競輪での戦績とは? わかりやすく解説

競輪での戦績

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/24 09:56 UTC 版)

稲村成浩」の記事における「競輪での戦績」の解説

日本競輪学校へは世界選手権での功績により技能試験免除で第69期生として入学し在校成績トップ卒業する同期横田努(現:齊藤努)・澤田義和と共に「ハイタワーズ」とも呼ばれたデビュー後からは連勝重ねA級からS級特進すると、わずか7ヶ月弱で記念競輪優勝し以降トップクラスとして活躍するGI高松宮記念杯2着など賞金順位によってKEIRINグランプリ'94にも出場(9着)。しかし、競輪学校在学中卒業記念レースから新人戦含めてタイトルと名のつくものは記念以外全く獲得できず、この事で父の功績とよく対比されていた。 その後1999年佐世保競輪場ふるさとダービー優勝してからは勢いをつけ、2001年の日本選手権競輪では決勝戦長い写真判定の末に2着を微差退けて悲願GI初優勝果たし表彰式観戦来ていた父に向かい表彰台の上から大声絶叫(『親父・・・やったぞ!』)して報告したことは語り草となっている。

※この「競輪での戦績」の解説は、「稲村成浩」の解説の一部です。
「競輪での戦績」を含む「稲村成浩」の記事については、「稲村成浩」の概要を参照ください。


競輪での戦績

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 14:56 UTC 版)

新田祐大」の記事における「競輪での戦績」の解説

自転車競技での実績認められたことにより、競輪学校には特別選抜での技能免除で第90期生として2004年入学するが、競走訓練では結果残せ在校成績56位で卒業した同期には北津留翼浅井康太らがいる。 デビュー2005年7月15日函館競輪場で、同日勝利を挙げた。のちに出場したヤンググランプリでは2007年立川競輪場)が5着、2008年平塚競輪場)に2着という成績残している。また2008年には寬仁親王牌前橋競輪場)の決勝にも進出して7着となっており、自転車競技競輪両方結果を出す実力発揮した2010年高松宮記念杯寬仁親王牌共同通信社杯秋本番の各レース決勝進出すると、12月にはトラックワールドカップ第1戦に参加せず挑んだ競輪祭決勝で2着に入ったことから年間賞獲得ランキングの上位へ一気進出し同年12月27日より適用される2011年S級S班選手選出される。そしてS級S班格付け初戦となるSSカップみのりでは最終バックからの捲り押し切りGI初優勝果たした2013年高松宮記念杯決勝で2着となり、7月26日には松阪競輪場当時のバンクレコードを更新10秒6)。翌27日準決勝でも同タイムで1着となったその後オールスターでも決勝で2着となり、年間獲得賞金上位(5位)によるKEIRINグランプリ2013出場決定させ、2014年S級S班格付け決定させた。 しかし2013年12月SS11騒動において日本競輪選手会からの脱退表明し、後に撤回した際にはSS11側の記者会見列席したことが問題視され選手会より2014年5月から年内一杯まで8ヶ月間の自粛欠場勧告言い渡される。しかし処分直前4月伊東温泉競輪場開催され共同通信社杯において開催2日目にバンクレコードを更新し勢い乗ったまま迎えた決勝では最終ホームから捲ってGII初優勝している。 その後処分軽減が行われたことから同年8月から再び出場することができたが、処分影響からKEIRINグランプリ獲得賞金争い次点となりGPへの出場果たせなかった。 2015年京王閣競輪場行われた日本選手権では、ゴールデンレーサー賞勝利するなど順当に勝ち上がり3月22日行われた決勝では、武田豊樹 - 平原康多で先捲りした関東ライン追走最終バック過ぎ3コーナー手前から発進ゴール線では平原浅井康太とのハンドル投げ争い微差制し優勝。GI2勝目4日制以上のGI(旧特別競輪においては初優勝となった。これによりKEIRINグランプリ2015出場決めたまた、同年松戸競輪場行われたオールスター決勝でも、先行した竹内雄作3番手を取り切り、最後捲って優勝、GI3勝目挙げた五輪代表とはならなかった2016年は、6月高松宮記念杯最終ホームから捲り放って押し切りGI4勝目を手にした。この年に計7つあったGIで6回決勝進出し寛仁親王牌のみ準決勝敗退)、オールスター8月)のファン投票でも初の1位となった。しかしKEIRINグランプリ2016では先頭から後方下がったあとの巻き返し失敗し7位で入線した直後審議対象となり、先頭立った際に先頭誘導員を抜いたタイミングルール定められた可能となる地点直前だったため『先頭早期追い抜き』の反則行為失格となった2017年高松宮記念杯決勝において、後方位置から前団をバック一気捲り切り連覇果たしている。また同年11月には競輪祭制覇、GI4つ目のタイトル獲得となった2018年ナショナルチームとしての活動練習重点置いたため、初戦2月全日本選抜となったが、決勝単騎ながら最後の4コーナーから一気伸びて優勝、これでGIタイトル5つ目となり、GIタイトル制覇グランドスラム王手をかけた(残りタイトル寬仁親王牌のみ)。ただ、8月オールスター競輪出場したあとはグランドスラムが懸かった寛仁親王牌欠場するなど競輪からは暫く離れ、4ヶ月ぶりに出走したKEIRINグランプリ2018で3着となった2019年同様にナショナルチームとしての活動練習重点置いたため、競輪レース参戦同じくナショナルチーム一員である脇本雄太とともに少なくS級S班ながら2月全日本選抜10月寬仁親王牌11月競輪祭出場辞退した。ただ、8月オールスター優勝したことで、KEIRINグランプリ2019出場決めた2020年東京オリンピック代表選手内定したこともあり、前年同様ナショナルチームとしての活動練習重点置いたため当初競輪には出走しなかったが、東京オリンピック1年延期決定したことで、6月以降高松宮記念杯皮切りにGIないしGII中心に出走グランドスラムまであと1つとしていた寬仁親王牌では決勝戦進出しタイトル期待かかったが、脇本雄太あと一歩及ばず2着でタイトル獲得はならなかった。当年ノンタイトルであったが、獲得賞金額8位で年末KEIRINグランプリ2020出場決め(7着)、2021年もS班格付けとなった2021年は、東京オリンピック終了まで競輪には一切出走せずであったオリンピック終了直後脇本雄太とともにそのままいわき平競輪場実質「中0日」で移動同年競輪としては初戦となるオールスター参戦一次予選は第1走のドリームレースが4着であったが第2走は1着としたことで二次予選はシードレースのシャイニングスター賞に進出準決勝も2着とし、決勝戦では自身含め4人でラインを組むも近畿ライン先着許し5着に終わったこの年特別競輪での優勝がなく賞金ランキングでも上位入れず6年守り続けたS級S班から陥落決まった

