結果と意義
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暫くの間、コノトプの戦いでの完敗の知らせはようやくモスクワまで届いた。19世紀のロシアの歴史学者セルゲイ・ソロヴィヨーフはその嘆かわしいお知らせに対するモスクワのツァーリの反応について以下のように書いている。 1654-1655年の役で素晴らしく戦ったモスクワの華々しい最高級の騎馬軍団は、たった一日で全滅した!その敗北後に、ツァーリはもうそれほど強い兵馬を出すことができなかった。アレクセイ・ミハロヴィチは喪服姿で民衆の前に御成りになったとき、モスクワ中の人々は恐怖に襲われた。完敗の偶然性は国家に強い打撃を与えたのだ。その打撃はとくに1654-1655年の勝ち戦の後だっただけに大きかった。先年、ドルゴルーキイはリトアニアのへトマンを生捕にしてモスクワへ連れてこさせたことや、ホヴァンスキイは大勝利をおさめたという喜ばしい話が町中に広まっていたことなどがあった。しかし、今年は、皆の予想を担っていた「信心深くて優雅で、武運が強くて無敵な男」トルベツコイが、そのような大軍を滅ぼさせたのだ!外国の多数の町を奪てリトアニアの首都でさえ落去させたツァーリのモスクワは、震えながら自分の安全を案ずるようになった。8月にツァーリの命令に従い、貴賎を問わず町の全住民がモスクワの守りを固めるための作業を急いでやっていた。ツァーリ自身はボヤール側近とともにその防備作業に出席した。隣の近郊の村々から家族と財産を連れてきた農民がモスクワに集中し、ツァーリがモスクワを離れてヴォルガ川の向こうにあるヤロスラヴリ町に避難しようとするという噂が流れていた。 しかし、ヴィホーウシクィイとタタール・ハンがモスクワを攻めるというツァーリの心配は杞憂であった。ヴィホーウシクィイは親モスクワ派の反乱軍を破ってウクライナの町々を奪い返している間に、ヴィホーウシクィイの意志を無視したザポロージャのシーチ(英語版)の頭領、イヴァン・シルコーがザポロージャ・コサックを率いてヴィホーウシクィイの同盟関係にあったタタール人のクリミア汗国を攻撃した。その理由で、タタール・ハンがヴィホーウシクィイのもとを去らざるを得ず帰国し、ヴィホーウシクィイは大事な援軍を失った。そこで、親モスクワ派のコサックは改めてモスクワの援助をもらって自分の力を復帰させ、ヴィホーウシクィイの政権に反旗を翻してウクライナの内戦を再び盛り上がらせた。ヴィホーウシクィイは、ポーランド・リトアニア共和国とハージャチ条約を結んでモスクワ公国とその手先と戦うために兵力を得たが、フメリニツキーの乱のためにポーランド・リトアニア共和国との同盟は多くのウクライナの民衆と一般のコサックにとっては受け入れがたいものであった。結局、ヴィホーウシクィイはコサックの武将や長たちだけに頼り、ヴィホーウシクィイは条約を結ぶことによって現地の住民の支持を失い、後に同盟国のポーランド・リトアニア共和国に裏切られて捕まり、ワルシャワで処刑された。ヴィホーウシクィイを失ったヘーチマン国家はさらに混乱に落ち、モスクワ・ロシア(後のロシア帝国)とポーランドという近隣の大国の干渉によってウクライナの内戦は半世紀近く続いていた。 長い間、ロシア帝国とソ連の研究史においては、コノトプの戦いは禁じられたテーマの一つであった。数百年にわたってその戦いについての現実は国家のレーベルで秘密にされていた。その理由は、コノトプ戦い自体がウクライナ人とロシア人との間の合戦であったため、「ロシアとの同盟はウクライナ人の往古以来の望みだ」というロシア側の国家的神話などを覆していたからだった。一方、現代のウクライナの研究史においては、コノトプの戦いは理想化され、ウクライナ人のロシアに対する偉大な勝利であるというふうな偏向が見られていた。 コノトプの戦いは、勝った合戦と負けた戦争の代表的な例の一つであると言える。
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結果と意義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/02 00:06 UTC 版)
政宗は仙台藩がスペインと貿易を行うとの理由で、家康からガレオン船の建造と使節をスペインへ派遣する許可を獲得した。ただ、海流と偏西風の関係で太平洋を横断する基地として最も適当なのが現在の石巻付近であったこと、かつ既に避難寄港のためにスペイン船により当地付近の測量が済んでいたことから、家康がかの地での造船と出航にまつわる仕事を領主である政宗に命じたに過ぎないとの見解もある。 この慶長遣欧使節の目的は、仙台藩とスペインとの貿易(太平洋貿易)交渉にある。その意味で、この使節はこれに先んじた天正遣欧少年使節が「キリシタンの本山詣で」であったこととはその意義が異なる。天正遣欧少年使節が大友宗麟・大村純忠・有馬晴信らキリシタン大名によって主に宗教上の理由から行われたのに対し、政宗には自らがキリシタンとなったり領内でキリスト教を広めようとしたりする意図はなかったとみられるため、同じ西洋へ派遣された使節といっても両使節の目的は根本的な点で異なったものである。 この使節はスペイン国王フェリペ3世やローマ教皇パウルス5世宛ての書状を携行していた。この書には政宗自身の署名捺印と花押が記入されているが、その文中にはスペイン語で政宗自身も洗礼を希望しており奥州領内にキリスト教を広めるつもりであり、そのために宣教師を派遣していただきたくその場合には宣教師の生活援助も行いたい、といった旨が記載されていた。しかし政宗が既存の神社仏閣を手厚く保護し、キリスト教を信仰しようとしたとされる傍証も存在しないため、これらの内容は貿易のための方便であったか、スペイン語で書かれた内容を政宗自身が把握していなかった可能性がある。のちに政宗は幕府の方針に従ってキリスト教を弾圧したため、結果的に虚偽の内容の国際文書を発行したことになった。 慶長遣欧使節は「日本人が初めてヨーロッパの国へ赴いて外交交渉をした」画期的な出来事であった。常長らは「初めて太平洋・大西洋の横断に成功した日本人」である。のちに江戸幕府崩壊後、明治新政府は岩倉具視を全権大使として欧米視察の使節を送ったが(岩倉使節団)、その際に欧州で常長らの遺した事跡に出遭い、日本ではほとんど忘れられていた常長達の存在が再び注目されることとなる。明治新政府の首脳たちは欧米視察によって日本がいかに遅れた国であるのかを痛感し大きな劣等感に苛まれていたが、このとき250年以上も先立つ昔に日本の外交使節がスペインで外交交渉を行いローマまで派遣されていたという衝撃的な事実を知った。常長達の足跡を目の当たりにして、岩倉たちは大いに勇気づけられたという。 政宗がローマ法王へ宛てて書いた芸術的な親書、ローマ法王の肖像画、常長の肖像画、常長のローマ市民権証、常長がスペイン・ローマ・フィリピンから持ち帰った品々などは、現在仙台市博物館に収蔵されている。これらは「慶長遣欧使節関係資料」として、歴史資料としては日本で初めて国宝に指定された。2013年6月18日、「慶長遣欧使節関係資料」は、御堂関白記とともにユネスコ記憶遺産に登録された。これらの品々を見たスペインやローマ法王庁の人々は、自分達とは遠く離れた国に高度な文化と技術を持った国があるという事実を知った。また、支倉常長らの姿、彼らの堂々とした言動も、ヨーロッパ人を感心させた。常長らが和紙(白石和紙)で鼻をかみそれを投げ捨てると、ヨーロッパ人はその鼻紙を得ようとして群がったという。 「慶長遣欧使節関係資料」(仙台市博物館蔵、国宝)の画像 (上から)短剣(クリス型)、同鞘、短剣(護拳付) 支倉常長像 十字架とメダイ ロザリオ
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