結果と意義とは? わかりやすく解説

結果と意義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 22:04 UTC 版)

コノトプの戦い」の記事における「結果と意義」の解説

暫くの間コノトプの戦いでの完敗知らせはようやくモスクワまで届いた19世紀ロシアの歴史学者セルゲイ・ソロヴィヨーフはその嘆かわしいお知らせ対すモスクワツァーリ反応について以下のように書いている。 1654-1655年の役で素晴らしく戦ったモスクワ華々しい最高級騎馬軍団は、たった一日全滅した!その敗北後に、ツァーリはもうそれほど強い兵馬を出すことができなかった。アレクセイ・ミハロヴィチは喪服姿民衆前に御成りになったとき、モスクワ中の人々は恐怖襲われた。完敗偶然性国家に強い打撃与えたのだ。その打撃はとくに1654-1655年の勝ち戦の後だっただけに大きかった先年、ドルゴルーキイはリトアニアのへトマンを生捕にしてモスクワへ連れてこさせたことや、ホヴァンスキイは大勝利おさめたという喜ばしいが町中に広まっていたことなどがあった。しかし、今年は、皆の予想担っていた「信心深くて優雅で、武運強くて無敵な男」トルベツコイが、そのような大軍を滅ぼさせたのだ!外国多数の町を奪てリトアニア首都でさえ落去させたツァーリモスクワは、震えながら自分の安全を案ずるようになった8月ツァーリ命令従い貴賎問わず町の全住民モスクワ守り固めるための作業急いでやっていた。ツァーリ自身ボヤール側近とともにその防備作業出席した。隣の近郊々から家族財産連れてきた農民モスクワ集中しツァーリモスクワ離れてヴォルガ川向こうにあるヤロスラヴリ町に避難しようとするという噂が流れていた。 しかし、ヴィホーウシクィイとタタール・ハンがモスクワ攻めるというツァーリの心配は杞憂であった。ヴィホーウシクィイは親モスクワ派の反乱軍破ってウクライナの町々を奪い返している間に、ヴィホーウシクィイの意志無視したザポロージャシーチ英語版)の頭領、イヴァン・シルコーがザポロージャ・コサック率いてヴィホーウシクィイの同盟関係にあったタタール人クリミア汗国攻撃した。その理由で、タタール・ハンがヴィホーウシクィイのもとを去らざるを得ず帰国し、ヴィホーウシクィイは大事な援軍失った。そこで、親モスクワ派のコサック改めモスクワ援助もらって自分の力を復帰させ、ヴィホーウシクィイの政権反旗を翻しウクライナ内戦を再び盛り上がらせた。ヴィホーウシクィイは、ポーランド・リトアニア共和国とハージャチ条約結んでモスクワ公国その手先と戦うために兵力得たが、フメリニツキーの乱のためにポーランド・リトアニア共和国との同盟多くウクライナ民衆一般コサックにとっては受け入れがたいものであった結局、ヴィホーウシクィイはコサック武将や長たちだけに頼り、ヴィホーウシクィイは条約を結ぶことによって現地住民支持失い、後に同盟国ポーランド・リトアニア共和国裏切られ捕まりワルシャワ処刑された。ヴィホーウシクィイを失ったヘーチマン国家はさらに混乱落ちモスクワ・ロシア(後のロシア帝国)とポーランドという近隣大国干渉によってウクライナ内戦半世紀近く続いていた。 長い間ロシア帝国ソ連研究史においてはコノトプの戦い禁じられテーマ一つであった数百年にわたってその戦いについての現実国家レーベル秘密にされていた。その理由は、コノトプ戦い自体ウクライナ人ロシア人との間の合戦であったため、「ロシアとの同盟ウクライナ人往古以来望みだ」というロシア側の国家的神話などを覆していたからだった。一方現代ウクライナ研究史においてはコノトプの戦い理想化されウクライナ人ロシア対す偉大な勝利であるというふうな偏向見られていた。 コノトプの戦いは、勝った合戦負けた戦争代表的な例一つであると言える

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結果と意義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/02 00:06 UTC 版)

慶長遣欧使節」の記事における「結果と意義」の解説

政宗仙台藩スペイン貿易を行うとの理由で、家康からガレオン船建造使節スペイン派遣する許可獲得した。ただ、海流偏西風の関係で太平洋横断する基地として最も適当なのが現在の石付近であったこと、かつ既に避難寄港のためにスペイン船により当地付近測量済んでいたことから、家康かの地での造船出航まつわる仕事領主である政宗命じたに過ぎないとの見解もある。 この慶長遣欧使節目的は、仙台藩スペインとの貿易太平洋貿易交渉にある。その意味で、この使節はこれに先んじた天正遣欧少年使節が「キリシタン本山詣でであったこととはその意義異なる。天正遣欧少年使節大友宗麟大村純忠有馬晴信キリシタン大名によって主に宗教上の理由ら行われたのに対し政宗には自らがキリシタンとなった領内キリスト教広めようとしたりする意図はなかったとみられるため、同じ西洋派遣され使節といっても両使節目的根本的な点で異なったのである。 この使節スペイン国王フェリペ3世ローマ教皇パウルス5世宛て書状携行していた。この書には政宗自身署名捺印花押記入されているが、その文中にはスペイン語政宗自身洗礼希望しており奥州領内キリスト教広めるつもりであり、そのために宣教師派遣していただきたくその場合には宣教師生活援助行いたい、といった旨が記載されていた。しかし政宗既存神社仏閣手厚く保護しキリスト教信仰しようとしたとされる傍証存在しないため、これらの内容貿易のための方便であったか、スペイン語書かれ内容政宗自身把握していなかった可能性がある。のちに政宗幕府方針に従ってキリスト教弾圧したため、結果的に虚偽内容国際文書発行したことになった慶長遣欧使節は「日本人初めヨーロッパの国へ赴いて外交交渉をした」画期的な出来事であった常長らは「初め太平洋大西洋横断成功した日本人」である。のちに江戸幕府崩壊後明治新政府岩倉具視全権大使として欧米視察使節送ったが(岩倉使節団)、その際欧州常長らの遺した事跡に出遭い日本ではほとんど忘れられていた常長達の存在が再び注目されることとなる。明治新政府首脳たちは欧米視察によって日本がいかに遅れた国であるのかを痛感し大きな劣等感苛まれていたが、このとき250年以上も先立つ昔に日本の外交使節スペイン外交交渉行いローマまで派遣されていたという衝撃的な事実知った常長達の足跡目の当たりにして、岩倉たちは大い勇気づけられたという。 政宗ローマ法王宛てて書いた芸術的な親書ローマ法王肖像画常長肖像画常長ローマ市民権証、常長がスペイン・ローマ・フィリピンから持ち帰った品々などは、現在仙台市博物館収蔵されている。これらは「慶長遣欧使節関係資料」として、歴史資料としては日本初め国宝指定された。2013年6月18日、「慶長遣欧使節関係資料」は、御堂関白記とともにユネスコ記憶遺産登録された。これらの品々見たスペインローマ法王庁人々は、自分達とは遠く離れた国に高度な文化と技術持った国があるという事実を知ったまた、支倉常長らの姿、彼らの堂々とした言動も、ヨーロッパ人を感心させた。常長らが和紙白石和紙)で鼻をかみそれを投げ捨てると、ヨーロッパ人はその鼻紙得ようとして群がったという。 「慶長遣欧使節関係資料」(仙台市博物館国宝)の画像 (上から)短剣クリス型)、同鞘短剣護拳付) 支倉常長十字架メダイ ロザリオ

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