※この「競輪での戦績」の解説は、「新田祐大」の解説の一部です。
「競輪での戦績」を含む「新田祐大」の記事については、「新田祐大」の概要を参照ください。


競輪での戦績

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 08:53 UTC 版)

小嶋敬二」の記事における「競輪での戦績」の解説

オリンピックへこだわりから、競輪学校への入学は全試験免除ながら年齢制限ギリギリとなったが、アマチュア時代実績生かして在校成績断然トップ(全104走で1着81回)で卒業記念レース優勝無事に競輪選手となった1994年8月5日花月園でのデビュー戦終始イン詰まりで4着も、その開催含めて新人リーグ10場所とルーキーチャンピオンレースの、11場所連続優勝を果たす大記録残した早くS級特進を果たすなど快進撃重ね中部代表する先行選手として一流仲間入りを果たすが、なかなかタイトルには手が届かなかった。若手時代から中部ライン先頭走っており、決勝戦山田裕仁山口兄弟幸二・富生)らの特別競輪制覇アシストをする事も多かったが、故にペースメーカー」、「暴走機関車」とまで揶揄される事もあった。 そんな中1999年3月静岡競輪場での日本選手権競輪決勝では、ゴール直前先頭走っていた神山雄一郎ゴールとらえた思い、思わずガッツポーズをしてしまったこともある(実際に神山の方が微差残っており、神山はこの勝利グランドスラム果たした)。 そのような悔し思いにもめげることなく2002年6月松阪競輪場行われたふるさとダービー完全優勝4日連続1位)して勢いに乗ると、翌2003年高松宮記念杯競輪でも優勝し、ついにタイトルホルダー仲間入り果たした2005年年始より重度肺炎患い不調であったが、そのような中で練習身体の回復努め苦労した寬仁親王牌・世界選手権記念トーナメント2つ目のタイトルを手にした。だが以降力量ありながらトーナメント勝ち上がり戦での途中脱落続いてファンを不思議がらせていた。 しかし2007年2月宇都宮競輪場での東西王座戦完全優勝3日連続1着)を果たし立ち直りきっかけ掴み、その勢いのまま6月高松宮記念杯競輪2年ぶりの特別競輪優勝果たし(これは決勝戦打鐘過ぎ3角で起こった落車影響により車体故障起こしながらの勝利であり、小嶋強さを一層際立たせた)、さらには1ヵ月後の寛仁親王牌制して特別競輪連勝果たした2008年よりS級S班格付となり、2月には別府競輪場開催され東西王座戦連覇。これを含む年間賞獲得上位2009年S級S班の格付維持しその後2010年まで維持し続けた2011年現在記念競輪捲り優勝するなど、40代上の自力選手としては史上最強クラスである。 2017年3月9日小倉FIナイター最終日9Rにて、通算700勝(史上68人目)を達成した2019年5月5日第73回日本選手権競輪松戸最終日の第1Rにて、S級戦での通算700勝を達成2020年3月17日佐世保競輪初日の第9Rにて、S級戦では史上初となる、50代選手打鐘先行勝ち星挙げた。ただ、2019年下期不調響き2020年下期7月 - 12月)は1996年4月以来24年ぶりとなるS級2班への降班が決まった

