競輪での戦績
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日本競輪学校へは世界選手権での功績により技能試験免除で第69期生として入学し、在校成績トップで卒業する。同期の横田努(現:齊藤努)・澤田義和と共に「ハイタワーズ」とも呼ばれた。 デビュー後からは連勝を重ねA級からS級へ特進すると、わずか7ヶ月弱で記念競輪を優勝し、以降もトップクラスとして活躍する。GI高松宮記念杯2着など賞金順位によってKEIRINグランプリ'94にも出場(9着)。しかし、競輪学校在学中の卒業記念レースから新人戦を含めてタイトルと名のつくものは記念以外全く獲得できず、この事で父の功績とよく対比されていた。 その後、1999年に佐世保競輪場でふるさとダービーを優勝してからは勢いをつけ、2001年の日本選手権競輪では決勝戦で長い写真判定の末に2着を微差で退けて悲願のGI初優勝を果たし、表彰式で観戦に来ていた父に向かい表彰台の上から大声で絶叫(『親父・・・やったぞ!』)して報告したことは語り草となっている。
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競輪での戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 14:56 UTC 版)
自転車競技での実績が認められたことにより、競輪学校には特別選抜での技能免除で第90期生として2004年に入学するが、競走訓練では結果は残せず在校成績56位で卒業した。同期には北津留翼や浅井康太らがいる。 デビューは2005年7月15日の函館競輪場で、同日初勝利を挙げた。のちに出場したヤンググランプリでは2007年(立川競輪場)が5着、2008年(平塚競輪場)に2着という成績を残している。また2008年には寬仁親王牌(前橋競輪場)の決勝にも進出して7着となっており、自転車競技と競輪の両方で結果を出す実力を発揮した。 2010年は高松宮記念杯・寬仁親王牌・共同通信社杯秋本番の各レースで決勝に進出すると、12月にはトラックワールドカップ第1戦に参加せず挑んだ競輪祭の決勝で2着に入ったことから年間賞金獲得額ランキングの上位へ一気に進出し、同年12月27日より適用される2011年のS級S班選手に選出される。そしてS級S班格付け初戦となるSSカップみのりでは最終バックからの捲りで押し切りGI初優勝を果たした。 2013年は高松宮記念杯決勝で2着となり、7月26日には松阪競輪場で当時のバンクレコードを更新(10秒6)。翌27日の準決勝でも同タイムで1着となった。その後オールスターでも決勝で2着となり、年間獲得賞金上位(5位)によるKEIRINグランプリ2013の出場を決定させ、2014年のS級S班格付けも決定させた。 しかし2013年12月のSS11騒動において日本競輪選手会からの脱退を表明し、後に撤回した際にはSS11側の記者会見に列席したことが問題視され、選手会より2014年5月から年内一杯まで8ヶ月間の自粛欠場勧告を言い渡される。しかし処分直前の4月に伊東温泉競輪場で開催された共同通信社杯において開催2日目にバンクレコードを更新し、勢いに乗ったまま迎えた決勝では最終ホームから捲ってGIIを初優勝している。 その後、処分の軽減が行われたことから同年8月から再び出場することができたが、処分の影響からKEIRINグランプリの獲得賞金枠争いで次点となりGPへの出場は果たせなかった。 2015年、京王閣競輪場で行われた日本選手権では、ゴールデンレーサー賞も勝利するなど順当に勝ち上がり、3月22日に行われた決勝では、武田豊樹 - 平原康多で先捲りした関東ラインを追走、最終バック過ぎ3コーナー手前から発進、ゴール線では平原と浅井康太とのハンドル投げ争いを微差で制し優勝。GI2勝目、4日制以上のGI(旧特別競輪)においては初優勝となった。これによりKEIRINグランプリ2015の出場も決めた。また、同年松戸競輪場で行われたオールスター決勝でも、先行した竹内雄作の3番手を取り切り、最後捲って優勝、GI3勝目を挙げた。 五輪代表とはならなかった2016年は、6月の高松宮記念杯で最終ホームから捲りを放って押し切りGI4勝目を手にした。この年に計7つあったGIで6回決勝進出し(寛仁親王牌のみ準決勝敗退)、オールスター(8月)のファン投票でも初の1位となった。