翼賛選挙非推薦での当選
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:48 UTC 版)
第2次近衛内閣は1941年(昭和16年)1月の閣議で衆議院議員定数を400に削減し、原則一府県一区の大選挙区制、選挙権を男子戸主のみとし、自由立候補制に替わり推薦立候補制とする内容の選挙法改正案を決定した。しかしこの選挙法改正を実現するには、これまでの男子普通選挙に替わる戸主のみの選挙人名簿を新たに作成する事務が生じるが、これを選挙予定期日までに間に合わせることが困難であり、また第76帝国議会で政府の施政方針演説への質問を取りやめるなど、議会側が政府に協力する姿勢を見せたため、結局選挙法改正案の議会提出は見送られ、国際情勢などから任期満了総選挙を一年延長する、議員任期延長法案が可決された。 1941年(昭和16年)12月8日、日米戦争勃発。直後の12月9日には、衆議院議員の任期切れとなる1942年(昭和17年)4月に、内務省が行政措置として候補者推薦を行った上で予定通り総選挙を断行するとの報道がなされた。1942年2月18日、「大東亜戦争完遂翼賛選挙貫徹運動基本要綱」が閣議決定される。来る総選挙は大東亜戦争の完遂のため、翼賛議会を確立して政治体制を強化させ、国民の政治的意欲を昂揚を図り、更に対外的には日本国内の政治的な一体性を示すものとされた。要綱では建前上候補者推薦については政府の行政措置に拠ることなく国民が自主的に行うものとし、政府、翼賛会などの役割はその支援を行うものとされたが、実際は政府が音頭を取って2月23日、元首相の阿部信行を会長として候補者推薦母体となる政事結社の翼賛政治体制協議会(翼協)が結成され、翼協が候補者推薦を行うという事実上の官製選挙となった。 総選挙での候補者推薦についてはまず道府県ごとの各支部で推薦候補者を決定し、各支部の申請について本部の選考委員会で審査の上で最終決定することになった。候補者推薦については、旧既成政党に所属していた政治家などを一掃し、現職を排除して新人中心とする動きが見られたが、翼賛議員同盟側が激しい巻き返し運動を行った結果、最終的には基本的に現職優位の推薦となった。徳島県では脇町町長、県会議員の大久保義夫が翼協の支部長に就任し、支部長以下16名の翼協支部委員が総選挙での徳島県の翼協推薦者選考を行った。3月30日、支部は徳島2区については現職の秋田清の他、藍商として著名な三木与吉郎、ベテラン県議の三木熊二の二名の新人を推薦候補として翼協本部に内申した。本部の選考委員会でも徳島県支部の内申通り、秋田清、三木与吉郎、三木熊二の三名を推薦候補とすることが決定され、翼賛政治体制協議会推薦候補として立候補することとなった。三木武夫本人は翼協から推薦を受けることを望んでいたが推薦を受けられなかったため、もう一人の徳島2区の現職議員の真鍋勝とともに翼協非推薦での立候補となった。 三木がなぜ翼協の推薦を得られなかったのかについては、三木の当選後、翼協徳島県支部長から三木に対し「徳島2区は定員3であるため、推薦は3人が限度であった。翼協徳島県支部委員の賛否によって推薦者を決定したが、不幸にして貴殿は選に漏れた」。との内容の書状を受け取っている。しかし三木は翼賛選挙前の2月に警視庁が現職衆議院議員全員について作成した衆議院議員調査票で当選確実とされ、更に国策にとって望ましい人物であるかどうかについての区分では、「積極的な活動は無いものの、時局に順応し、国策を支持し反政府的な言動が見られない」乙種とされていた。ちなみに徳島二区で翼協推薦となった秋田清は当選確実である上に「時局に即応し率先垂範し国策遂行のため他を指導しており代議士にふさわしい」甲種とされ、三木と同じく非推薦となった真鍋勝は当落不明とされ、更に「時局認識が薄く、旧態を墨守し、常に反国家、反政府的な言動を行うか、思想的に代議士にふさわしくない」丙種とされた。甲種の秋田清の推薦と、丙種である上に所属議員の多くが非推薦となった興亜議員同盟に所属していた真鍋勝の非推薦については了解しやすいが、6割以上が翼協推薦された乙種であり、当選確実とも見なされており、更に所属議員の多くが推薦された翼賛議員同盟に所属していた三木は推薦されても不思議ではなく、なぜ非推薦となったのかははっきりとしない。 しかも三木の場合、推薦候補に同姓の三木与吉郎、三木熊二が推薦候補とされた。これは当選確実とされた三木武夫の票の分散を狙ったものとも考えられ、このことから翼協支部では三木武夫の当選を望まない動きがあったと推察する説もある。