※この「競輪での戦績」の解説は、「小嶋敬二」の解説の一部です。
「競輪での戦績」を含む「小嶋敬二」の記事については、「小嶋敬二」の概要を参照ください。


競輪での戦績

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/09 05:04 UTC 版)

北津留翼」の記事における「競輪での戦績」の解説

初出走は2005年7月1日佐世保競輪場で、2着に9車身の大差をつけ初勝利を飾ったデビューから3ヶ月後の10月熊本競輪場FII(レインボーカップセカンド)でA級初優勝完全優勝飾った11月入ってから武雄競輪場FII一宮競輪場FII連続完全優勝、そして12月観音寺競輪場FIIでも完全優勝飾りデビューから156日という史上2番目のスピードで3場所連続完全優勝でのS級特別昇級決めたその後順調に勝ち星重ね2007年6月高松宮記念杯競輪では初の特別競輪GI決勝戦進出果たしている(但し結果落車棄権)。そして同年8月開催され小松島記念GIII)において、デビューから2年1ヵ月という速さ記念初優勝飾った2009年1月には地元小倉競輪場での競輪祭2度目GI決勝戦進出、7着に敗れたもののその前の二次予選準決勝では豪快な先行逃げ切る競走見せるなどし、地元ファン喝采浴びていた。

※この「競輪での戦績」の解説は、「北津留翼」の解説の一部です。
「競輪での戦績」を含む「北津留翼」の記事については、「北津留翼」の概要を参照ください。


競輪での戦績

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 07:31 UTC 版)

今井裕介」の記事における「競輪での戦績」の解説

スピードスケートからの引退後競輪転向する意向示し2006年8月25日には日本競輪学校適性試験合格し93期生として入学在校時の競走成績第1位記録し2007年10月19日卒業した。 なお競輪選手として登録地同じくスピードスケート出身武田豊樹牛山貴広がいる茨城となり、取手競輪場をホームバンクとして先輩武田豊樹今井師匠として練習指導に当たることになった競輪デビューとなる初出走は2008年1月9日西武園競輪場で、初勝利2008年2月3日静岡競輪場2008年8月8日に3場所連続完全優勝しA級2班へ特別昇班し、直後8月31日行われたルーキーチャンピオンレース若鷹賞)では圧倒的な力の差を見せ優勝しその後S級1班まで昇格したが特別競輪GI)への出場果たせなかった。 2015年8月5日宇都宮競輪場2R・A級一般戦で7着となったあと引退することを発表しスピードスケートコーチをしている義父の下で働く」とコメントした同年8月13日にA級1班在位のまま競輪選手登録消除通算成績629戦122勝。

※この「競輪での戦績」の解説は、「今井裕介」の解説の一部です。
「競輪での戦績」を含む「今井裕介」の記事については、「今井裕介」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「競輪での戦績」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「競輪での戦績」の関連用語

競輪での戦績のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



競輪での戦績のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの稲村成浩 (改訂履歴)、新田祐大 (改訂履歴)、小嶋敬二 (改訂履歴)、北津留翼 (改訂履歴)、今井裕介 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS