盗塁術
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 08:09 UTC 版)
ルーキーの頃、コーチとして阪急電鉄から出向した浅井浄(1964年東京オリンピック400メートルリレー走代表)に指導を受け、福本は肘がぶれない走法を教えられたと記している。また、福本の足はチーム内でも特別俊足というわけではなく、走塁時に左右の歩幅が一定で横に広がらない陸上短距離選手が理想とするような走り方であると足跡を収めた映像を交えて検証されたこともある。なお、初の盗塁王については福本は「単に勢いで取れただけ」と語っている。 打力が付き、レギュラーに定着したが、出塁しても盗塁のタイミングが全く分からずに牽制死、盗塁失敗を繰り返していた。前記の通り、結果次第では3年でプロ野球をやめる可能性があったため、自分がプロに在籍した証を残そうと、友人(高校時代の野球仲間)に8ミリカメラで試合を撮影してもらっていた。1969年のオフに自宅でその映像を早回しで眺めたところ、投手の個性が見えたという。それを実戦で確かめたのは3年目のシーズンだった。福本は「相手投手のクセではなく、僕は投球リズムを盗んだ」と記している。これにより盗塁を仕掛けるタイミングをつかんだ。この研究が認められ、その後はフィルム撮影は球団の手で行われることとなった。 しかし、近鉄の神部年男、鈴木啓示の2人だけはなかなか特徴を盗むことができず、何度もフィルムを再生しなおした。神部は軸足(かかとが数ミリ伸び上がったら投球する)、鈴木は顔(顎が下がれば牽制、走者を一度見たら投球)に「癖」があることをついに発見、両投手の攻略に成功した。 東尾修は投球時に左肩が本塁方向に流れることを見抜き、「最初はモーションを盗みやすかった」という。1972年のオフ、ミズノが開いたアドバイザリースタッフとの懇親会で、東尾に頼まれて「すぐに直せるものではないから」この「癖」を教えた。翌シーズンになると東尾はその点を修正した上、逆にわざと左肩を流すようにして牽制球を投じる「ボークすれすれ」の方法も織り交ぜた。東尾はキャンプで審判を集めて「肩が入っていない」とアピールし、福本は塁に出ると審判に東尾の左肩に注意するよう頼むといった攻防もおこなった。 盗塁の3要素と言われる「3S」こと、スタート、スピード、スライディングのうち、スタートは以上のような徹底した投手の癖の研究、スピードは天性の俊足と若い時のフォーム矯正によって研磨された。残るスライディングについては、つま先からやわらかくベースに触れるスライディングを誰にも教わることなく独自に編み出している。スピードを殺さず、足への負担も少ないスライディングだった。ヘッドスライディングは怪我しやすいと嫌い、ほとんどしなかった。ヘッドスライディングの危険性については引退後もたびたび解説の場などで口にしている。また、野手をかわすスライディングを高校時代に試みて捻挫した経験があったため、捕手からの送球をかわすことはせず、ベース正面から左足を伸ばして右足を折りたたんで突入するフックスライディングしかしなかった。 スパイクシューズも特注で、普段の靴のサイズ(25 cm)よりも小さい24.5cmを使用し、400グラム弱と非常に軽く作られていた。 福本の盗塁には優れた2番打者の存在も大きかった。福本自身、「有能なサポーターがおらんと、盗塁なんてひとつも成功しない」と語っている。当初は阪本敏三、ついで大熊忠義がその任にあたった。大熊は打席で福本を見ながら、ファウルボールや空振りをするなど、巧みなアシストをした。1975年のシーズンに、盗塁を目論んで一塁からよいスタートを切れたにもかかわらず、大熊がその投球をファウルにしたことに対し、「見送ってくれたら、二塁は楽勝でセーフやったのに」と言った結果、大熊の機嫌を損ねた。頭にきた大熊の申し出で、その翌日から2番打者がウイリアムスになった。ウイリアムスは直球を打ちに行くため、福本は丸1週間全く盗塁出来なくなった。アシストがないと走れないと謝罪し、大熊は元の2番に戻ってくれたという。1978年からは簑田浩二が台頭、簑田は自身も俊足なのを生かして、この年から1983年まで25盗塁以上を記録した。 このように、福本の盗塁術は徹底した研究と高度な技術によって完成されたものだったが、何よりも大切なのは思い切りだという。福本の盗塁成功率は106盗塁した1972年で.809、通算で.781と優秀ではあるが飛び抜けて高くはなく、通算盗塁刺299も日本記録である。また日本シリーズ史上最多となる、1シリーズで3盗塁死という記録(1984年対広島)も持っており、2018年現在でも1953年の与那嶺要(巨人)、2018年の田中広輔(広島)と並ぶ最多記録タイである。これらのことから、盗塁数の多さは同時に盗塁企図数の多さを示しており、思い切りの良さが現れている。福本の前の通算日本記録保持者である広瀬叔功は、「勝つために走る」「チームが必要としている時に走る」自らの姿勢と(盗塁技術習得の一環として)「失敗を恐れずにどんどん走るべき」という福本の考え方を比較して「私の考え方と相容れない」としながらも、「ゲームの中で走ることによって、彼は彼なりの方法で盗塁の技術を極限まで高めた」「私がとやかく言えるような選手ではない」と評している。福本は、広瀬の日本記録を更新した際に「お師匠さん(広瀬)にかなわんことがぎょうさんある。その一つにボクのスタートは完全やない。ここ一番の心理状態も及ばない」「師匠の前で記録を作りたくなかった」とコメントしている一方、「意味のない、無駄な盗塁」(福本がシーズン日本記録を更新した直後に続けて三盗を決めたことをこう評したと伝えられた)という広瀬の言葉に対しては「『無駄な盗塁』などはありえない、と僕は確信しています」と述べている。 1979年のオールスターゲームの時、やはり俊足を売りにしていた広島東洋カープの高橋慶彦が福本に盗塁術の教えを請うたところ、答えはたった一言「気合いや」だったので面食らったという(ちなみに、高橋は歴代5位の通算477盗塁を記録しているが、福本に次ぐ歴代2位の通算206盗塁刺を記録している)。なお、第1戦の3回裏、安打で出塁した福本はすぐに盗塁を成功させ、高橋も9回に三盗を成功させている。 野村克也は、福本について「(こちらが)走ると思うと走らない。走らないと思うと走る。あいつに鍛えられた」と評している。また、堀内恒夫は「福本はクロスプレーも巧い。福本は、クロスプレーの際に相手の捕手がベースを覆い隠していた場合には、相手の脚の関節をスパイクの裏で蹴るらしい。そうすることにより、自然に相手の足が動いて隠れていたホームベースがあらわれる」と語っている[要出典]。 1972年に球団はPRのために、福本の足に1億円の保険をかけた。掛け金が25万円で、福本が負傷してプレーできなくなった場合に球団に1億円が支払われるというものだった。後述するように人一倍体調管理、怪我防止、強靭な体作りに神経を使い、なにより「これだけ金をかけてる以上は絶対に大事にしないといけない」という心構えから、福本は現役中試合中には一度も足を怪我しなかった。保険は3年間で打ち切られたという。 大熊は福本の盗塁後に送りバントやゴロを打って三塁に進めてくれたため、福本はホームに生還できるための技術も磨いた。中腰のポーズで打球がヘルメットのつばの上下どちらに行くかを、スタートする判断の目安としていた。 通算1065盗塁の内訳は二盗915(失敗265)・三盗149(失敗27)・本盗1(失敗6)である。三盗については「セカンドからヒット一本でホームに帰れるのに、わざわざ危険を冒す必要もないし、二盗のような駆け引きもないからつまらない」と述べている。1度だけの本盗に成功したのはシーズン最多盗塁を記録した1972年で、7月1日の対近鉄戦であった。このとき福本は「滅多にないテレビ中継があるので狙っていた」という。この本盗では珍しくヘッドスライディングしており、試合後にその理由について「間一髪を争うプレー。手からいくとタッチは上から押さえつけるようになる。この方がセーフの確率が高くなるでしょう」とコメントしている。本盗については打者がバットを振る可能性から「ほんまに怖い」と著書で記し、成功した1回も打席の打者にサインを通さず走ったという。 1試合の最多記録は5盗塁(1972年5月3日・パ・リーグ記録)だが、4盗塁以上が9回、3盗塁以上は40回あり、宇佐美徹也は「ご立派の一言に尽きる」と評している。 11試合連続盗塁を2度(1971年、1974年)記録し、2020年に福岡ソフトバンクホークスの周東佑京が更新するまで49年にわたり日本記録であった。記録を作った当時、福本はこのような記録が存在することを特に意識していなかったという。
※この「盗塁術」の解説は、「福本豊」の解説の一部です。
「盗塁術」を含む「福本豊」の記事については、「福本豊」の概要を参照ください。
- 盗塁術のページへのリンク