しかしKEIRINグランプリ2016では先頭から後方に下がったあとの巻き返しに失敗し7位で入線した直後に審議対象となり、先頭に立った際に先頭誘導員を抜いたタイミングがルールに定められた可能となる地点の直前だったため『先頭員早期追い抜き』の反則行為で失格となった。 2017年は高松宮記念杯の決勝において、後方の位置から前団をバックで一気に捲り切り連覇を果たしている。また同年11月には競輪祭を制覇、GI4つ目のタイトル獲得となった。 2018年はナショナルチームとしての活動・練習に重点を置いたため、初戦は2月の全日本選抜となったが、決勝で単騎ながら最後の4コーナーから一気に伸びて優勝、これでGIタイトルは5つ目となり、GI全タイトル制覇のグランドスラムに王手をかけた(残りのタイトルは寬仁親王牌のみ)。ただ、8月のオールスター競輪に出場したあとはグランドスラムが懸かった寛仁親王牌も欠場するなど競輪からは暫く離れ、4ヶ月ぶりに出走したKEIRINグランプリ2018で3着となった。 2019年も同様にナショナルチームとしての活動・練習に重点を置いたため、競輪のレース参戦は同じくナショナルチームの一員である脇本雄太とともに少なく、S級S班ながら2月の全日本選抜、10月の寬仁親王牌、11月の競輪祭の出場は辞退した。ただ、8月のオールスターで優勝したことで、KEIRINグランプリ2019の出場は決めた。 2020年は東京オリンピック代表選手に内定したこともあり、前年同様ナショナルチームとしての活動・練習に重点を置いたため当初競輪には出走しなかったが、東京オリンピックの1年延期が決定したことで、6月以降で高松宮記念杯を皮切りにGIないしGIIを中心に出走。グランドスラムまであと1つとしていた寬仁親王牌では決勝戦に進出しタイトルに期待がかかったが、脇本雄太にあと一歩及ばず2着でタイトル獲得はならなかった。当年はノンタイトルであったが、獲得賞金額8位で年末のKEIRINグランプリ2020出場を決め(7着)、2021年もS班格付けとなった。 2021年は、東京オリンピック終了まで競輪には一切出走せずであった。オリンピック終了直後、脇本雄太とともにそのままいわき平競輪場に実質「中0日」で移動、同年の競輪としては初戦となるオールスターに参戦。一次予選は第1走のドリームレースが4着であったが第2走は1着としたことで二次予選はシードレースのシャイニングスター賞に進出、準決勝も2着とし、決勝戦では自身含め4人でラインを組むも近畿ラインに先着を許し5着に終わった。この年特別競輪での優勝がなく賞金ランキングでも上位に入れず、6年間守り続けたS級S班から陥落が決まった。
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競輪での戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 08:53 UTC 版)
オリンピックへのこだわりから、競輪学校への入学は全試験免除ながら年齢制限ギリギリでとなったが、アマチュア時代の実績を生かして在校成績断然トップ(全104走で1着81回)で卒業記念レースも優勝、無事に競輪選手となった。1994年8月5日の花月園でのデビュー戦は終始イン詰まりで4着も、その開催も含めて新人リーグ全10場所とルーキーチャンピオンレースの、11場所連続優勝を果たす大記録を残した。早くにS級特進を果たすなど快進撃を重ね、中部を代表する先行選手として一流の仲間入りを果たすが、なかなかタイトルには手が届かなかった。若手時代から中部ラインの先頭を走っており、決勝戦で山田裕仁や山口兄弟(幸二・富生)らの特別競輪制覇のアシストをする事も多かったが、故に「ペースメーカー」、「暴走機関車」とまで揶揄される事もあった。 そんな中1999年3月の静岡競輪場での日本選手権競輪決勝では、ゴール直前先頭を走っていた神山雄一郎をゴール後とらえたと思い、思わずガッツポーズをしてしまったこともある(実際には神山の方が微差で残っており、神山はこの勝利でグランドスラムを果たした)。 そのような悔しい思いにもめげることなく、2002年6月に松阪競輪場で行われたふるさとダービーを完全優勝(4日連続1位)して勢いに乗ると、翌2003年の高松宮記念杯競輪でも優勝し、ついにタイトルホルダーの仲間入りを果たした。 