洋上防空とDDV
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「海上自衛隊の航空母艦建造構想」の記事における「洋上防空とDDV」の解説
1970年代後半ごろより、シーレーン防衛という新たな概念が重視されるようになってきた。1976年(昭和51年)に海上幕僚長に就任した中村悌次海将は、防衛すべき範囲として東京とグアムおよびバシー海峡をそれぞれ結ぶ2本のライン(中村ライン)を提示した。1981年(昭和56年)5月、この概念を元にワシントンD.C.訪問中の鈴木善幸内閣総理大臣が「シーレーン1,000海里防衛」を提唱し、続く中曽根康弘内閣でさらに具体化された。 中村ラインを提唱した中村海幕長は、1977年(昭和52年)9月に同職を離任する際の『離任にあたり講話』で、「洋上防空にはミサイルだけでなくV/STOL機のような戦闘機が必要だがこれには手を付けられなかった。誠に無念である。」と述べた。またこの前後より、ソビエト連邦軍において、射程400km、超音速を発揮できるKh-22 (AS-4 キッチン) 空対艦ミサイルと、その発射母機として、やはり超音速を発揮できるTu-22M爆撃機、そして電子攻撃用に改造されたTu-16電子戦機の開発・配備が進められるようになっており、経空脅威は大幅に増大していた。この情勢を受け、1986年(昭和61年)5月、防衛庁(当時)内に設置されていた業務・運営自主監査委員会を発展拡大させて防衛改革委員会が設置され、その傘下の4つの委員会および小委員会の一つとして洋上防空体制研究会(洋防研)が発足した。洋防研においては、OTHレーダーや早期警戒機、要撃戦闘機等による洋上防空体制の強化・効率化が模索されており、護衛艦隊においては、ミサイル護衛艦の艦対空ミサイル・システムのイージスシステムへの更新とともに、航空機搭載護衛艦(DDV)が検討された。イージス艦が空対艦ミサイルに直接対処する施策であるのに対し、DDVは、ASM発射以前の爆撃機に対処することにより、より根本的な母機対処を担う構想であった。イージスシステムは在来型DDGのターター-D・システムよりもはるかに強力な防空能力を備えるであろうが、それでも、数次にわたる空襲を受けた場合は艦隊の防空網をすり抜けたASMによる損害が蓄積され、最終的に艦隊は失われるとの予測がなされたことから、母機対処の能力は非常に重要であった。 ジェーン海軍年鑑1985-6年版では、日本が16,000トン級の大型ヘリ空母(対潜ヘリ14機搭載、ミサイルVLS装備)の建造を計画していると記載されたが、読売新聞の取材に対して、防衛庁はこの記載を否定した。その後、同年10月20日付けの日本経済新聞にて、防衛庁内で洋上防空の柱として「VTOLなどを積む護衛用軽空母」を導入する構想が浮上していることが報じられた。日経新聞の報道により計画が部外に明らかになった当初、軍事評論家の藤木平八郎は縦深洋上防空には理解を示すも、シーハリアーの能力不足を指摘していた。統合幕僚会議議長を務めた佐久間一はDDV構想について、「今でもある課題ですけれども、防空用の空母というか、DDVというか、それはずっと課題なんですよね」とした上で、当時の海幕のシミュレーションでは、バックファイアーにシーハリアーで対応しても、シーハリアーの性能ではバックファイアーに敵わないとの結果だったので計画を見送ったが、後に59中業において「シー・ハリヤ―・プラス(原文ママ)」という次のバージョンならば何とかなるとのことで、DDVを計画に入れようとしたが、内局からは(空母はダメだということで)徹底して反対されたとしている。佐久間は「DDVが絶対とは私は今でも思っていません。しかし、いちばん現実的なオプションではあるだろうな」との見解を示している。DDVは護衛艦の名を冠してはいるが実質的な空母であるため、国内外から強い反発が予想されることから政治的配慮が働き、防衛庁内局を中心に強い反対意見が出ていた。 また、ほぼ同時期に、日本戦略研究センターが政府・自民党に対して提出した「防衛力整備に関する提言」の中で「護衛水上部隊は、七個護衛隊群とする。そのうちの五個護衛隊群は、それぞれ各出撃二~三週間の連続作戦に必要な対潜ヘリコプターのほかに、対象勢力の新型基地爆撃機を要撃する要撃機などを積載できる対潜ヘリコプター等搭載、大型護衛艦(DLH)一隻を中核として編成する」とされていた。 以上のような検討を経て、DDVはおおむね、排水量15,000〜20,000トン前後、全通甲板を有し、シーハリアー級の戦闘機を10機前後、早期警戒(AEW)ヘリコプターおよび対潜哨戒ヘリコプターを数機搭載する構想となった。しかし、洋防研において母機対処の必要性は理解されたものの、肝心のシーハリアーの能力が限定的であり、超音速のTu-22M爆撃機への対処に不安が残ったほか、「空母」という言葉のもつ政治的インパクトへの配慮、更にアメリカ海軍の反対(アメリカ海軍空母の護衛に加わるためのイージス艦の優先を推奨)もあったことから、海幕はDDV計画を取り下げ、イージス艦導入に重点を形成することとされた。イージス艦については、吉田學海将が当時のアメリカ海軍作戦部長ジェームズ・ワトキンス大将を説得したことにより、当初予定されていた一世代前のものではなく、最新のイージスシステムの提供が実現した。 上記のように1988年のDDV構想は頓挫したが、海上自衛隊は軽空母を諦めておらず、「次期防で(軽空母の)調査費だけをつけて、次々期防(1996年から2000年)で導入する」ことを想定していた。また、国内航空機メーカーでは、イギリスのシーハリアーより足の長いVTOL戦闘機の研究に着手していた。1988年12月22日から始まった中期防衛力整備計画の策定作業の開始に当って、陸上自衛隊は多連装ロケットシステム(MLRS)とAH-64A アパッチ、航空自衛隊は早期警戒管制機(AWACS)と空中給油機の新規導入が検討される中、構造不況に苦しむ造船業界は海上自衛隊の軽空母の導入論議に注目していたという。 1993年(平成5年)6月29日、岡部文雄海上幕僚長は退任前の最後の記者会見において、海上防衛力の今後のあり方について、「現状では洋上防空能力が欠落している。イージス艦を超えるものが必要だと思う」と述べ、空母の導入が必要との考えを示唆した。 2004年(平成16年)の新大綱策定のために防衛庁に設置された「防衛力の在り方検討会議」でまとめられた論点整理において、弾道ミサイルに対処するための敵基地攻撃について「引き続き米軍に委ねつつ、日本も侵略事態の未然防止のため、能力の保有を検討する」として、ハープーン ブロックIIやトマホークと共に、「軽空母」の導入が検討対象に入ったことが報じられた。
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