職歴・研究歴ほか
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/09 17:03 UTC 版)
1927年(昭和2年)3月、NHK名古屋中央放送局 (JOCK) 放送課に入る。 1929年(昭和4年)、明治大学予科講師となる。この頃からフランス語学の本格的研究に志す。「わたしはこれからはフランス語学の研究に打ち込むつもりでいたので、そのことを辰野さんに話した。すると、君は折角フランス文学という宝の山に分け入ったのに、その宝を捜し出すこともしないで、そんなことをするのかね、と辰野さんはいかにも憐れむように言われた。〔中略〕何よりもかによりも、フランス語をできるだけ科学的に研究しなければならない、と思い立っていたのである。したがって、辰野さんからフランス文学研究の敗残兵か、脱走兵のように言われても、志を変える気にはなれなかった」。 1932年(昭和7年)、明治大学予科教授となる。 1933年(昭和8年)11月6日、宮城ユリコと結婚。長男・新太郎、次男・龍二郎、長女・夏子をもうける。 1935年(昭和10年)、このころから柳田國男が主宰する「木曜会」に参加し、方言・地名に興味を持つ。 1945年(昭和20年)、戦争激化により愛媛県吉田町に家族とともに疎開。方言調査を活発に行う。 1947年(昭和22年)、文部省に入省、科学教育局事務官になる。フランス政府より教育功労章を授与される。この年、埼玉県北葛飾郡富多村(現・春日部市)に移転。江戸川・利根川の渡しを使い、長塚節『土』の世界を度々訪ねる。 1948年(昭和23年)、フランス語学専攻では初の文学博士の学位を取得。論文名は『フランス語接続法の若干の用法に就いて』。※著作※ 1949年(昭和24年)、明治大学文学部教授に就任するが、1947年10月以来の『スタンダード佛和辞典』の編纂に専念するため、1年で退職。 1950年(昭和25年)、東京都中野区本町通6丁目(現・中野区中央に移転。 1951年(昭和26年)、三宅徳嘉・家島光一郎・田島讓治・田島宏などとともに「フランス語學研究會」を設立。機関誌『フランス語研究』の編集にあたる。 1952年(昭和27年)、「フランス語學研究會」が「フランス語学会」、ついで「日本フランス語学会」に改組。辰野隆会長(重任)の下で、林和夫とともに副会長を務める。 1954年(昭和29年)、東京教育大学文学部教授に就任する。仏語仏文学第2講座を担当(第1講座担当は河盛好蔵)。第2講座は、フランス語学の攻究を目的とし日本で唯一の講座であった。大学院の講義題目は「フランス語における否定の研究」。(なお、この前後、中央大学、愛知大学などに非常勤講師として出講)。「三十年余りフランス語と親しんで来たわたしの心の中には、外国と日本が、外国のことばと日本のことばが不思議なまじり方をして生きている。〔中略〕わたしからことばの興味をとってしまうことは、わたしのいのちを絶つようなものである。これからも生きている間はことばのことを考えているであろう」。 1955年(昭和30年)、このころより1982年(昭和57年)ごろまで『民間伝承』誌に寄稿を続ける。 1957年(昭和32年)、鈴木信太郎ほかとの共著『スタンダード佛和辞典』※著作※(大修館書店)刊行。当初から、編集・執筆の基幹的存在であった。十年の歳月を費やして成った本辞典は、以後フランス語の普及とフランス語研究の飛躍的発展のために計り知れない貢献を果たす。 1960年(昭和35年)、東京都武蔵野市緑町3丁目に転居。 1962年(昭和37年)、「日本フランス語学会」が「日本フランス文学会」と合併して「日本フランス語フランス文学会」(会長・鈴木信太郎)となり、佐藤輝夫とともに副会長に選ばれる。 1963年(昭和38年)、東京教育大学文学部長に選出される。2年間、筑波移転問題の渦中にあった。「のらりくらりやっておればよかったのかもしれないが、そういうことはわたしの性格に合わなかった」。 1966年(昭和41年)、愛知県立大学外国語学部の創設に参画し、外国語学部(同第2部)学部長に就任、英米・フランス・スペインの3学科の充実に尽力する。 1970年(昭和45年)、愛知県立大学を退職。愛知県立芸術大学美術学部教授になる。 1971年(昭和46年)夏、ユリコ夫人とともに、初のフランス滞在。女婿ジャン・ショレー(Jean Cholley)の兄・ルネの別荘(ヴィシー近郊のアリエ県オートリーヴ)を足場に、ルネのクレルモンフェランの自宅近くのピュイ・ド・ドーム山などを訪れる。また、バス旅行でパリはもとより、サン・マロ、モンサンミッシェルなど北フランスを周遊する。「一瞬に若きルッソオ顕ち来たるシャンベリーへの道の標示(しるべ)に」。 1974年(昭和49年)、愛知県立芸術大学を定年退職。以後、東京都武蔵野市緑町の自宅で研究に専念。『民間伝承』『日本語』『流域』『ももんが』『たかむら』など、諸誌への執筆・寄稿を続ける。勲三等に叙され、旭日中綬章を授けられる。 1983年(昭和58年)、ユリコ夫人と共に2度目のフランス旅行。前回同様、ルネ・ショレーの別荘に滞在した。パリを再訪し、またリヨン、そしてジャンと夏子夫妻がリヨンの西クラポーヌに建てた家を訪れる。バス旅行でニース、カンヌなど南フランス、モナコを周遊。さらに、バーゼルなどスイスも旅する。 1999年(平成11年)、最後の出版物『歌集 遠茜』(百合子夫人と共著)上梓。表題は「妻がつけたものである。〔中略〕二人が結婚して既に六十六年が経った」。「不利なりと知りつついちずに通す夫(つま)神は愛(め)ずるか九十五(くじゅうご)を生く」(百合子)。 2001年(平成13年)、脳梗塞のため武蔵野市西窪病院で死去。享年97。没後、正四位を贈られる。墓所は青梅市光華園墓地。多数の未定稿とともに、1万枚におよぶカードが手つかずのまま遺された。
※この「職歴・研究歴ほか」の解説は、「中平解」の解説の一部です。
「職歴・研究歴ほか」を含む「中平解」の記事については、「中平解」の概要を参照ください。
- 職歴・研究歴ほかのページへのリンク