2005年は年始より重度の肺炎を患い不調であったが、そのような中で練習と身体の回復に努め、苦労した中寬仁親王牌・世界選手権記念トーナメントで2つ目のタイトルを手にした。だが以降は力量がありながらトーナメント勝ち上がり戦での途中脱落が続いてファンを不思議がらせていた。 しかし2007年2月に宇都宮競輪場での東西王座戦で完全優勝(3日連続1着)を果たして立ち直りのきっかけを掴み、その勢いのまま6月の高松宮記念杯競輪で2年ぶりの特別競輪優勝を果たし(これは決勝戦打鐘過ぎ3角で起こった落車の影響により車体故障を起こしながらの勝利であり、小嶋の強さを一層際立たせた)、さらには約1ヵ月後の寛仁親王牌も制して特別競輪の連勝を果たした。 2008年よりS級S班格付となり、2月には別府競輪場で開催された東西王座戦を連覇。これを含む年間賞金獲得額上位で2009年もS級S班の格付を維持し、その後も2010年まで維持し続けた。 2011年現在、記念競輪を捲りで優勝するなど、40代以上の自力選手としては史上最強クラスである。 2017年3月9日の小倉FIナイター最終日第9Rにて、通算700勝(史上68人目)を達成した。 2019年5月5日、第73回日本選手権競輪(松戸)最終日の第1Rにて、S級戦での通算700勝を達成。 2020年3月17日、佐世保競輪初日の第9Rにて、S級戦では史上初となる、50代選手の打鐘先行で勝ち星を挙げた。ただ、2019年下期の不調が響き、2020年下期(7月 - 12月)は1996年4月以来24年ぶりとなるS級2班への降班が決まった。
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競輪での戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/09 05:04 UTC 版)
初出走は2005年7月1日の佐世保競輪場で、2着に9車身の大差をつけ初勝利を飾った。デビューから3ヶ月後の10月、熊本競輪場FII(レインボーカップセカンド)でA級初優勝を完全優勝で飾った。11月に入ってから武雄競輪場FII、一宮競輪場FIIで連続完全優勝、そして12月の観音寺競輪場FIIでも完全優勝を飾り、デビューから156日という史上2番目のスピードで3場所連続完全優勝でのS級特別昇級を決めた。 その後も順調に勝ち星を重ね、2007年6月の高松宮記念杯競輪では初の特別競輪(GI)決勝戦進出を果たしている(但し結果は落車棄権)。そして同年8月に開催された小松島記念(GIII)において、デビューから2年1ヵ月という速さで記念初優勝を飾った。2009年1月には地元小倉競輪場での競輪祭で2度目のGI決勝戦進出、7着に敗れたもののその前の二次予選・準決勝では豪快な先行で逃げ切る競走を見せるなどし、地元ファンの喝采を浴びていた。
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競輪での戦績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 07:31 UTC 版)
スピードスケートからの引退後は競輪に転向する意向を示し、2006年8月25日には日本競輪学校の適性試験に合格し第93期生として入学。在校時の競走成績は第1位を記録し2007年10月19日に卒業した。 なお競輪選手としての登録地は同じくスピードスケート出身の武田豊樹や牛山貴広がいる茨城となり、取手競輪場をホームバンクとして先輩の武田豊樹が今井の師匠として練習の指導に当たることになった。競輪デビューとなる初出走は2008年1月9日の西武園競輪場で、初勝利は2008年2月3日の静岡競輪場。 2008年8月8日に3場所連続完全優勝しA級2班へ特別昇班し、直後の8月31日に行われたルーキーチャンピオンレース(若鷹賞)では圧倒的な力の差を見せ優勝し、その後S級1班まで昇格したが特別競輪(GI)への出場は果たせなかった。 2015年8月5日の宇都宮競輪場第2R・A級一般戦で7着となったあと引退することを発表し「スピードスケートのコーチをしている義父の下で働く」とコメントした。 同年8月13日にA級1班在位のまま競輪選手登録消除。通算成績629戦122勝。
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