歴史上の隠居の実例とは? わかりやすく解説

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歴史上の隠居の実例

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 14:39 UTC 版)

隠居」の記事における「歴史上の隠居の実例」の解説

上代律令注釈書である『令義解』には、「凡ソ官人、年七十以上ニシテ致仕スルコトヲ聴セ」とあり、官人致仕望め年齢70歳以上規定されていた。隠居したからと言って、それで悠々自適の生活を送るとは限らない男性天皇譲位した最初の例は、奈良時代聖武天皇であるが、政治実権手放したではなく当時国家プロジェクトである東大寺建立主導している。むしろ、東大寺建立専念する目的があったとする説もある。 平安時代白河天皇は、皇子堀河天皇皇位譲って上皇となったが、1129年崩御するまでは政治実権掌握していた。これがいわゆる院政最初であるが、天皇上皇、または法皇となることも、一種隠居と言える。ただしこれはあくまで律令上の公職からの隠退であり、治天の君として皇室家督地位はなお保持し政治実権握っていた。むしろ律令束縛から脱した治天の君は、従来天皇をしのぐ強い権力持った専制君主であった在世中に治天の君地位をも退いた例は後鳥羽上皇後宇多上皇などごく僅かにとどまる。 鎌倉幕府では、摂家将軍藤原頼経が、将軍職からの離職迫られ嗣子の頼嗣に将軍職譲った。これは鎌倉将軍権力掣肘する目的があったものの、なお大殿称され将軍後見人として振舞った。また北条時頼以降は、執権から得宗へと実権移った。これは本当の意味での隠居とは異なるが、執権地位退いた者が、得宗としてなお実権を握る例が多かった室町幕府では、第3代将軍・足義満1394年、まだ9歳嫡男足利義持将軍職譲って出家し居所北山御所移している。しかし義満1408年51歳で死去するまでは、政治実権握り続けたこのように将軍職退いて大御所となることも、一種隠居と言えるこの後義持義量に、義政義尚将軍職譲りながらも実権保持したが、これらは将軍後継確定させる意図よるものである。足利義材義稙)は家臣細川政元により将軍職追われ実権のない隠居となり、以降政治実権のない守護大名およびその家臣傀儡という立場等し将軍続き最終的に1573年織田信長によって室町幕府滅ぼされた。 その信長であるが、順調に天下布武進めていた1576年嫡男織田信忠家督譲って隠居し居城岐阜城から安土城移している。しかし新築安土城は、隠居城というより政務の中心地であった。つまり信忠は、尾張美濃の国主として家督譲られたのであり、信長天下人として単なる2ヶ国の国主信忠より上位にあった。この隠居は、信長存命中から後継者立場明確にする目的との説がある。なお、信長隠居後、「上様」という呼称用いている。また信忠1582年甲州征伐主導しその手柄を賞賛した信長は「天下の儀も御与奪」、つまり天下人としての地位をも信忠譲り渡す意志表明している。直後本能寺の変起きたため、天下人としての信長隠居実現せず終わっている。 そのほか戦国大名では、後北条氏歴代当主のほとんどが存命中から隠居して家督次代譲って次代体制作り務めている。 豊臣政権下では、黒田孝高蜂須賀正勝浅野長政のように、国元領地経営嫡男任せて自身小禄太閤秀吉仕え隠居同然大名もいた。 江戸幕府開いた徳川家康1605年、つまり将軍職就任してからわずか2年で、三男徳川秀忠将軍職譲って居城駿府城移している。ただし、これは将軍職以後徳川氏によって世襲されるのであるということ諸大名朝廷知らしめるために行われただけであり、家康信長同じく、死ぬまで政治実権握り続けていた。現に、家康存命中に将軍職譲ったが、「源氏長者」の立場決し秀忠に譲らなかった。また江戸城幕府機構三河一大名として徳川家機構拡大したものであり、三河以来譜代大名固めていたのに対し駿府城家康周囲本多正純加え僧侶金地院崇伝外国人三浦按針商人茶屋四郎次郎などの、非武士層・譜代大名以外を含む、天下治めるためのシンクタンク固めていた。 その後秀忠徳川吉宗徳川家斉なども、将軍職息子譲って隠退し大御所として政治実権握り続けている。しかしながら大御所として江戸城とは別に設けた隠居城に住み幕府とは別に多く人材周囲集めたのは、家康のみであった江戸時代藩主なども隠居して隠居後に「大殿」、「中殿先々代存命場合)」と尊称された例は多い。しかし藩主においては隠居して後も実権握っていた例は少なく、また隠居したのも病気理由にという例が少なくないまた、藩主不行跡などで家臣団からの反発受けて強制的に後継者家督譲って隠居する強制隠居主君押込)例もある。 江戸時代後期以降には、隠居した藩主実権保持または回復し実質的な藩主として振舞った例が多くなり、場合によっては藩主廃立行った例も存在する代表的な人物として米沢藩の上治憲(鷹山)や土佐藩山内豊信(容堂)、盛岡藩南部利済がいる。 また、諸藩家臣においては隠居後家老まで昇進したものもおり、飫肥藩平部嶠南米沢藩莅戸善政これにあたる農家商家隠居は、子が一人前となるなどの条件整い家業相続することによって可能となった家督譲られた子は隠居した親に住まいとなる隠居所や耕作地与え自活できなくなったときには扶養する義務があった。また、農村では隠居することで公共事業への参加義務免除される仕組み合った

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