さ 3.2キログラム
形状 阿形で二本角
墨書銘 「□大僧都頼澄別当/作者右兵衛二郎山陰/文明十八年丙午十二月 日」

脚注

  1. ^ #奈良県教育委員会 2009年 p. 35
  2. ^ a b c d e f 陀々堂の鬼はしり - 国指定文化財等データベース(weblio辞書・2012年10月26日閲覧)
  3. ^ a b c #高田 1991年 p. 18
  4. ^ #『大和の祭りと芸能』 2016年 p. 35
  5. ^ a b c d #奈良新聞社 1996年 pp. 16 f.
  6. ^ a b c #高田 1991年 p. 23
  7. ^ a b #田中 2009年 p. 18
  8. ^ a b #高田 1991年 p. 19
  9. ^ #奈良県教育委員会 2009年 p. 41 による(参考文献#高田 1991年では「カツラ材」と記載)。
  10. ^ #奈良県教育委員会 2009年 p. 37
  11. ^ #高田 1991年 pp. 23 f.
  12. ^ #田中 2009年 pp. 18 f.
  13. ^ #田中 2009年 p. 19
  14. ^ #高田 1991年 pp. 19-22.
  15. ^ #田中 2009年 pp. 19 f.
  16. ^ a b c #高田 1991年 p. 22
  17. ^ #田中 2009年 p. 20
  18. ^ a b c d e f #奈良県教育委員会 2009年 p. 36
  19. ^ a b #五條市ウェブサイト(観光情報)(2012年10月26日閲覧)より
  20. ^ 五條地域の公共交通(五條市ウェブサイト・2012年10月26日閲覧)
  21. ^ #田中 2009年 p. 18では奈良交通バスとなっているが、このバス路線は廃止されている。
  22. ^ #五條市ウェブサイト(観光情報)(2012年10月26日閲覧)に帰り最終列車情報有り
  23. ^ #高田 1991年 p. 15
  24. ^ #五條市ウェブサイト(陀々堂の鬼面)(2018年3月5日閲覧)より
  25. ^ #奈良県教育委員会 2009年 p. 41

参考文献

  • 高田健一郎 『大和の祭り』 向陽書房、平成3年(1991年)10月16日。ISBN 4-906108-19-9
  • 奈良新聞社編 『大和の神々』 奈良新聞社、1996年11月30日。ISBN 4-88856-015-3
  • 奈良県教育委員会編 『奈良県の祭り・行事』 奈良県教育委員会、平成21年(2009年)3月31日。
  • 田中眞人 『奈良大和路の年中行事』 淡交社、2009年10月10日。ISBN 978-4-473-03597-4
  • 『大和の祭りと芸能 -奈良県無形民俗文化財ガイドブック-』 奈良の文化遺産を生かした総合地域活性化事業実行委員会、平成28年(2016年)3月31日。

関連項目

外部リンク

座標: 北緯34度19分45.9秒 東経135度40分15.2秒



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「陀々堂の鬼はしり」の関連用語

陀々堂の鬼はしりのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



陀々堂の鬼はしりのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
文化庁文化庁
Copyright © 2025 The Agency for Cultural Affairs. All rights reserved.
文化庁文化庁
Copyright (c) 1997-2025 The Agency for Cultural Affairs, All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの陀々堂の鬼はしり (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS