歴史上の隠居の実例
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上代の律令の注釈書である『令義解』には、「凡ソ官人、年七十以上ニシテ致仕スルコトヲ聴セ」とあり、官人が致仕を望める年齢は70歳以上と規定されていた。隠居したからと言って、それで悠々自適の生活を送るとは限らない。男性の天皇で譲位した最初の例は、奈良時代の聖武天皇であるが、政治の実権を手放した訳ではなく、当時の国家プロジェクトである東大寺建立を主導している。むしろ、東大寺建立に専念する目的があったとする説もある。 平安時代の白河天皇は、皇子の堀河天皇に皇位を譲って上皇となったが、1129年に崩御するまでは政治の実権を掌握していた。これがいわゆる院政の最初であるが、天皇が上皇、または法皇となることも、一種の隠居と言える。ただしこれはあくまで律令上の公職からの隠退であり、治天の君として皇室の家督の地位はなお保持し、政治の実権を握っていた。むしろ律令の束縛から脱した治天の君は、従来の天皇をしのぐ強い権力を持った専制君主であった。在世中に治天の君の地位をも退いた例は後鳥羽上皇や後宇多上皇などごく僅かにとどまる。 鎌倉幕府では、摂家将軍の藤原頼経が、将軍職からの離職を迫られて嗣子の頼嗣に将軍職を譲った。これは鎌倉将軍の権力を掣肘する目的があったものの、なお大殿と称され、将軍の後見人として振舞った。また北条時頼以降は、執権から得宗へと実権が移った。これは本当の意味での隠居とは異なるが、執権の地位を退いた者が、得宗としてなお実権を握る例が多かった。 室町幕府では、第3代将軍・足利義満が1394年、まだ9歳の嫡男・足利義持に将軍職を譲って出家し、居所も北山御所に移している。しかし義満も1408年に51歳で死去するまでは、政治の実権を握り続けた。このように、将軍職を退いて大御所となることも、一種の隠居と言える。この後も義持が義量に、義政が義尚に将軍職を譲りながらも実権を保持したが、これらは将軍後継を確定させる意図によるものである。足利義材(義稙)は家臣の細川政元により将軍職を追われて実権のない隠居となり、以降政治の実権のない守護大名およびその家臣の傀儡という立場に等しい将軍が続き、最終的には1573年、織田信長によって室町幕府は滅ぼされた。 その信長であるが、順調に天下布武を進めていた1576年、嫡男の織田信忠に家督を譲って隠居し、居城も岐阜城から安土城に移している。しかし新築の安土城は、隠居城というより政務の中心地であった。つまり信忠は、尾張・美濃の国主としての家督を譲られたのであり、信長は天下人として単なる2ヶ国の国主の信忠より上位にあった。この隠居は、信長が存命中から後継者の立場を明確にする目的との説がある。なお、信長は隠居後、「上様」という呼称を用いている。また信忠は1582年の甲州征伐を主導し、その手柄を賞賛した信長は「天下の儀も御与奪」、つまり天下人としての地位をも信忠に譲り渡す意志を表明している。直後に本能寺の変が起きたため、天下人としての信長の隠居は実現せずに終わっている。 そのほかの戦国大名では、後北条氏の歴代当主のほとんどが存命中から隠居して、家督を次代に譲って、次代の体制作りに務めている。 豊臣政権下では、黒田孝高、蜂須賀正勝、浅野長政のように、国元の領地経営を嫡男に任せて、自身は小禄で太閤秀吉に仕える隠居同然の大名もいた。 江戸幕府を開いた徳川家康も1605年、つまり将軍職に就任してからわずか2年で、三男の徳川秀忠に将軍職を譲って居城を駿府城に移している。ただし、これは将軍職が以後は徳川氏によって世襲されるものであるということを諸大名や朝廷に知らしめるために行われただけであり、家康も信長と同じく、死ぬまで政治の実権は握り続けていた。現に、家康は存命中に将軍職は譲ったが、「源氏長者」の立場は決して秀忠に譲らなかった。また江戸城の幕府の機構が三河の一大名としての徳川家の機構を拡大したものであり、三河以来の譜代大名で固めていたのに対し、駿府城の家康の周囲は本多正純に加え、僧侶の金地院崇伝、外国人の三浦按針、商人の茶屋四郎次郎などの、非武士層・譜代大名以外を含む、天下を治めるためのシンクタンクで固めていた。 その後、秀忠や徳川吉宗、徳川家斉なども、将軍職を息子に譲って隠退し、大御所として政治の実権を握り続けている。しかしながら、大御所として江戸城とは別に設けた隠居城に住み、幕府とは別に多くの人材を周囲に集めたのは、家康のみであった。 江戸時代の藩主なども隠居して、隠居後に「大殿」、「中殿(先々代が存命の場合)」と尊称された例は多い。しかし藩主においては、隠居して後も実権を握っていた例は少なく、また隠居したのも病気を理由にという例が少なくない。また、藩主の不行跡などで家臣団からの反発を受けて、強制的に後継者に家督を譲って隠居する(強制隠居、主君押込)例もある。 江戸時代後期以降には、隠居した元藩主が実権を保持または回復し、実質的な藩主として振舞った例が多くなり、場合によっては藩主廃立を行った例も存在する。代表的な人物として米沢藩の上杉治憲(鷹山)や土佐藩の山内豊信(容堂)、盛岡藩の南部利済がいる。 また、諸藩家臣においては隠居後に家老まで昇進したものもおり、飫肥藩の平部嶠南や米沢藩の莅戸善政がこれにあたる。 農家や商家の隠居は、子が一人前となるなどの条件が整い、家業を相続することによって可能となった。家督を譲られた子は隠居した親に住まいとなる隠居所や耕作地を与え、自活できなくなったときには扶養する義務があった。また、農村では隠居することで公共事業への参加の義務が免除される仕組みが合った。
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