歴史上の遊牧民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:14 UTC 版)
遊牧民族と農業民族はその生活習慣で別れる概念であって、人種的に異なる民族を表す表現ではない。2次大戦以前に東アジアでは遊牧民族という概念は存在しなかった。歴史的に漢族が住む地域の北と東北に住む漢族とは文化的に言語的に異なる民族を異民族と呼んでいたが、現代の中国は異民族という概念を断って、彼らが全部遊牧生活をしたわけではないが、現在モンゴルの主な生活習慣である遊牧も両立した民族ということで遊牧民族と呼ぶようになった。しかし、満洲族や鮮卑など遊牧より農業を主にするようになった異民族のほうが多かった。日本も移動をして採集をしてきた民族が日本の環境に適する農業をするようになった。中国の学会では簡単に農業民族と遊牧民族で分けるが遊牧民族もほとんど農業を並行した民族である。今のモンゴルでは環境により遊牧が主だが、現在中国学会から遊牧民族と呼ばれる北と東北の異民族は農業も並行してきた。遊牧は農業より後に現れた生活習慣であり、農業をやってきた民族が環境によって遊牧をするようになった。騎馬遊牧民は、銃砲の時代の到来まで、極めて大きな軍事力を発揮した。生身の人間には到底太刀打ち出来ない、圧倒的な速度と重量を併せ持つ騎兵の一斉突撃は、歩兵の陣形を容易に蹴散らすことが可能であった。当然、騎射にも優れ(パルティアンショット)、これを用いた一撃離脱戦法は彼等の最も得意とするところであった。 世界史上、もっとも大きな影響を及ぼした民族は、北アジアのモンゴル高原から中央アジア、イラン高原、アゼルバイジャン、カフカス、キプチャク草原、アナトリアを経て東ヨーロッパのバルカン半島まで至るY字の帯状に広がるステップ地帯にあった騎馬遊牧民たちである。彼らは中国人と違って北と東北に住んでいる民族で遊牧と農業を両立したが、中国人より遊牧の生活習慣もあったため、中国学会では簡単に遊牧民族と呼ばれている。現在の中国には農業民族である漢族の人口が多いが、昔には東北騎馬民族(遊牧民族)と農業民族の人口にあまり差はなかった。彼らは、匈奴、サカ、スキタイの時代から、パルティア、鮮卑、突厥、ウイグル、セルジューク朝、モンゴル帝国などを経て近代に至るまでユーラシア大陸全域の歴史に関わり、遊牧生活によって涵養された馬の育成技術と騎射の技術と卓越した移動力と騎兵戦術に裏打ちされた軍事力で歴史を動かしてきた。中世以降は軽装騎兵が騎射で敵軍を混乱させ、重装騎兵が接近戦で敵軍を打ち破る戦法が用いられた。遊牧民を介してユーラシア大陸の東西はシルクロードなどを用いて交流し、中国で発明されたと言われる火薬などの技術が西に伝わった。 まとまった勢力として文献資料に初めてあらわれるのはキンメリア人であり、紀元前8世紀頃、南ロシア平原に勢力を形成したとされる。これに次ぎ、同じく南ロシア平原にスキュタイ人が現れる。スキュタイ人については、ヘロドトスの書物の記載が有名である。同じく歴史に登場するペルシアのアケメネス朝もまた遊牧民を支配層とした国家である。アケメネス朝は後に続く広域国家の源流といわれる。紀元前4世紀頃から匈奴が中国の文献に登場し始め、紀元前3世紀には後へ続く遊牧国家の源流となる広域国家を形成した。西暦元年前後にイラン・イラクを支配した遊牧民系国家のパルティアは優れた騎射技術を持っていた。 4世紀頃に遊牧民族のフン族が引き起こしたゲルマン民族の大移動が西ローマ帝国が滅亡した大きな要因であると言われている。その後も、遊牧民族の柔然、突厥、回鶻、契丹が強大な軍事力でモンゴル高原からキプチャク草原に至るステップ地域を席巻した。 中世の中央アジア西部や東ヨーロッパでは、遊牧民族のテュルクやモンゴルやアヴァールやブルガールやハザールやキプチャクやペチェネグやマジャルなどの諸勢力・部族が覇権を争った。 13世紀頃、モンゴル帝国はモンゴル高原、中国、中央アジア、イラン、イラク、アナトリア、東ヨーロッパを支配するなど、強大な軍事力でユーラシア大陸を席巻した。モンゴル高原に割拠した遊牧民の部族は「モンゴル」「メルキト」「ナイマン」「ケレイト」「タイチウト」などである。 モンゴル帝国はやがて分裂・崩壊していったが14世紀後半になるとその後継を自負するティムール朝がトゥーラーン、マー・ワラー・アンナフル、ホラーサーン、ヒンドゥースタン、イラン、イラクを支配し、16世紀には更にその後継政権としてムガル帝国がインドに建国された。 14世紀にはアナトリアにオスマン帝国が興り、東ヨーロッパ、黒海沿岸、シリア、エジプト、イラクなどを支配した。 秦以降の長期間にわたり中国にあった王朝、前漢、新、後漢、晋(西晋・東晋)、明以外の元、清などは遊牧民(北と東北に住む異民族)の王朝そのものか、その支配層によって成立していた。匈奴は1世紀に南北に分裂し、南匈奴は後漢に服属し、北匈奴は後漢、烏桓、鮮卑に圧迫されてその姿を消した。ゲルマン民族の大移動を引き起こしたフン族が北匈奴の残党であるという説は有名である。西晋は南匈奴系の劉淵、劉聡に滅ぼされた(永嘉の乱)。この頃、東アジアで鐙が発明され、騎兵の戦闘力は向上した。南北朝時代を経て北朝の各王朝は北魏(東魏、西魏)、北斉、北周および隋を成立した楊堅と唐を成立した李淵も漢化した鮮卑系と言われている。また、ある学者は趙匡胤が成立した宋(北宋・南宋)漢族王朝に疑問を持っている。元は遊牧民の帝国であるモンゴル帝国の一部である、軍事力として多くのモンゴル集団を従属させている。 しかし、これら遊牧民の軍事的活躍は、鉄砲や大砲などの銃砲火器が発達するに連れて、下火となっていく。技術の進歩によって、射程距離、連射速度を伸ばした鉄砲の一斉射撃は、騎兵の突撃を騎射の射程外からも返り討ち出来るほどの水準となった。また大砲は軽量化、高性能化していって様々な場所に展開できるようになり、遊牧民の陣地も素早く、遠距離から一方的に攻撃できるようになった。戦術も発達し、三兵戦術の概念が編み出され、騎兵のみに偏った遊牧民の戦術は時代遅れなものとなっていった。また、農耕民は経済、科学力を発達させ、合理性に則って都市を建設していった。こうして出来上がった都市の行政機構は、遊牧民の略奪を容易に許さなくなっていった。
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