また翼協推薦について、当初の新人優先から現職の巻き返しという動きの中で、最終的に翼賛議員同盟に所属していた100名の現職議員が推薦を得られなかった事実から、巻き返しが三木まで及ばなかった可能性もある。また三木の非推薦は、初当選時に政友会、民政党という既成政党を厳しく批判していたことが影響したとの説もある。翼協には旧政党関係者が多数参加しており、既成政党を厳しく批判して当選した三木のことを快く思っていなかった人たちは少なくなかった。そして衆議院議長、閣僚を経験し、徳島の政界で強い実力を持つ秋田清の働きかけも想定できる。秋田は若く実力を蓄えつつあった三木を非推薦とし、落選させることによって、自らのライバルを潰そうともくろんだのである。 三木本人は自らの翼協非推薦について、徳島二区有権者に向けた選挙パンフレットの中でまず欧米遊学、米国留学という経歴から、三木は米欧の思想かぶれであると邪推され、思想的に不純な者であると貶めようとする動きがあったため、更にまだ政治家経験の浅い三木は、翼協支部の16名の委員のうち4、5名以外のことはよく知らず、中には一回も会ったことが無い方もいたためではないかと推測した。つまり親英米派と見られたことと、政治家としてまだ経験が浅い点が非推薦の原因と見ていた。 当選1回と政治キャリアがまだ浅い三木が非推薦になったことは、強い逆風下で選挙戦を戦わねばならなくなったことを意味した。三木は先述の選挙パンフレットの中で、第21回衆議院議員総選挙は真に国家のことを思い、翼賛議会の建設に熱意を持つか否かを候補者選択の基準とすべき選挙であると主張し、翼協の非推薦だからといってその熱意を持たないと思われるのは心外であるとし、「子が母の愛にすがり訴えるがごとき心情の下」自らの証を立て、疑念を晴らしたいと訴えた。更に第一期の任期中は議会活動に邁進し、愛国の熱情と赤誠を捧げてきたとした。初回選挙時に見られた既成政党と政治腐敗批判は影を潜め、自らの立場の弁明を主としたパンフレットの内容からも三木が翼賛選挙で苦境に追い込まれたことが伺える。また同パンフレットの中で、同僚政治家からの推薦人として清瀬一郎、桜内幸雄、中島知久平、町田忠治、松野鶴平らが名を連ねるとともに、頭山満も三木を人格識見卓越し、とりわけ思想精神上立派な人物であると称え、政治家として得がたい人物であるとして三木への投票を依頼していた。 選挙戦に突入すると、非推薦候補である三木に対して選挙事務所に警官の出入りや特高の監視が行われ、運動員には尾行がつき、三木の演説会に参加した有権者は警察から出頭を命じられ、東京から三木の応援に駆けつけた石田博英に対しては道中私服の警官に付き纏われるなどの選挙干渉に見舞われた。また三木の選挙戦について地元紙の徳島毎日新聞はほとんど報じることがなかった。そして対立候補からは三木は米国で勉強してきた国賊であると指弾されもした。このような厳しい情勢下、三木は徳島2区の全域で議会報告演説会を開いて有権者と膝づめの対話を繰り返し、山間部では支援者の家に泊り、戦死者家族の弔問を行うなど、約一ヶ月間の期間中、地域に密着した選挙戦を徹底的に行った。また前回と同じく吉村正、石田博英、玉川学園創始者の小原国芳らを東京から応援弁士として招き、妻睦子の実家である森家と繋がりがある海軍少将、陸軍大佐なども三木の応援に駆けつけた。 また、三木が頼りとしたのはやはり得意の弁論であった。戦時下の翼賛選挙では、各候補が訴える政策は聖戦完遂、大東亜共栄圏の確立、翼賛議会の確立など、どうしても同じような内容となってしまっていた。そのような中で三木は聖戦完遂など他候補と同様の訴えとともに、選挙区内の問題に対してこれまでいかに熱心に取り組んできたのかを説明し、他の候補との差別化を図った。 4月30日の総選挙で、三木は厳しい逆風下の選挙であったにもかかわらず、地盤である板野郡、隣接する阿波郡を手堅くまとめ、更には秋田清の地盤である三好郡でも票を伸ばし、秋田清、三木与吉郎に次いで三位に滑り込み当選を果たした。これまで徳島2区では秋田清のみが地盤である郡以外でも一定の支持を集めていたが、若年層を中心とする支持を伸ばした三木もまた、地元板野郡以外の支持層を広げることに成功した。翼賛選挙において翼協非推薦候補の当選率はわずか13.8パーセントに過ぎず、三木は苦しい選挙戦を、地域に密着した選挙活動を中心とすることによって勝ち抜き、政治生命の危機を乗り越えた。そしてこの翼賛選挙非推薦での当選は戦後、三木の勲章となっていく。
※この「翼賛選挙非推薦での当選」の解説は、「三木武夫」の解説の一部です。
「翼賛選挙非推薦での当選」を含む「三木武夫」の記事については、「三木武夫」の概要を参照ください。
- 翼賛選挙非推薦での当選のページへのリンク