翼賛選挙後の三木
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翼賛選挙が終了すると、東條内閣は同交会、興亜議員同盟、そして翼賛議員同盟も解散させ、1942年5月20日に三木ら翼協非推薦議員も参加した唯一の政治結社、翼賛政治会が結成される。翼賛政治会は翼協会長の阿部信行が総裁となり、刑事訴追中の8名以外、全ての衆議院議員が加入した。三木は翼賛政治会政務調査会の大蔵委員会幹事となり、また翼賛政治会所属の2、3回当選議員で構成された、翼賛政治会の機構改革や政治力強化運動を活発に行っていた三十日会、そして経済問題について勉強し、翼賛政治会を通じて政府に政策提言することを目的に結成された経済議員連盟に所属し、活動を行った。 また、6月に官民一体の総力戦体制を構築するために、貴族院議員80名、衆議院議員244名、民間人50名が内閣と各省の委員となったが、三木は赤城宗徳、安倍寛らとともに商工省委員となった。1943年(昭和18年)11月からは商工省から改組された軍需省委員を引き続き務め、1944年(昭和19年)6月には各省の委員制は廃止となるが、1945年(昭和20年)5月15日、鈴木貫太郎内閣において軍需参与官に任命された。 三木は1943年2月、第81帝国議会において、大東亜共栄圏で計画交易を管轄する団体である交易営団に関する「交易営団法案」について、衆議院本会議、石油専売法案外二件委員会で質疑を行った。質疑の中で三木は官僚のセクショナリズムを批判した上で、大戦遂行のために日本主導の大東亜共栄圏内の計画交易促進を支持した。そして日本の利益ばかりではなく、大東亜共栄圏では日本以外の国の発展にも配慮した総合的な施策が必要であると主張した。同じ第81帝国議会では請願委員会において地元徳島県の阿波用水灌漑事業に対する助成の請願を行い、更に建設委員会において徳島1区選出の衆議院議員であった紅露昭ら3名の議員とともに明石海峡、鳴門海峡にトンネルを設け、本州から淡路島を通り、四国に繋がる鉄道を敷くプロジェクトを提案し、審議の結果調査費が認められることになった。 三木は議会活動において官僚のセクショナリズムを批判したが、翼賛政治会内で官僚主義を厳しく批判し、議会中心主義を内包していると見られていた鳩山一郎を中心とする思斉会に入ることはなかった。1944年(昭和19年)7月には東條内閣が総辞職し、同時に翼賛政治会総裁も小林躋造に交代した。このようなな動きの中で翼賛政治会の結束に乱れが生じていき、脱会して無所属となる議員が続出した。1945年(昭和20年)3月には宇田耕一らを中心として翼壮議員同志会、岸信介を中心とした護国同志会が結成され、このままでは難局を乗り切れないと、翼賛政治会は3月20日に解散となった。結局3月30日に南次郎を総裁として大日本政治会が結成されるが、翼壮議員同志会、護国同志会を中心として数十名の議員が参加しなかった。三木は岸信介が主導する護国同志会に加入するという話も出たが、結局は多数派の大日本政治会に所属することとなり、そのまま終戦を迎える。三木は戦時中は多数派の会派に所属し続け、独自の方向性を選択することはなかった。議会での発言もおおむね時局に追随したものであり、やはり翼賛選挙で非推薦となった三木にとって、体制にあからさまに反する態度は取り得なかったものと考えられる。一方、先述した議会活動における民意重視の姿勢、そして官僚のセクショナリズムに対する批判、大東亜共栄圏において日本以外の国家発展に対しての目配りなど、三木の戦後の政治活動に繋がるものが戦時中の議会活動からも見受けられる。 1945年の終戦前、帝国議会での三木の質問機会は一回のみであった。1月24日、予算委員会の席で三木は、「決戦兵器」開発見通しに関して八木秀次科学技術院総裁に質問した。科学技術の総動員によって、厳しさを増す戦局を打開し得る決戦兵器の完成を期待する三木の質問に対し、八木は必死ではなく必中の兵器を生み出さねばならないことが使命であることは十分承知しているが、十分な成果が挙げられないまま、必死必中の神風特攻隊出撃を行わねばならなくなったことは、技術当局として遺憾に堪えない、慙愧に耐えない、まことに申し訳ないとの内容の答弁を行った。この三木と八木とのやりとりは、特攻に対しての政府当局者の率直な意見として当時大きな反響を呼んだ。戦況が日本にとって絶望的な状況となる中で、三木は特攻という戦時体制のひずみに対し、議会答弁を通して政府当局からある程度の回答を引き出していたことは注目される。
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