翼賛政治体制下における「不磨の大典」
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「不磨の大典」の記事における「翼賛政治体制下における「不磨の大典」」の解説
「不磨の大典」が侵される、すなわち大日本帝国憲法の改正論議が現実のものとして行われるのは、昭和時代における翼賛政治体制の確立期においてである。 大政翼賛会の成立期、翼賛政治体制の確立に当たり、1933年にドイツで全権委任法を成立させてヴァイマル憲法を停止したナチスのヒトラーに習って「憲法は改正すれば宜いではないか」との論が起こった。これを「大政翼賛会は違憲である」との理由で大政翼賛会入りを拒んだ護憲派の川崎克衆議院議員が第76回帝国議会(昭和15年12月26日-昭和16年3月25日)で問題にした。 川崎は、欽定憲法である大日本帝国憲法は「不磨の大典」であり、「憲法に違反することは、即ち国体に違反すること」であると、近衛新体制運動を推進する近衛文麿首相に迫った。 結局、川崎らの護憲派議員の活動により、「不磨の大典」は侵されること無く、結果として大日本帝国においてはドイツのような挙国一致体制の確立を見ることなく1945年に翼賛体制は瓦解、終戦を迎えた。
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